第九話 無人島の夜
大久野島に向かう途中、来島の船と海上保安庁の巡視艇の両方が周辺海域をうろついていた。
「挟み撃ちっすね」早川がレーダーを見ながら言った。「北に海鷹、南に巡視艇。どっちにも見つかりたくない」
「この辺りの島に一時避難しましょう」凛が海図を指差した。「仙酔島。鞆の浦の沖にある島です。観光地ですが、夜は人がいない。洞窟もある」
潮風は仙酔島の北岸に回り込み、岩場の陰に錨を下ろした。夕闇が迫っている。レーダーの反応は遠い。ここなら見つからない。
仙酔島の浜辺に上陸した。砂浜ではなく、五色の岩が連なる独特の海岸線。赤、黄、白、灰、黒——火山岩が風化して様々な色を見せている。
「きれい……」真琴が呟いた。「五色岩、教科書で見たことがあります」
「夜はもっときれいですよ」凛が言った。「月が出れば、岩の色が変わって見えます」
浜辺の奥に洞窟があった。海食洞——波が岩を削って作った自然の洞窟。入口は大人が立って入れる高さ。奥行きは十数メートル。乾いている。
「今夜はここで休みましょう。船に戻ると、レーダーに映るリスクがあります」
直人が流木を集めて小さな焚き火を起こした。凛がクルーザーから食料と水を持ってきた。缶詰とパン。質素だが、空腹には十分だった。
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焚き火を囲んで四人が座った。洞窟の天井に炎の影が揺れている。海の音が低く響いている。
「こういうの、修学旅行みたいっすね」早川がパンをかじりながら言った。
「修学旅行で洞窟に泊まる学校はない」直人が言った。
「キャンプファイヤーって意味っすよ。——ていうか、四人でこうして座ってるの、なんか不思議っすね。一年前は鷺宮さんと俺の二人で始めたのに」
「今は四人だ。心強い」
「五人になるかもしれないっすよ」
「五人?」
「Phantomのこと。——あいつ、来島の下で働いてるけど、本心じゃないと思うんすよね」
「なぜそう思う」
「DEFCONの打ち上げパーティーで、あいつ一人でポテチ食ってた。優勝者なのに。——つまり、仲間がいないんすよ。来島の下にいるのも、仲間がいないからとりあえず金で雇ってくれる場所にいるだけで」
「それは推測だ」
「推測っすけど——ハッカーの直感っす。同じ種類の人間は分かるんすよ」
直人は早川を見た。軽い男だが、人を見る目は確かだ。
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夜が深まった。凛と早川が洞窟の入口近くで見張りをしている。直人と真琴は洞窟の奥にいた。
焚き火の残り火が赤く明滅している。洞窟の壁に、二人の影が映っている。
真琴が膝を抱えて座っていた。いつものスーツではなく、カーディガンにジーンズ。瀬戸内海に来てから、真琴の服装はどんどんカジュアルになっている。
「直人さん」
「何だ」
「……怖いです」
直人は少し驚いた。真琴が弱音を吐くのは珍しい。厳島で海水に膝まで浸かった時と、一年前に人質にされた時くらいだ。
「何が怖い」
「全部です。追われていること。海の上にいること。来島という人間の暴力。政府の介入。——そして」
「そして?」
「……凛さんのこと」
直人は真琴を見た。真琴は膝を抱えたまま、焚き火の残り火を見つめている。
「凛さんの何が怖い」
「怖いというか——。直人さん。凛さんがあなたを見る目に、気づいていますか」
直人は黙った。
「凛さんはあなたを慕っています。尊敬だけではない。——女の目です」
「……俺にはそうは見えなかった」
「あなたは——そういうところが鈍い」真琴の声に、いつもの冷静さはなかった。「厳島の夜も。星霜蔵の時も。あと半歩の距離が——」
「真琴さん」
「——すみません。こんなことを言う場面ではないですね。追われている最中に」
「いや。——聞きたい。真琴さんが何を考えているのか」
真琴が直人を見た。焚き火の光で、真琴の目が潤んでいた。涙ではない。感情の揺れだ。
「私は——あなたの隣にいたい。ずっと。仕事の時も、こうして逃げている時も。——でも、あと半歩の距離を詰められないまま、一年経ってしまいました」
「それは俺のせいだ。俺が——言葉にするのが下手で」
「知っています」真琴が少し笑った。泣き笑いに近い表情だった。「修復士は手で語る人ですから。言葉より手が先に動く」
「だったら——」
直人は真琴の手を取った。冷たい手。洞窟の夜気で冷えている。
直人の手が真琴の手を包んだ。修復士の手。ヘラを握る手。ギミックを開く手。そして——真琴の手を温める手。
「これが——俺の言葉だ。言葉にできないことを、手で」
真琴の手が、直人の手を握り返した。強く。
「——直人さん。足りません」
「え——」
「手だけでは足りません。寒いんです。——もっと近くに来てください」
直人の心臓が跳ねた。修復士の手は〇・一ミリ単位で動くが、こういう時の体はぎこちない。
真琴が直人の腕の中に入ってきた。自分から。背中を直人の胸に預けた。カーディガンの下の背中が、直人の胸板に触れた。温かい。いや、冷たい。真琴の体は冷えていて、直人の体温を吸い取るように密着してきた。
真琴の髪が直人の顎に触れた。潮の匂いに混じって、シャンプーの残り香がした。柑橘系。直人はその香りを——一年前から知っていた。食事に行く度に、隣に座る度に、半歩の距離の向こう側から微かに届いていた香り。
「……これは。体温の保持であって——」
「言い訳しないでください」真琴が囁いた。「洞窟の中で、二人きりで、追われている夜に——熱力学の講義は不要です」
「熱力学じゃない。生存技術だ」
「同じことです。——もう少し、腕に力を入れてください」
直人の腕が、真琴の肩を包んだ。真琴の体が小さく震えた。寒さか、緊張か、それとも——。
真琴が首を少し傾けた。直人の鎖骨のあたりに額を寄せた。その拍子にカーディガンの襟元がずれて、真琴の鎖骨が焚き火の光に照らされた。白い肌に、赤い光が揺れている。
直人は——見ないようにした。努力した。修復士は対象物を正確に観察するのが仕事だが、今この瞬間だけは、観察しないことが正しい選択だった。
「好きだ。真琴さんが。——ずっと」
真琴の目から涙がこぼれた。今度は本物の涙だった。
「私も。——ずっと」
真琴が振り返った。直人の顔が近い。焚き火の赤い光の中で、唇と唇が——あと三センチまで近づいて——
「鷺宮さーん! 九条さーん! お茶沸いたっすよー! あと缶詰のサバ味噌もあるっすよー!」
早川の声が洞窟に反響した。
二人が弾かれたように離れた。真琴の顔が、焚き火よりも赤い。
「……空気を。読め。早川」直人が天井に向かって呟いた。
「え? 何すか? お茶いらないすか?」
「いる。——三十秒後に持ってこい」
「三十秒? なんで三十秒——」
「三十秒だ」
早川が首を傾げながら引っ込んだ。
三十秒。直人は真琴を見た。真琴は膝を抱え直し、顔を隠している。耳が赤い。
「……三十秒で何をするつもりだったんですか」
「何も。……いや。続きを——」
「続きは、また今度。——もう少し、ロマンチックな場所で」
「ここより? 洞窟で焚き火で満天の星で」
「缶詰のサバ味噌の匂いがします」
「……確かに」
二人は、泣き笑いのような顔で、サバ味噌のお茶を受け取った。
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同じ頃。洞窟の入口近く。
凛と早川が、海を見ながら見張りをしていた。月が出ていた。瀬戸内海の水面に銀色の帯が伸びている。
早川がバーナーフォンをいじっていた。
「Phantomの通信パターンを分析してるんすけど——面白いことが分かったっす」
「何が」凛が聞いた。
「Phantomって、来島への情報提供は即座にやるんすけど、朝倉への提供は必ず三十分遅延させてる。つまり朝倉の方を意図的に遅らせてる。——来島を優先してるんじゃなくて、朝倉を冷遇してる」
「なぜ」
「分かんない。でも——Phantomにとって来島は雇い主だけど、朝倉は嫌いな客、みたいな感じかも。金は取るけど本気じゃない」
「人間関係が見えますね、通信パターンから」
「そうっす。人間はデータに嘘をつけない。——凛さんも」
「私?」
「凛さん、来島に渡した潮印。あれ、本物じゃないでしょ」
凛が早川を見た。月明かりの中で、早川のいつもの軽い顔が——真剣な顔になっていた。
「……どうしてそう思うの」
「因島で潮印を取り出した時、俺、全方向から撮影したっす。高解像度で。で、凛さんが来島に渡す直前に、俺のカメラの前を通過したんすけど——その時の円盤の表面の傷パターンが、因島で撮ったものと微妙に違う。別の円盤っす」
凛の目が見開かれた。
「早川くん——」
「あんた、偽物をあらかじめ持ってたんすよね。因島に行く前から。来島に渡すための偽物を」
沈黙。波の音だけが聞こえた。
「……誰にも言わないで」
「鷺宮さんにも?」
「今はまだ——。理由はあります。でも説明するタイミングが」
「凛さん」早川の声が、いつもの軽さを脱ぎ捨てていた。「俺は凛さんのこと信じてる。——美人だからじゃなくて。いや美人なのは事実っすけど——」
「早川くん」
「——信じてるから。でも、鷺宮さんにもいつか話してください。あの人は嘘が嫌いだから」
「分かっています。——ありがとう、早川くん」
二人は並んで月を見た。瀬戸内海の夜は、不思議なほど静かだった。




