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その街は眠らない。

 昼間は生き物の気配はなりを潜め、そびえ立つ建物の群れだけが自己主張をしている。

 この街の夜に蠢く住人達の情念や欲望は、亡霊のように、昼間の街を漂っている。その亡霊達は無機質なはずのコンクリートの群れに浸み付き、無機質なコンクリートにさえ、暗鬱とした生を与えている。

 夕闇に街が覆われる頃、暗鬱とした生が、醜さと美しさを併せ持つ剥き出しの生へと変わっていく。闇が濃くなるにつれ、街は明るさを増して行く。満艦飾のネオンサイン、着飾った女達。女達の吐き出す毒を受け止める男達。そんな人間達が街を闊歩していく。

 俺も、その街の住人だった。

 夢を追いかけて、夢を掴む為に都会へ出たはずなのに、いつの間にか流れ着いていた。

 夢に敗れた。

 そんな話じゃない。

 夢を追う事に疲れただけだった。

 ただ、無作為に日々を過ごすうちに、情熱を失った。

 夢を追いかける事に疲れたんじゃない。夢を追いかける事すら諦めた。全てを諦めた俺は、この街の住人になった。

 住処は、きらびやかなネオン街の影にひっそりと申し訳なさそうに建つ汚れたビル。

 半地下の階段を下りると、古ぼけたドアがある。

 カウンターの席が七つ。小さな店だった。

 カウンターの奥には酒を並べた棚。

 ああ、そうだ。

バカルディだけは切らさないようにしていたな。

 理由は簡単だ。

 単に、俺が好きな酒だからだ。

 客は日に何人か、片手で数えられる程度だった。

「お前も、諦めてこの街の住人になれ」

 この店を前のマスターから託された時、言われた。

 それ以来、その小さな店は俺の住処になった。

 あの時、マスターから言われた言葉に反発していれば、俺の人生は違っていたんだろうか。

 いや。何も変わりはしなかっただろう。

 俺はこの街に足を踏み入れた時、既に全てを諦めていたのだろうから。

 俺には、酒を舐めながらただその日を過ごす生活が性に合っている。

 これからもずっと、無作為な日々を過ごし、そのまま朽ちていくだけだった。

 いつからこんな風になったのか。

 俺は、ずっと前からこうだったのか。

 そんな事を考えるのも面倒くさい。

 過ぎた日々に思いを馳せるなんて、そんな未練を持ち合わせる情熱も既に失っていた。

 ただ、レコードだけは手放せなかった。

 コレクションと言うほど立派なものじゃない。

 コツコツと十代の頃から買い集めていたレコードが、百枚程度。

 ジャンルはロックに集中している。

 夢を追いかけていた頃の、唯一の名残だった。

 世の中には、俺と同じように夢を追いかけ、諦めた連中がゴマンといる。

 そう言う奴らがふらりとドアを開け、棚のレコードを手に諦めた夢を懐かしむ。

 そんな連中の為に開けている様な、場末のバーのマスター。

それが俺だった。

あの日、開店前にラジオをかけていなければ、もしかしてあいつには遭わなかったのかも知れないんじゃないかと思える。多分、そうなんだろう。ラジオなんて滅多に聴かないのに、珍しくスイッチを入れてしまった。それが運命だったとしたら、ラジオのスイッチを入れなかったら、俺には別の運命があったのかもしれない。

開店前、と言っても決まった時間は無い。気分次第で早く開ける時もある。気分が良いからじゃない。ただ、いつもより早く目が覚めてしまっただけで、気分の良い事なんて別にある訳じゃない。 

とにかく、その日はいつもより眼が覚めるのが早かったから、いつもより早く店を開ける気になっただけの事だ。

ラジオを聞き流しながら、気の抜けた掃除をしていた。

前夜に放ったままにしていた汚れたグラスを洗っている時、懐かしい音楽が、いきなり耳に流れ込んできた。

“It’ not in the worlds that you told me It’s not in the way you say that you’re mine・・・・・・・”

スティーブ・ルカサーのギターソロが耳に響く。

強い郷愁が胸の中に拡がった。

HOLD THE LINE

TOTOだ。

俺は水を流しっぱなしのままカウンターから出て、レコードの棚に向かった。

何枚かのレコードを指先で繰り、それを探し出した。

真ん中に剣がデザインされたジャケット。

“最もミュージシャンとして技術があるのは誰か”

そんな事を飽きもせず、何時間も仲間と語り合った事もあった。

 名のある数々のバンドを語っていくうち、落ち着く先は

「TOTO」

だった。

スタジオミュージシャンとして、ビックネームから引きもきらない要請を受け、なおかつ自らもビックネームになった。

スタジオミュージシャンとしてセッションに参加する、一流の技術が集まったバンドなんだから、その技術は結成時既に他を圧巻していた。そして自ら、最高の音楽を作り出す。だから、TOTOは最高のバンドだ。産業ロックだなんて言い草は、技術の高さに太刀打ちできない奴らのやっかみだ。俺達だって、テクニックなら他のバンドより上だ。奇を衒ったり、見てくれだけで技術の無い奴らが、大きな顔をしてミュージシャンだと言い放っている、そんなのは音楽なんて呼べない。俺達は自分達のサウンドを産み出すんだ

そんな事を、頬を高潮させて声高に言っていた事もあった。

遠い昔の事だ。

俺は、手に取ったレコードをテーブルに置いて自分を笑った。

 ドアが開いた。

 半地下のドアの向こうは、薄暗い店の明かりと同じくらい暗かった。

「まだ開けてねぇよ。出直してくれ」

 ドアに向かってぶっきらぼうに言った。

「まあ、そう言うな」

 半分ほど開いたドアから、男が顔を覗かせた。

「ああ」

 男の顔は見慣れている。

 このあたりの所轄の刑事で、安田と言う男だった。

「どうした、安っさん」

 安田は面白くも無い顔で、店の中に入ってきた。

 安田の後ろから、若い男が入ってきた。

 初めて見る顔だ。白髪交じりの胡麻塩頭で、管散れたスーツの安田とは正反対に、真新しいスーツとネクタイ。短く刈り込んだ髪と、髭の薄い顔が清潔感を醸し出している。

 若い男は、緊張した面持ちで俺に会釈した。

 安田は、所轄の中でも古株で、俺との付き合いも長い。俺がこの街に流れ着いた頃には、既に警官としてこの街にいた。もう、定年が近い歳になっただろう。

「このボウヤは、今の相棒だ」

「ムナカタです」

 ムナカタと名乗る若い男は、俺に名刺を差し出した。

 片手で名刺を受け取って、何気なくその印刷された名前を見た。

 刑事部。 

 所属も肩書きも、俺には何の興味も無かった。だが、その下の名前に一瞬眼が止まった。

 その字面に、軽い違和感を覚えた。

 棟方陽平。 

 なんだ、俺と同じ名前じゃないか。

「なんだ、お前と同じ名前だな。葛木。気がつかなかったよ」

 安田が、名刺を覗き込んで言った。

「同じ名前ですか」

 緊張していた若い男、棟方が固い表情を緩ませた。

「ああ、俺の下の名前は陽平だ」

「へえ、偶然ですね」

 俺は無表情で、棟方を見た。同じ名前、同じ字面と言っても、別に珍しい名前な訳じゃない。今日初めて会った男が偶々同じ名前だったとしても、俺がこいつに興味を持つわけじゃない。

 その時は、そう思った。

 ただ、何かもやもやとした遣り切れない感情が湧いて来た。

 今思えば、忘れていた遠い過去が、俺に何かを告げようとしていたのだろう。

 そして、更に今思い返せば、その偶然は運命だったのかもしれない。

 今思えば、の話だ。

 安田は、カウンターの椅子に腰を掛けた。

 棟方は、安田の隣に立ったまま、カウンターの上に視線を動かしている。

 棟方の視線は、カウンターのある場所で、止まった。

 俺が放り出した、TOTOのアルバム。

 棟方は、食い入るようにアルバムのジャケットを凝視していた。

 俺は、ウィスキーのボトルをカウンターの下から出し、安田に瓶を振って見せた。

「今、勤務中だ」

 安田は苦笑いしながら、手を振った。

 俺は洗ったばかりのグラスを一つ取り、ウィスキーを注いだ。

「飲んだくれが」

「自分で買った酒飲んでるだけだ」

 安田は、何故かため息を一つついた。

「ここんとこ、お前みたいな、死んだ眼ぇしてる奴ばっかり見せてるからな。将来性のある国立大出のエリートに悪い影響でも出るんじゃねぇかってひやひやしてるんだ」

 安田は、棟方にちらりと視線を向けた。別段、本気で若者の将来を案じている様子は無い。ジャケットを見つめていた棟方は、安田に頼りない笑いを返した。

「勝手に言ってろ。この街で生きるには、死んだようにしてるしかないんだよ。エリートさんなら、すぐに配置換えでこんな街から出て行くだろう」

「まあな」

 俺達の会話で引き合いに出されて、棟方は所在無げに、益々頼りなく笑った。

「ところで」

 棟方を一瞥して、安田は俺に向き直った。

 棟方が、一瞬緊張した表情をし、手帳を胸ポケットから取り出した。

「近頃、また出回ってるらしいんだが」

 安田が言っているのは、ドラッグの事だ。

 この街では、ヤクの売人があちこちに潜んでいる。

 別に珍しい事じゃない。

 警察が取り締まると、一旦は身を潜めるがすぐに密売を再開する。

 警察と売人のいたちごっこは、いつまでも続く。

 ここ暫らく、身を潜めていた売人達が、近頃動き出したのは俺も知っていた。

 この店の客には、売り手も、買い手もいる。

 安田は、その情報を聞き込みに来たのだ。

「悪いが、俺は何も知らねえよ」

 俺は、無表情に言った。

「まあ、なんかあったら、知らせてくれりゃいい」

 安田が、俺に聞き込みに来るのは、訳がある。

 俺が、たまに情報を流すからだ。安田達は、俺の情報を元に内偵を進め売人を挙げたことが何度かある。それだけ、俺の情報が有効なものなのだ。

 俺は無言で頷いた。

 安田は、満足気に頷き、椅子から立ち上がり

「行こうか」

 棟方に声を掛けて、ドアに向かって歩き出した。

 棟方は慌てて、俺に会釈をした。身体をドアの方に向けながら、もう一度カウンターの上にジャケットに眼を向けた。

「なんだ、そいつに興味があるのか?」

 俺は、大して意味も無く棟方に問いかけた。

「ええ、まあ」

棟方は、何故かはにかんで答え、何かを言おうと口を動かした。

「何してる、行くぞ」

 棟方の言葉は、安田の声に遮られ俺には聞こえなかった。

「じゃあ、またな」

 俺は棟方に言った。

 意味なんか無かった。そう。

 意味なんか、無かったんだ。

 棟方はまた、俺に会釈して、急ぎ足で安田の後を追ってドアから出て行った。

 独りになった俺は、掃除をする気も失くし、カウンターの中に置いた丸椅子に腰をかけて酒を舐め続けた。

 社交辞令ほどの意味も無い、感情もくそも無い会話。

 何故、あいつと言葉を交わしたんだろう。

 何かを感じたわけでもない。真実、俺にとっては意味が無かったんだ。

 意味が無いから、何の期待も無い。それに、未来(さき)の事を想像して期待するなんて事は、とうの昔に忘れていた。

 それほどに、意味は無かったんだ。

 それなのに。

 あの時、話をしなければ、二度と会う事もなかったかもしれない。ほんのひと言の会話が、運命を動かしたんだとすれば、俺はそれを後悔する。

 その日は朝から雨が降っていた。

 いつものように、惰性で寝床から這い出し、築何十年経ったのかわからないくらい古いマンションから重い足を引きずるようにして店に出てきた。

 やる気の無い掃除を済ませ、ラムをグラスに注ぎ、ぼんやりとタバコを銜えながら有線から流れる音楽を聞き流していた。

 近頃、妙に昔の曲を耳にする。

 八〇年代、九〇年代初めの頃の音楽が多い。

 テレビをつければ、あらゆる曲がリミックスされて、あるものは影も形も無いくらいに壊されて流れている。

 良くも悪くも懐かしい曲ばかりだ。

 俺と同じ時代を過ごした奴らが流行を作る側に回ったからだろうか。

夢に溢れていた頃、夢を追いかけながら聴いていた音楽。それらがまた、身近にあの頃とは違う音楽として流れている。

 有難いのは、感傷に浸ることが出来ないくらいに原曲とかけ離れてくれている。

 あの当時の、あの頃のままの音を聴けば、怖い位に自分の中に思い出が蘇る。

 つるんでいた仲間。付き合った女。考えていた事。将来の夢。

 一つの楽曲から、数え切れないくらいにあらゆる思い出が蘇る。

 思い出した後、残るのは切ないやるせなさ。

 音楽の記憶とは、そう言うものだ。

 少なくとも、俺の場合はやるせない感情だけが蘇る。

 デュランデュランの真似事をしているコピーバンドを、鼻で笑っていた。外見より腕を磨けと。

 そんな時代もあった。

 夢を追いかける事すら諦めた俺には、遠い過去だ。


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