Ⅰ
月が浮かんでいる。
白い。
青を含んだ白い月。
黒の暗い空に、そこだけが青白い。
それはまるで、別の世界の入り口のようにくっきりと円く、白い光を放っている。
昼間はぼんやりとして少しも気がつかないのに、夜の闇に包まれた世界のなかでその姿を主張している。
主張しているのに、少しも強くない。
静かに、あくまで控えでいても、夜の闇はその主張を際立たせようとするかのようにあくまでも暗い。
風に乗った雲が通り過ぎていく。
黒の中では少しも形を見せない夜の雲は、その静かに光を放つ天体の前を通り過ぎる時だけ、わずかにその姿を見せる。
輪郭を闇に滲ませた雲が、月の前では昼間と同じように白い姿を見せる。
白い月の光に照らされた時、白い雲が本来の色を表す。
何と言ったらいいのか。
ふさわしい言葉を知っている気がする。
幽か。
違う。もっと違う言葉だ。
そう。
幽玄―。
捉えどころがない、言葉で表そうとすると逃げていきそうな、幽かで厳かな光景。
月が丸い。
今日は満月だったか。
だが、こんなにくっきりと白い満月は、生まれて初めて眼にしたような気がする。
昨日はどうだったのか。
眼を閉じる。
月の明りが閉じた眼に染みて来る。
昨日の月は、思い出せない。
毎日見ているだろうに。
それとも、見ていないから思い出せないのか。
毎日何をして過ごしているのだろう。
いつからここに在るのか。
いつからここに居るのか。
昨日はどこに居た。
もっと前は。
何故、ここに居る。
今までの自分は何をしていたのか。
今の自分は何をしているのか。
眠っているのか、起きているのか。
それすらもわからない。
ただ、ここにいる。
名前は。
俺の名前は・・・・・・。
頭の中の記憶を辿る。
霞がかかった様に、ひどくぼんやりとしている。
すぐ手が届きそうなところにあるのに、それは膨大なものであるはずなのに、何故だか何一つ形を成さない。
しばらく形にならない何かを探る。ようやく形になりそうなものを見つけ出し手を伸ばそうとする。
だが、その瞬間に、ミストのように散り散りになって消えていく。
頭の中の全てに、霧がかかっているようだ。
何も思い出せない。
俺の記憶は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
父の顔。
母の顔。
兄弟はいたのか?
子供の頃好きだったもの。
大人になって好んだ酒。
全ては、朦朧として頼りない。
人間と言うものは、記憶で成り立っている。
一個の生命体が記憶を持つことによって、人としての己を確立している。
親である生命体から産み出され、親である生命体との係わりを持ち、自我を作り上げて行く。やがて様々な他と係わり、自己を育て上げていく。
何かを眼にする度、何かに触れる度、何かを耳にする度、その感触を脳髄に記憶させ、感情を発芽させて行く。感情は、記憶と結びつき、思い出になる。
例えば。
匂い。
好きな食べ物の匂い。好きな酒の匂い。好きな女の匂い。匂いの記憶は大抵懐かしさを呼び起こす。
例えば、音楽。
大事な思い出の中には、いつも音楽があった。
駆り立てられる想い。
失っていく情熱と、失いたくなかったもの。
甘酸っぱい想いが、音楽と共に拡がっていく。
何か・・・・・・。
何か、大事なものが垣間見えた気がする。
力強いギター、心地良いパーカッション、キーボードの巧みなアレンジ・・・・・・。
“Meet You All The Way”
“おまえといたい”
―――。
何か大事な事を忘れている。
失くしてはいけない、大事な記憶がそこにある。
だが。
頭の中の靄は、晴れてはくれない。
ようやく形に成りそうだった記憶は、靄の中へ滲んで消えていく。
ああ、逃げてしまった。
逃げていく記憶は、切ない想いだけを残して遠くへ去っていく。
思い出せない記憶は、感情だけを置き去りにする。
切なさが身体中に拡がる。
記憶を追いかける事を止めると、切なさは同時に甘美に換わり、全てをあきらめるように促す。
これが普通なら。
自虐気味に考える。
普通なら、不安に駆られるだろう。
何故なら、記憶こそが人として自分を証明するものだから。
何も思い出すことが出来ない。
だが、思い出せない事は苦しくない。
むしろ、記憶が形に成らない事が心地良い安息をもたらす。
思い出す必要など無いのだと、言い聞かされているようだ。
全てを捨てるということは、生きてきた記憶を捨てることなのだろう。
全ての係わりから外れる事が、却って心地良い。
どうでもいいことだ。
月の光が身体の中を満たしていく。
月の光に浸食され、自分が消えていく。
このまま、消えていくのだろう。
記憶も。
身体も。
そして、存在すらも。
それが、自分にはふさわしい。
「そいつはまずいですよ、葛木サン」
闇が言った。
「どうでもいいなんて、言っちゃァいけません」
闇は、甲高い声で言った。
「人間てのは、記憶が全てなんです。赤ん坊から子供になり、少年から青年になり、そして大人になる。全ては経験した記憶で形成される。記憶は生きてきた証なんすよ」
声が近づいてくる。
ゆっくりと。
「記憶を捨てるということは、アナタの生きてきた証を捨てるということなんすよ。わかってますかァ?アナタがアナタでなくなるんすよ、葛木サン」
カツラギ?
声がそう呼ぶのは、俺の事なのだろうか?
「アナタのことですよ、葛木 陽平サン」
声が正面の少し上の位置で聞こえた。
どうやら、声の主は俺の正面で俺を見降ろしているようだ。
閉じていた眼を、薄く開く。
月明かりを背にして、闇が立っていた。
月明かりの白の中に、黒く塗りつぶされた輪郭が浮かんでいる。
輪郭が、声を発した。
「人であった記憶が薄れていくのは、良くない兆候なんすよ。記憶が薄れれば人としての自我も薄れていく。やがて、全ての記憶が失われれば、人であった存在も失われる。人としての存在を失った魂は、どこにも行けずに、永遠の時間を彷徨う」
黒い輪郭は、人の形をしていた。
塗りつぶされていると思えたものは、男の服装のせいだった。
黒いシャツに、黒いネクタイ。そして黒いスーツ。ご丁寧に、黒い薄手のコートまではおっている。目深く被った黒いハンチングから、わずかに眼の光が漏れている。その眼は笑っていた。口角が上がり気味の口元も、にやけたような笑いを浮かべている。
「そして、運が悪ければ邪悪なものに取り込まれ、邪悪な念として、生きる者へ悪い影響を及ぼす。アタシは、そんな事にならないように、成仏できない魂を導くのが仕事なんすよ。葛木サン」
こいつは、いきなり現れて、何を言っているんだろう。
成仏?タマシイ?
それは、およそ生き物へ投げかける言葉として当てはまるものではないだろう。
俺は当てはまっているというのか?
俺は、魂なのか?
では、この身体はなんだ。
膝の上に、両の掌を拡げてみる。
間抜けな事に、初めて自分がベンチに腰掛けている事に気がついた。
膝の上の両手は、夜の闇に溶けるように透けている。
手を握ってみる。
そしてまた開く。
繰り返し続けても、透けた両手ははっきりしない。
どういうことだろう。
俺の身体は、一体どうなったんだろう。
「アナタの身体は、もうこの世には存在しません。今のアナタは、身体を持たないただの意識体です。その意識体を、魂と呼ぶんです」
目の前の男は、俺の正面で背筋をピン、と伸ばした。
そして、さっきまでのにやけた笑いは消え、神の奇跡を告げる使いのように厳しい顔を作った。
男はゆっくりと右手を上げた。上げた手の人差し指を俺の額に突きつけて、宣告した。
「そう、葛木 陽平サン。アナタは死んだんです」