お告げ :約2000文字
とある夜、彼はふと目を覚ました。まだ朝と呼ぶには早い時間帯。部屋の中は薄暗く、窓の外から差し込む外灯の光だけが壁や床の一部をぼんやりと照らしていた。
彼を目覚めさせたのは光ではなかった。
何かの気配を感じたのだ。
それは単なる物音ではない。恐ろしくもあり、同時にこの上なく光栄でもあるという不思議な感覚だった。そしてそれは以前にも一度だけ味わったことのある、胸の奥を静かに震わせるような気配だった。
彼は枕に頭をつけたまま、おそるおそる顔を横に向けた。
すると、そこに立っていたのは――。
「私は……イエス・キリストだ」
「イ、イエス様!?」
彼は慌てて飛び起きた。掛け布団がばさりと床に落ち、そのままベッドの上に膝をついた。
長い髪に顎髭。この世のすべてを見通しているかのような深い眼差し。暗がりに立っているにもかかわらず、その姿は不思議と神聖さを失っていなかった。
間違いない。イエス・キリストだ――。彼はそう確信して、思わず唾を飲み込んだ。
「君に……私の跡を継いでほしいのだ」
「あ、跡を継ぐ……! ですが、それは……」
イエスの落ち着いた声とは対照的に、彼の声はひどく震えていた。
「私が果たせなかった神の使命を君に果たしてほしいのだ」
厳かな響きであった。声が身体の奥深くへ沈み込んでいくようで、上半身がぐらつき、彼は思わず胸を押さえた。
「君しかいない……」
「で、でも、そんな、無理です……! 私にはできません!」
彼は必死に首を横に振った。そしてイエスの服の裾にしがみつき、おいおいと泣き出した。重圧で胸が今にも張り裂けそうであった。
まるで子供のような取り乱しぶりだった。しかしイエスは怒ることもなく、ただ静かに微笑み、彼の肩にそっと手を置いた。
すると彼の泣き声は徐々に収まっていった。喉を震わせながら鼻をすすり、ゆっくりと顔を上げる。そして、イエスの瞳をじっと見つめた。
言葉はなかった。
必要なかった。
静寂の中で、彼はゆっくりと首を縦に――。
「待ちなさい」
「えっ」
そのときだった。
開け放たれたままのドアの向こうから、一人の男が部屋に入ってきた。
男は落ち着いた足取りで近づくと、イエスを横へ押しのけるようにして彼の前に立った。そして、穏やかな笑みを浮かべた。
「私はダライ・ラマである」
「ダ、ダライ・ラマ様!? ど、どうしてここへ……」
「君に私の跡を継いでほしいのだ」
ダライ・ラマは静かに合掌した。
「あ、あなたも……?」
「ああ。君は明日の朝、ここを出て行く。そして人々に教えを説くのだ。平和、慈悲、非暴力――」
「待ちなさい」
「えっ」
再び声がした。振り向くと、また一人の男が部屋に入ってきた。
「あの、あなたは……」
「私はゾロアスター。君に私の跡を――」
「待ちなさい」「待ちなさい」「待ちなさい」
「えっ、えっ」
次々と人影が部屋に流れ込んできた。連中は勢いよく歩み寄り、彼は思わず慄いて壁に背中をぶつけた。
「私はムハンマド。偶像崇拝を廃し、唯一神への信仰を確立させるのだ」
「アレクサンドロス大王だ。今こそ世界を一つにし、真の世界市民共同体を築くのだ!」
「私はアブラハム・リンカーン。現代人は事実上の奴隷状態にある。君が彼らを導き、解放者となるのだ!」
「私はナポレオン・ボナパルト。私の跡を継ぎ、君が皇帝となるのだ!」
「孔子だぞ。大切なのは徳を磨くこと。仁と礼を備えることで社会は自然と良くなるのだ」
「私はジャンヌ・ダルク! さあ、あなたにも聞こえるでしょう! 神のお声が!」
「私は――」
それぞれが口々に語り出した。平和。愛。信仰。革命。世界統一。人類一家族――。
「ああああああ……!」
声は渦を巻き、濁流のような言葉の奔流が彼に押し寄せた。彼は悲鳴を上げ、両手で頭を抱え込んだ。
やがて、その騒ぎを聞きつけた職員たちが部屋に駆け込んできた。
全員を次々と部屋の外へ追い出し、自室へ戻るよう言い聞かせていく。ほどなくして部屋は元の静けさを取り戻した。
「おい、大丈夫か? 何かされなかったか?」
職員の一人が腰を落とし、彼の顔を覗き込んだ。
「私は……」
彼はゆっくりと顔を上げた。
「ん?」
「私こそが神なのだ。地上は穢れが満ちている。すべてを洗い流し、真に尊き者たちだけで新たな世界を――」
彼は穏やかな口調でとうとうと語り続けた。
職員は哀れむような目で彼を見下ろし、小さくため息をついた。
「かわいそうに……。明日、退院するはずだったのに、また治療のやり直しだな」




