捕食者たちの契約関係
──もう、大丈夫。ネオンはもう、壊れない。
ナデシコはそう確信する。ネオンの宣言を聞き届け、じっと横顔を見つめる。
幼い頃に破壊された心と、武人としての自負。クエリたちの庇護が二つを繋げて、やっと本来のネオンを取り戻せたのだと理解した。
もう壊れかけのガラス細工を繋げる必要はない。だからといって、離れるつもりもないけれど。
ネオンは静かに吐息を落としてから、ヴァーチェを見やる。ヴァーチェはまたぐしぐしと顔を拭って、自分ごとのように泣いていた。
「ヴァーチェ。今言った通り、私はすべて壊す。比喩のつもりはない。ただ、さすがにあなたたちまで巻き込むのは気が引けるから連絡をとってほしいんだけど、できる?」
「ぐずっ……それなら、問題ありません。アンナリーゼ卿に見逃されたときに、おじいとおばあにはすべて伝えていますから。まだ逃げていないのなら、すべておじいとおばあの責任です」
「いきなり冷酷になったわね……」
共感で泣き腫らしながら、身内への判断はあまりにも合理的。その落差にナデシコが思わず本音を漏らせば、ヴァーチェは異端としての矜持を答えた。
「おじいとおばあはドラキュリア派の記憶を受け取り、わたくしまで繋いだお方です。ここまで異様な状況なら過つはずがありませんから」
「ま、それもそうね。ドラキュリア派がいなければ、あたしたちは絶対に負けていた」
かつて天使を降臨させ、異端と追いやられながらも、自分たちの真実を託し続けた思想の系譜。ヴァーチェが初対面に等しい姉妹の過去に涙を流す姿があれば、家族として正しく、柔らかに育てられていたことは見て取れる。
そんな心に、声しか繋がっていない状況でも感じるところがあったのか。ウルミアとミラリスの双子はクエリに提言していた。
『ねえ、姉上。私たち思ったのだけれど。ドラキュリア派の方々を放り出すのは道理に欠けていると思わない? 私たちが人道を説ける立場でないのは知っているけれども流石に、ね』
『ええ、構いません。責任を問われれば黙らせるから、好きに動いて好きに守って』
『ありがとう、大好きよ姉上。ヴァーチェ・ドラキュリア、あなた方は私たち双子巫女が勝手に保護するから、安心して裏切りなさい』
「──っ、感謝いたしますわ、両殿下」
姿は見えていないのに、ヴァーチェは深々と頭を下げた。ネオンは微笑みながらヴァーチェに告げる。
「ほら。優しいでしょ、私の姉さんたちは」
「やり口は恐ろしいけど、ね。──ネオン、全部壊すって具体的にはどうするつもり?」
ネオンが本気で言っていることはナデシコも理解した。けれどネオンがどれほど武人として優れ、王冠を持つ特異点であろうが、破壊できる範囲は竜帝の足元にも及ばないはず。それだけ人と竜の差は大きいのだから。
ナデシコの問いかけに、ネオンは迷わず断言した。自分ならできるのだと、実績から確信している答え方だった。
「フレアにも協力させる。今までは必要なかったから借りても一翼か二翼だったけど、今回ばかりは十だろうが二十だろうが──うるさい。いいから黙って手伝って」
ネオンの口調が唐突に乱れる。フレアと口論をしているのは明らかだったから、ナデシコも口を挟まずに折り合いがつくまで待ちに入る。
けれど、不意に。
「──は? ……ねえ、正気?」
ネオンの声が背筋を凍らせるほど、冷え切った。
もしかすると声を出している自覚がなかったのかもしれない。姉たちもナデシコも想像できていなかったほどの冷たい怒りが、ネオンから露わになる。
「面倒だから身体を貸せって、ねえフレア。さっきやらかしたこと、まだ自覚できてないの? ──うるさい、黙れ、口答えするな。ああ、私と君は確かに対等だ。けれど意識しろ。この契約の主体は私だ。王冠を返すか否かは、私の意思に委ねられている。私は君を殺して、エダを下した。空を飛べない身で、君たちを殺せる。君たちには決して、私を殺せない。だからこそハルピュイアの命運はすべて私が握っていることを──思い出せ」
淡々と、冷静に、殺意をぶつける。
オドゥもヴァーチェもエンラも、王宮の姉たちも紅蓮隊も、全員が言葉を失って静まりかえっていた。
オドゥの視線がナデシコに向いた。ナデシコは肩を落としてから、ネオンの背中をつつく。
「ねえ、ネオン」
「……あ。うん、ごめんね、ちょっとフレアと話してた。どうしたの、ナデシコ」
「声、出てたわよ」
ネオンはその指摘にまず、沈黙した。
フレアとのやりとりを振り返っているのだろう。毅然としていた顔が徐々に徐々にと崩れて、やがて声が震えた。
「ど、どこから……?」
「たぶんかなり最初の方から。少なくとも、口答えするなって言い始めたところからは全員聞いているわ」
「……フレアぁ!」
ネオンはうずくまって顔を覆い、同居人に怒りをぶつける。手慣れた脅迫は家族に見せる姿ではないと強く自認していたのだろう。動揺と混乱を露わにして、言い訳にならない言い訳を口走り始める。
「ち、ちが、ちが、これは違って……! その、声出してるつもりはなくて、いつまで経っても聞き分けがないから私も脅すしかなくなって……!」
「いえ、むしろ納得したから大丈夫。そうよね、普段からあれだけ威圧してるなら、フレアもあなたを対等に扱うわけよ。というか今の脅し方って、もしかしたら昔より弱くなってるんじゃない? 殺し合った直後なら今みたいに軽口叩けるような関係じゃなかったでしょ?」
「っあ、あ、あう」
ナデシコの推測は図星そのものだったらしい。ネオンはとうとう言い訳すらできなくなって、声は言葉にもなっていなかった。
ネオンはちらちらと琥珀の鳥に目を向ける。三人の姉はまだ硬直しているようで、何も言わない。オドゥはふう、と息を落として、ナデシコと同じように頷いた。
「そうだよな、あれくらいできなきゃ荒くれどもの中にいられるはずがない。破暁の狩りはエゲツないとは聞いていたが、ただの事実だったか」
「オドゥ、具体的には?」
「相手の急所を初手で奪って、抵抗できないような状況に追い込んでから確実に仕留める。群れを狩るなら真っ先に弱い個体を仕留めて撒き餌に使い、怒りを誘っておびき寄せたところを一掃する」
「うん、捕食者だね」
「う、うう……」
オドゥの情報とエンラの所感があれば、もう逃げられないと悟ったらしい。項垂れ落ち込むネオンの代わりに、ナデシコは王宮へ声をかけた。
「姉さん方。この鳥、少し改造しても?」
『……え、ええ、もちろん大丈夫よ。ナデシコはどんなことをしてくれるの?』
「フレアの声を伝えられないかと思って。エダが来るならフレアが直接話してくれた方が早いし、ネオンもしんどそうだし。まあ、ネオンの身体だとやってみるまで可能かはわからないけど──」
体内エーテルのすべてが身体補強に回される、暗示で作られた体質。そのうえ王冠に宿っている意思とのやりとりという異例極まりない条件だが、求めている結果は遠距離での通信とほとんど同じだ。不可能でないなら実行できるはず、とナデシコは琥珀の鳥を手にとって、ネオンの顔を強引に上げさせてから額を合わせる。
「ぅ──ナデシコ!?」
「ちょっと我慢してて。……さて。できなくは、ない、かも……?」
ネオンの中の異物を探し、通信用の鳥と流れを繋げられないか、手探りで作業を進める。
直に触れ、ネオンの中のエーテルを探ればすぐに、外付けされた力が見つかった。これがフレアの王冠なのは間違いない。いくらネオンの体質があろうとも、内から放出させるのではなく外から繋ぐなら、成功するはず。
目を閉じて集中する。吐息が重なる距離もナデシコの意識には入っていない。感覚で探り、組み立て、繋がったと確信した瞬間にネオンから離れた。
「よし。フレア、話してみて」
「ん? 一体何を──ん?」
琥珀の鳥が話し始める。声は困惑を露わに沈黙して、何度か意味のない音を発し、やがて深々とため息を吐き出した。
「──助かった、竜姫。流石に今の状況で、こいつに逐一伝言させるのは面倒で困っていたからな」
「どういたしまして。ネオン、負担は?」
尋ねられ、ネオンは目を閉じる。ナデシコの顔を見つめながら頷いた表情には、心の底からの安堵が宿っていた。
「同時には聞こえない。はぁ……ありがとう、ナデシコ。こいつ、自分が何か言いたいときは遠慮なく騒いでくるから、ほんっとうにうるさくて」
「必要だから伝えているだけだ。どうして俺がお前の負担を気遣ってやる必要がある」
「ナデシコ、この鳥に痛覚つけられない?」
「無理、諦めて」
ネオンはそっか、と言いながら本気で肩を落とす。どこまでもふてぶてしく、何を言っても黙らない同居人に辟易していることが見て取れる仕草だった。
それにしても、とナデシコは呆れまじりの感嘆を抱く。あれだけの殺気と威圧を叩きつけられた直後なのに、どうしてフレアは全力で逆らい続けられるのか。てっきりあとほんの少しは静かになっていると思ったのに。
改造作業を眺め続けていたオドゥは、ナデシコへ視線を向けながらぽつりと呟いた。
「……よくできたな、そんなこと」
「フレアの意識が明確だったもの。姉さん方の鳥もあったし、繋げるだけで済んだわ」
「そうか」
オドゥはぶっきらぼうにそれだけを言う。エンラが戸惑い混じりの声を伝えてきたのは、オドゥの話し終わりを見計らってからだった。
「……驚いた。ネオンの身体を借りたから話せたんじゃなかったのか」
「借りたから……? お父さん、どういうこと?」
エンラの困惑は誰にも実感できないものだった。エンラは正しく王冠を継承した竜帝として、娘の問いに答える。
「肉体がなくても意識を完全に保っているとは想像してなかったんだ。王冠の主体は肉体だから、本来なら精神の器にはならないはず。普段はせいぜい残滓が残っている程度かと思ってた。ネオン、暁。君たち一体何をやらかしたんだい?」
ネオンもフレアも、しばらく何も言わなかった。
ネオンは考えを巡らせているのか目を閉じて。フレアとお互いに通じ合ったかのようなタイミングで決定を伝える。
「エダに返したときに考えよう」
「そうだな。原因を考えたところで無駄だ」
すっぱりと切り捨てて、本気で気にしていない声音だった。未来に問題が起きるなら、そのときにどうにかすればいいという共通認識。ナデシコたちでは決して真似できない割り切りの速度と深さだった。
それに、とフレアは言いながら、ネオンよりもさらに雑な感覚を露わにする。
「お前に問題が出るなら竜姫が対処するだろう。どうせ俺たちには何もできん」
「こっちにぶん投げないでもらえる?」
「適材適所だ、向こうの女王と何も変わらん。……ああ、それと竜姫。ちょうどいいから一つ聞きたい」
「ん、なに?」
「俺がこいつの身体を使って、お前に接吻したことは具体的にどこが問題だ。あれ以来、ネオンの機嫌がとことん悪くて面倒臭い」
フレアが言ったその瞬間。ぴ、とヴァーチェの喉から小さな悲鳴がこぼれた。
オドゥは暗器を忍ばせた懐に手を入れたまま、通信の要になっている鳥を破壊しないようにと必死に耐えている。ネオンの柔らかな空気は一瞬で消失して、躊躇なく砕き潰しそうな目を、琥珀の鳥を通してフレアに向けていた。
「──フレア」
「なんだ」
やはりフレアの態度は変わらない。ネオンは深く、深くと息を吐き出してから、もはや隠すつもりのない冷えた怒りをフレアに叩きつけた。
「私はこれでも必死に譲歩していた。君なら自力で気付いてくれると信じていた。どう表現すれば君が自分の過ちの重さを理解してくれるか知っていたうえで、私に指摘されるのは我慢ならないだろうからと黙っていた。けれど、もう期待はやめる。いいね?」
「……言え。俺の何が問題だ」
「君のやらかしは──単独でつがいを殺して卵を奪い、自分のつがいに何も言わないまま奪った卵を孵させたに等しい」
おそらく、沈黙は二種類だった。
胎生の人間には比喩の重さが実感としては理解できず、意味を飲み込むまで時間を要して。
卵生の竜は比喩の意味を理解して、表現が過激であっても本質は掴んでいると納得して。同時にどうしてネオンがその表現に辿り着けたのかと困惑する。
フレアはずっと、黙りこくっていた。先ほどまでの態度を見ていれば、重すぎる衝撃で何も言えなくなっていることは明らかだった。
フレアは重く、声にならない息を吐き出しながら、言葉を震わせた。
「────すまなかった、竜姫」
「理解してくれたならいいの。今後は二度とやらないで、絶対に」
「当然だ……」
琥珀の鳥はフレアの声を届けているだけなのに、心なしか沈んでいるようにも見える。ナデシコはネオンの怒りを鎮めるために肩を叩きながら、夫の感性がどこまで鳥に染められているのかとわずかに憂いた。




