アンナリーゼ・シラ・シュトラル
『姉上、少しだけ待って。──ナデシコ。この話は正直、私たちも平静を保ち続ける自信がないの』
双子の声が割り込んできて、ナデシコに呼びかける。双子の声は強張り、すでに怒りが滲んでいて、いつも快活な二人だからこそ、これからの話は姉妹にとっての危険領域なのだと肌に伝わってきた。
双子はため息を置いて、感情を振り切るように断言する。
『いつもならどちらかが引き上げられる。けれどリズの事情に限っては、姉上が崩れれば私たちも崩れるし、私たちが崩れれば姉上も崩れる。だから、あなたに頼りたいの』
「……そう。やっぱり、そこなのね」
返答の前に、ナデシコは納得を呟いた。
事実を伝えることすらネオンの精神を破壊しかねなかったという判断。双子がここまで危ぶんでいること。──弑虐の女王の発端を思えば、これからの話の中心は語られたも同然。
ナデシコはネオンの手を握って、指も絡めてから頷いた。
「ええ、ネオンはあたしが支えるわ。だからこっちは気にしないで」
『──ありがとう。オドゥさん、悪いけれどこの話は絶対に必要だから、私たちは姉上を止めないわ』
「わかってるよ。俺も四女のことは気になってた。何があれば、シュトラルの王族が教皇の懐刀なんて立場に押し込められるんだ?」
オドゥの口ぶりも、アンナリーゼの現状が自発的なものではないことを確信していた。ネオンが戦えなくなる可能性を考慮しても、必要な情報だと判断したのだろう。
ネオンはウルミアとミラリスの軽快さが溶けている声を知らなかったらしい。呼吸を震わせて、けれどまだ恐怖には飲まれていない。ナデシコが絡めた指に縋って、現実を見続けていた。
双子が話している間、クエリは感情を沈めていたのか。十秒かけて話し始めた声は、ひどく平坦なものだった。
『……リズは、あいつに。あの男に売られたの。自分は天導教の救済を望んでいると、ただそれだけを示すために』
「あの男……?」
ネオンはクエリの言葉を理解しようとして、反射的に繰り返す。
あの男という形容が何を指しているのか。凍りついて理解を拒絶した脳が、自分の声に思考を強制される。何を指しているのか、誰を指しているのか、どんな顔をしていたか、どんな声が聞こえるか、封じ込めた記憶の蓋が一気に開いた。
「っ──あ、ぁ」
「ネオン」
ナデシコはネオンの頬に触れて、瞳をじっと覗き込んだ。ネオンの緑にナデシコの薄紫が映り込むほどの距離で、強引に今を叩き込む。
ネオンのトラウマをどうすれば癒せるのか、ナデシコに知識はない。だからせめて、今は自分がいるのだと無理矢理にでも理解させる。
ネオンの動揺で焦点を失って、何も見ていなかった瞳が不意にナデシコを捉えた。ネオンは溢れた過去の実感を払って、壊れかけていた呼吸を整えるように、空いた片手で胸元を掴む。
「あり、がと。……大丈夫。姉上、私は平気だから、聞かせてください」
平気なわけがない。ネオンの均衡がほとんど壊れていることは声だけでも明らかだった。それでもクエリはネオンの意思に応えて、話を続ける。
『ええ、わかったわ。──あの男が自分で関わったのはネオンだけだった。私は何の関心も向けられていなかったから、誰にも利用されずに自由に動けた。ウルミアとミラリスは人生を強制されたけれど、あいつが関与したのはそれだけだった。リズの環境は私と同じようなものだったのだけれど……』
語尾がわずかにぶれて、クエリの声がしばらく途絶える。
クエリと双子を支えているのはきっと、ネオンが耐えているなら自分たちも耐えなければならないという、姉としての自負。
クエリの声が戻ってくる。込められた激情は明らかだったが、声音はどうにか淡々とした均一さを維持していた。
『リズの武才は誰が見ても明らかだった。あの子も剣が好きだったんでしょうね。まだ小さな頃から軍の訓練に勝手に混ざって、周囲にも可愛がられて、だからリズが軍に入るのは当然だった。私も当然だと、あの子に適した場所だと思っていた』
「……ったく、そういうことか。それが最悪の噛み合いになっちまったわけだ。あんたの思考と違って、武力は見える」
オドゥがクエリの言葉を奪う。ええ、とクエリは相槌を打ちながら、憎悪を呼吸と共に吐き出した。
『リズは強くなりすぎた。ネオン、それこそ貴女と同じくらいに』
「私が、リズ姉と?」
ネオンの呟きの因果はごく自然にひっくり返っていた。ネオンの中でのアンナリーゼの大きさの一端が溢れた言葉に、クエリの感情がわずかながら緩んだ気配が聞こえる。
──このあたりが潮時だろう。ナデシコはネオンと指を絡めたまま、汲み取った過去を情報に変換した。
「アンナリーゼさんの武力は、天導教に自分の忠誠を示す証拠と見なされた。国に売られたようなものだから、いくらアンナリーゼさんの武力が突出していても逃げ出す先がなかった。陛下、それで間違いない?」
『……ええ』
「けれど、今のアンナリーゼさんは陛下や姉さん方と繋がっている。アンナリーゼさんはどうやって戻ってきたの?」
過去の事情と現在の立ち位置は明らかに矛盾している。ナデシコも構造を理解してから矛盾を解消する手段を考えていたが、アンナリーゼの苦境を破壊する方法は存在しなかったとしか思えない。
シュトラルという大国の王が実子を天導教に売り渡していたという状況なら、アンナリーゼは外部との繋がりをすべて断たれたはずだ。姉妹との関係を壊されて、逃げ出したとしても父親が生きている限りシュトラルには戻れない。クエリの弑虐がアンナリーゼの事情にも繋がっていることは理解したが、そもそもとして姉妹関係を取り戻す手段がないという問題はそのまま残っている。
ネオンはナデシコに肩を寄せて、クエリの答えを待っている。オドゥの視点でも答えは見つからないようで、怪訝な目のまま琥珀の鳥を見つめている。
全員がクエリの声を待っていた。それなのになぜか、クエリは何も言わない。
「……陛下?」
ナデシコは首を傾げて呼びかける。
クエリが押し黙る理由はないはずだった。尋ねたのは先王に刻まれた傷ではなく、奪われたものを自分たちの力で取り戻した過去なのだから。
「えっと、姉上?」
とうとうネオンも問いかける。姉を求める声は幼くても、恐怖はすっかり和らいでいた。ネオンにまで催促されてはさすがに耐えられなかったのか、ようやくクエリの声が返ってきた。
『……私が頑張ったから、ということで収めてくれないかしら』
『駄目に決まっているでしょう? 二人とも、姉上を押さえてちょうだいな。今は手荒に扱ってもいいわ。騒ぐようなら口を塞いでおいて。私たちが許します』
『あ、ウルミア、ミラリス──!』
紅蓮隊が本当にクエリを取り押さえにかかったのか、鳥の向こうが騒がしくなる。突如として切り替わったクエリと双子の空気に全員が戸惑う中で、双子の声が矢継ぎ早にやってきた。
『あのね、ネオン、ナデシコ。これは姉上の無茶苦茶な人生の中でもとびきり恐ろしくて無茶で無謀で合理性の欠片もなくて自分の命を投げ捨てた行為よ。少なくとも私たちは倒れたし、リズの顔も疲れ切っていたわ。だから絶対に真似しちゃだめ、いいわね?』
「は、はい……」
双子の声には先ほどまでとはまったく異なる心労が滲んでいる。クエリ自身もアンナリーゼを取り戻した手段を誤魔化そうとしていたうえに、紅蓮隊ですらクエリを取り押さえているらしき状況。
ナデシコは自分の動揺を静める方向に意識を切り替えて、ネオンの衝撃を受け止められるようにする。双子が告げた中身はやはり、心構えを変化させていなければナデシコも混乱に飲み込まれていたと確信できるほどのものだった。
『ええ、忘れもしないわ。リズの事情を知って、あれを殺すと決めて、段取りを進めていた二ヶ月後に、姉上は少し出てくるとだけ言っていなくなったの。外に出ても警戒されないのは姉上だけだったから、あのときはどこかと交渉でもしているのかと思って気にしていなかったわね、ええ』
淡々と言い募っていても、双子の声には怒りが滲んでいた。何年経っても消えないどころか思い出すだけで当時の不安と心労が蘇っているらしく、軽口すら出てこない。
『一週間経って、さすがにおかしいと思ったわ。二週間経って、姉上がとんでもないことをしでかしに行ったと理解したわ。姉上が怪我だらけになってリズを連れて帰ってきたのは、結局姉上がいなくなってから三ヶ月後だったわね』
「……え? ……えっと、え?」
ネオンはほとんど何も言えなくなって、ただ疑問の音だけをこぼす。双子は肩を落とすほどのため息で感情を吐き出し切ってから、言った。
『姉上は一人で、誰にも伝えずに、天導教の領内に侵入して、悪魔祓いが動くような現場に自分から巻き込まれに行って、リズと会えるまでそれを繰り返したの。ええ、むしろ三ヶ月で見つけられたのが奇跡ね。どうして五体満足で元気に帰ってきたのかしら、あの人』
「…………」
ネオンは俯いて、ふるふると背中を震わせ始めた。妹である以前に悪魔狩りの破暁として、クエリの行動の恐ろしさが肌感覚で理解できてしまったのだろう。
ナデシコはオドゥを見やる。オドゥは片手で顔を覆って、言葉を抑えるために天を仰いでいた。ナデシコはその仕草がすぐに処理できないほどの困惑に襲われたときにしか出てこないと知っているから、自分の混乱はオドゥを見ることで処分できた。
『……だって、それ以外に方法がなかったんだもの』
ぽつりと、クエリの声が聞こえた。
クエリらしくない言い訳がきっかけになったのだろう。ネオンは低く、静かに、ほとんど呻くように、圧のこもった声を発した。
「……姉上。今後、金輪際、一切、二度と、一人で外に出ないでください」




