中央図書館
その日、給料日に発表されたターニャへの借金が半分になったとの事実に、あたしは浮かれていた。
よって、ジタンも浮かれていた。
予期せぬ嵐は、そこまで来ていたのに。
「ようやく半分か」
「俺がんばった!?誉めてくれる!?」
「がんばったがんばった」
ジタンに出会って一ヶ月、ようやくこの甘えた小僧にも慣れ、ついでに仕事も慣れてきた頃。
たまの休みに本来の仕事でもしようかと、あたしとジタンは、街の中央図書館に向かっていた。
この街には膨大な量の本が貯蔵してあり、魔術師間では知識の宝庫とまで呼ばれている。
図書館は中央、東西南北と五つあり、中でも、中央図書館は近隣に名を轟かすほどの貯蔵量だ。
治安もよく、魔術師は聖職者同様、崇拝の対象ともなっている。
同時に畏怖の対象でもあるが、それは仕方ないことだった。
「図書館かあ。俺、初めて行くよ」
「あの洞窟の魔法陣について、載ってるかもしれないからね」
隣接する森の情報だ。
大した収穫はなくとも、欠片程度は知ることが出来るかもしれない。
「俺のために!?」
「ウィンズが俺のために、ウィンズが俺のために」と呪文のように唱えるジタンに苦笑しながら、絡みつくでかい子を引きずって歩いていた。
立派な中央図書館に到着したなら、あまりの立派さに、ジタンはぽかんと大口を開けていた。
「やめなさい」
美少年面が台無しだ。
そもそも、ジタンには知識と教養が大幅に欠けている。
いくら永い時を封印されていたといえ、人狼族ともなれば太古から続く由緒ある獣人族。
永きに渡って培われた知識と誇り高きプライド、野性味溢れながらも洗練された教養があると、もっぱらの噂だったはずだが……。
「おっきーい」
欠片も見当たらない。
外見は青年でも、中身はまだまだ少年だ。
それはよろしくない。
そう、うっかりといえ、あたしがこの子の主となったからには、教育を施す義務があるのだ!
「ジタン、よく聞いて」
「?」
にこにことした黒い瞳と目が合う。
……ばかっぽい。
「あんたは、勉強をしなさい」
「勉強?」
「そう、あたしが片手間で教えてあげるから」
如何にも体で覚えるタイプだが、上手く教えれば、それなりに身につくはずだ。
基礎がないだけでばかじゃない。
それは、一ヶ月で何となくわかっていた。
そしてあたしはこの一ヶ月で、ジタンの扱いもわかってきたのだ。
「がんばったら、ご褒美あげちゃおうかな」
「ごほうび……!」
顔の前に人参をぶら下げればいいと。
ジタンはそれはがんばっていた。
もともと共通語を読めるばかりでなく、何と彼は、人狼語はおろか古代人狼語までもを読み書き出来たのだ。
三時間足らずで兎族、狐族、鹿人族語の基礎をマスターしたことには、流石のあたしも感心を通り越して脱帽した。
おばかに見えておばかじゃなかった……!
「えらい、えらいよジタン!」
これでもかと撫でつけてやれば、それは嬉しそうに喜んでがんばるものだから、また輪を掛けて誉めてやる。
完全に親ばかな気分だ。
「よくもまあ、するすると覚えるもんだね」
あたしでさえ、異種族語を覚えるには苦労した。
たった三時間程度でこれだけ身につけられるなんて、天才としか思えない。
感心して見ていれば、ジタンは笑ってこう言った。
「これ全部、ウィンズが知ってることだよね」
頷いて見せれば、やっぱり、と何故かばつ悪そうに頭を掻く。
「ウィンズが知ってるから、覚えるのが早いんだよ。繋がってるからだと思う」
なるほど。
契約とは、そういう共有の仕方もあるのか。
とはいえ、本当のばかならここまでは出来ない。
ということはだ。
「魔術も……覚えることが出来る、とか?」
腐っても人狼族。
しかもジタンは、純血種だ。
契約の儀を施行したことから考えて、魔力皆無なわけはない。
「出来ないことはないと思う。ウィンズが魔術師だから。でも、全部は出来ないかも……」
伏せることなく真っ直ぐにあたしを見て、その黒が、あっという間にうるうると悲しげに潤んでいく。
どうやらジタンは、とにかく、あたしの期待に応えられないのが心底悲しいらしい。
これもまた、一ヶ月でわかったことだ。
だからあたしは、
「無理はしないでいいから。ジタンは充分いい子だよ。がんばってるし、あたしは充分嬉しい」
──ひたすら誉める!
誉めて誉めて、誉めちぎって育てるのだ!
そして、ひたすらに撫でる!
本当の親みたいな気分になってきた。
……それもどうなの。
「取り敢えず、魔術の歴史と基礎だけは読んで覚えようか。これなら、あたしも知ってることだし覚えられるはずだから」
「うん!」
元気よく返事をしたジタンに笑みを浮かべ、本を手渡してから、あたしはあたしのやるべきことを探しに席を立った。
今あたしのやるべきことは、取り敢えず、ただ一つ。
『歴史』と掛かれた本棚を見上げ、重厚さ漂うそこへ、挑むように足を踏み入れた。
人狼族の歴史、アギズス森林の歴史、アルジア国記、アルジア伝承記。
目ぼしい本を片っ端から取り出して目を通す。
薄暗い通路に小さな灯りだけを浮かべ、目を皿のようにしてページに走らせた。
アギズス森林とは、ジタンを拾い、洞窟があったあの森のことだ。
その隣のアギズス平野と呼ばれる広大な土地に、アルジアが建国されたのは五百年前。
……五百年前?
国記を膝に置き、人狼族の歴史を手に取る。
さらに遡ること百年、六百年前に、アギズスの人狼族ではシンギ・メロウを新しい族長に立てている。
たった百年で、いなくなるってどういうこと?
移住するにしても、あの森にはこれといった問題も見当たらない気がする。
また国記を手に取り、近い年代のページを開いた。
“アルジア建国時、族長シンギ・メロウ率いるアギズスの人狼族は、平野のみならずアギズス森林が荒らされることを懸念し、アルジアに宣戦布告。”
「“三十年続いた戦火は、アルジア国将軍ジェイズ・カーネストが連れてきた『白き魔女』によって、終戦を迎えた”──!?」
やっぱりか!
歴史とは事実であっても、真実とは限らない。
強者が作り、記し、遺していくのが歴史だ。
少しばかり目を離した隙に、あの悪女はまた、やりたい放題してたということか。
むかむかとした感情は、深く深く、あたしの顔に皺を刻んだ。
あいつめ、いくつになったら更正するんだ。
せめて何をやるにしても、もう少しおとなしく出来ないもんか。
あの『伝説』と呼ばれる裏魔術師だって、一応は、裏世界で行動してるというのに。
目立ってるけれど。
「目立つのすきだもんなあ……」
ほう、と漏れた溜め息は、言葉と共に、ふいに拾われた。
「誰が?」
「……ん?」
背後から射した影は、薄暗い中でより濃くあたしを包んでいた。
「姉が」とはもちろん言えず、どちら様かと振り向いて、しばし記憶の糸を辿る。
「……」
「……」
きらきらと僅かな光さえ纏っては飛び散らせる見事な金髪は、無造作ながらも洗練されたショートヘアで。
影になっていても透き通るほどの見事な碧い瞳は、人好きしそうな光を宿している。
二十代前半といったところの、すこぶる見目麗しい青年がそこにいた。
「……」
「……誰だっけ?」
「ああ、やっぱわかんないか」
あはは、と笑ったその顔に、ふと、旧友が重なる。
「……ターニャの!?」
「久しぶり、ウィンズ」
それは見事に母親似の笑顔で、彼は、ハスキーになった声でそう言った。
ジタンは不機嫌だった。
初めて見るそれは、何というか、とにかくわかりやすいほどにだ。
原因は彼──ターニャの息子、イリッシュ・イザベラだと思う。
たぶん。
久しぶりに再会したイリッシュは、それは大きくなっていた。
最後に見たのは確か、十歳くらいの時だったか。
小さくてふわふわで、そりゃあもう、昔っから綺麗な子だったけれど。
図書館の奥の個人自習室では、現在、抱きつき虫と化したジタンがあたしの右腕をホールドし、向かいに座る笑顔のイリッシュに、何故か威嚇を開始している。
何なんだ。
「はじめまして。俺はイリッシュ・イザベラ。ターニャの息子だよ」
「……」
笑顔なイリッシュを見事にスルー。
「ほら、挨拶は?」
「……しなきゃ、だめ?」
しない理由がわからん。
あたしの顔を見た途端、ぴんと立っていた耳がへたりと伏せる。
懇願するような瞳はお得意のうるうる攻撃で、ばしばしとあたしに撃ち込んできていた。
だめだ、あたしが負けそう!
何がだ!
異常に警戒を見せるジタンに首を捻る。
どうしたというのか。
思わず漏れた溜め息に、びくーっ!と、ジタンの肩が揺れた。
ふるふると震える手が、皺になるほど、ぎゅうううっとあたしの袖を掴む。
「さっきからどうした」
「俺のこと嫌いになった!?」
……何で?
真っ直ぐな瞳は本気だ。
会話は成り立っていないが……推測するに、さっきの溜め息に反応したと思われる。
ああ、溜め息にも気を遣うべきか。
いや。
もしかしたら、ジタンはこわいのかもしれない。
誰かに厭われること、一人になることが。
そう考えたなら、出会ってすぐのあたしと契約をしたことも、何となくわかるように思えた。
自分にとっての絶対的存在を手に入れておきたかったのだ。
それがどう、お姫様と繋がるのかはわからないけれど。
「嫌いになんてなんないから。ほら、挨拶は?」
ぎゅう、と寄った眉間の皺が、どれだけ嫌かを物語っているが。
誰かに厭われることを嫌うなら、この行動はないか?
飯屋で働く時だって、あっさり否定を口にした。
──あたしには嫌われたくないだけ、とか?
「困ったな」
あんまり困ってなさそうなイリッシュはそう言って笑い、ジタンの胸の内は計り知れないまま。
取り敢えず、ジタンとイリッシュは仲良くなれなさそうだった。
「……ジタン・トーチ」
あれから三十分後。
宥めに宥めて、ようやく自己紹介は済んだ。
しばらくはターニャの飯屋に泊まるのだから、上手くやってもらわないと困る。
案の定、イリッシュは実家兼飯屋に帰るのだと言った。
「イリッシュはどれくらいうちを出てたの?」
ジタンがやる気をなくしたので図書館を出た帰り道。
警戒網を張るジタンを右腕に引っつけ、左側のイリッシュに問い掛ける。
「三年くらいかな。魔術師の修行に行ってたんだ」
「魔術師の!」
やはりターニャの息子、魔力があったのか。
しかし……。
「ウィンズならわかると思うけど、俺の魔力は微弱でね。ほとんど父さん譲りだよ」
そう、イリッシュから感じられるのは、僅かな魔力の気配のみ。
普通の人間より長寿だろうが、あたし達ほどではなさそうだった。
それを本人がよしとするか否か。
決めるのはイリッシュのみだ。
「だから、どっちかって言うと剣の修行かな」
背負った剣に視線を投げて、イリッシュは柔らかく笑った。
「そう」
魔術師を志すほどだ。
やっぱり悔しい思いもしたことだろう。
一瞥くれた剣は、見るからに何らかの力が宿るものであった。