第八話 能島の急流
能島が見えてきた。
瀬戸内海の島々の中でも、能島は特異な存在だ。周囲わずか七百メートルの小さな島。だがこの島の周りの潮流は、日本有数の速さを誇る。最大で時速十八キロメートル。人が全力で泳いでも流される速度だ。
潮流は島の東西で渦を巻く。この激流が天然の堀となり、能島城を難攻不落の海城にしていた。
凛が操舵室のレーダーを見た。
「海鷹が見えます。能島の北側に停泊しています」
「もう来てる——」
「はい。でも動いていません。潮止まりを待っているのでしょう」
潮風は能島の南側に回り込んだ。島を挟んで、来島の船と反対側。
午後二時。潮止まりまであと四十七分。
「凛さん。潮印の具体的な場所は」
「能島の西側の石垣です。水面下二メートル。石垣の七段目——あなたなら聞き覚えがあるはず」
「七。姫路城と同じだ。石垣の七段目」
「はい。——戦国時代の海城の石垣は、潮の満ち引きで常に水に浸かっています。七段目は満潮時には水深三メートル、干潮時でも水面下一メートルほど。潮止まりでも完全には露出しません」
「つまり潜水が必要」
「はい。——私が潜ります。この海を一番知っているのは私です」
「一人で?」
「鷺宮さんはスキューバの経験は」
「ない」
「なら私一人です。——十分あれば十分です」
直人は反対したかった。だが凛の言う通り、潜水経験のない人間が来島海峡の潮流の中に入れば、命を落とす。
「分かった。——だが来島の動きを監視する必要がある。早川」
「了解っす。海鷹のAIS信号を追跡中。——あ、動いた。海鷹が移動してる。北側から西側に回り込んでくる」
「俺たちと同じ西側に——」
「潮印が西側にあることを、来島も推測してるんすよ。西側の石垣が一番古い。村上水軍時代の遺構が残っている側だから」
午後二時三十分。潮止まりまで十七分。
海鷹が能島の西側に現れた。白い船体に赤いライン。潮風よりも二回り大きい。速い。
海鷹と潮風が、能島の西側で対峙した。距離二百メートル。
「来島の船に潜水士がいるはず」凛が言った。「元海上自衛隊の瀬戸という男。潜水のスペシャリストです」
「向こうも潜水で取りに来る。——レースだ」
「はい。水中のレース。——私が勝ちます」
凛がウェットスーツに着替えた。黒いネオプレンのスーツに、マスクとシュノーケル。スキューバではなくフリーダイビング。酸素ボンベなし。
「ボンベなしで?」
「ボンベは重い。潮流の中では身軽さが命です。——私は三分間、息を止められます」
「三分——」
「海女の血です。母方の祖母は伊勢の海女でした」
凛が背中のジッパーに手を伸ばした。——届かない。
「鷺宮さん。すみませんが、背中のジッパーを」
「……ああ」
直人が凛の背後に立った。ジッパーの金具を掴む。凛の首筋が目の前にある。うなじに汗の粒が一つ。海風が凛の髪を揺らして、その粒の上を通り過ぎた。
直人はジッパーを引き上げた。金属の歯が、凛の背中の肌を一ミリずつ隠していく。修復士の手は精密だが、この作業にはまったく別の種類の集中力が必要だった。
「……はい。終わった」
「ありがとうございます」
凛が振り返った。ウェットスーツ姿の凛は、白いワンピースの時とは別人だった。黒いネオプレンが体のラインに隙間なく張り付き、海で鍛えた体は余分な肉がなく、腰から脚にかけてのラインを一筆書きのように描いている。鎖骨の下に、ジッパーの縁から覗く白い肌がわずかに残っていた。
早川が船室の窓から顔を出した。鼻の下が伸びきっている。
「凛さん……その……なんていうか……映画のポスターっすよね……アクション映画の……」
「早川くん。それは褒め言葉ですか」
「最上級の褒め言葉っす。俺の語彙力じゃ表現しきれない。語彙力が足りない。助けて鷺宮さん」
「知らん。——凛さん、ギミックの話を」
「はい」凛はまったく頓着していなかった。海の人間にとって、ウェットスーツは作業着だ。早川がどれほど動揺しようと、彼女の関心は海中の潮印にしかない。
「鷺宮さん。石垣の七段目のギミックは、姫路城と同じ構造ですか」
「分からない。だが姫路城のギミックはスライド式だった。石の表面の刻印を横にスライドさせると、内部の空洞が開く。水中でも操作可能なほどシンプルな機構のはずだ」
「了解しました。スライド式。刻印を探して横にずらす」
「刻印は丸の中に横線一本。それを見つけたら——」
「横にスライド。開いたら中のものを取り出す。——十分以内に」
午後二時四十分。あと七分。
海鷹の甲板で、男がウェットスーツを着ている。瀬戸。体格が良い。スキューバのフル装備。
「向こうはスキューバだ。水中での作業時間は長い。だが——」
「装備が重い。潮流が完全に止まるのは最初の三分だけ。三分を過ぎると弱い流れが始まる。重い装備は流れに逆らいにくい。——私の方が有利」
午後二時四十五分。あと二分。
潮流が目に見えて緩くなってきた。島の周囲の水面が、渦巻きから平面に変わっていく。
「潮止まり——」凛が船縁に立った。「行きます」
「凛さん」直人が呼び止めた。「気をつけて」
凛が振り返った。マスクを額に載せた顔。
「必ず戻ります」
凛が海に飛び込んだ。
同時に——海鷹の甲板から、瀬戸も海に入った。
水中のレースが始まった。
早川がドローンを飛ばした。水面から船上を撮影するためのドローン。だが水中は見えない。
「凛さんの位置が——分からない。水中カメラないっす」
「海面の泡を追え。フリーダイビングでも、潜水時に泡が出る」
直人は船縁から海面を凝視した。能島の西側石垣。水面下に、黒ずんだ石垣の上部が見える。潮止まりで水面が穏やかだ。
泡。二筋。凛と瀬戸。距離は——凛が五メートルほどリードしている。凛の方が先に潜った分だ。
一分経過。
泡が石垣の近くで止まった。凛が石垣に取り付いたのだ。瀬戸の泡も近づいてくる。
直人は時計を見た。潮止まりの開始から一分二十秒。凛の息止め限界は三分。残り一分四十秒。
真琴が直人の横でストップウォッチを握りしめていた。「二分——」とカウントを読み上げる声が震えている。
二分経過。凛の泡が——不規則になった。何かを探している。石垣の表面を手探りしているのだろう。
瀬戸の泡が凛の泡に合流した。二人が同じ場所にいる。水中で鉢合わせた。
「やべえ——水中で二人が——」
二分三十秒。泡が激しくなった。もみ合っている。水中での争い。
直人の拳が握りしめられた。水中では何もできない。泳げない人間が海に飛び込んでも、溺れるだけだ。
三分。凛の限界。
水面が破れた。
凛が浮上した。マスクが半分ずれている。顔が赤い。息を激しく吸い込んでいる。
「凛さん!」
「取った——!」
凛の右手に——真鍮の円盤。潮印。
「船に上がれ!」
直人が手を伸ばした。凛が直人の手を掴んだ。引き上げる。凛の体が船縁を越えてデッキに倒れ込んだ。
海面で瀬戸が浮上した。手ぶら。凛の方が先に見つけたのだ。
「行くぞ! 凛さんが取った! 全速で離れる!」
早川が操舵室に飛び込み、スロットルを全開にした。凛はまだ操舵できる状態ではない。
潮風が動き出した。同時に海鷹も動いた。
ボートチェイスの始まりだ。
海鷹が後方から猛追してくる。エンジンの馬力が違う。潮風の二倍以上の速度が出る。
「追いつかれる——!」
「この海域なら——」凛がデッキに倒れたまま叫んだ。「潮流を使う! 十一時の方向に舵を切って!」
早川がハンドルを切った。潮風が左に旋回。
「そのまま直進! 三百メートル先に潮目がある!」
潮目——異なる潮流がぶつかる場所。海面の色が変わる境界線。
潮風が潮目を横切った。船体が大きく揺れた。だが——潮流に乗った。船速が一気に上がる。追い風ならぬ追い潮。
海鷹が同じルートを追ってきた。だが海鷹は船体が大きく、喫水が深い。潮流の影響をまともに受ける。潮目を越えた瞬間、海鷹の船体が横に流された。
「潮を読んだ——」直人が凛を見た。凛は這うようにして立ち上がり、操舵室に向かった。
「代わる。——早川くん、舵を」
「え、まだ休んだ方が——」
「この先の水路は私でなければ通れない」
凛が早川から舵を受け取った。海水で濡れたまま、震える手で操舵輪を握る。だがその手つきに迷いはなかった。
「この海は——私の庭です」
凛が潮風を狭い島影に滑り込ませた。小さな島と島の間の水路。海鷹の船体では通れない幅だ。凛は岩礁の配置を暗記しているかのように、船を寸分違わず通していく。
早川がしがみつきながら、凛の操船に見惚れていた。
「凛さんの操船見てると惚れ惚れするっていうか——すげえ……」
その瞬間、早川のノートPCの画面に一行のメッセージが表示された。Phantom。
「へー。惚れ惚れ。ふーん。(・_・)」
絵文字がいつもの (≧▽≦) ではなく、無表情の (・_・) だった。早川はそれに気づかなかった。凛の操船を見るのに忙しかったから。
追跡を振り切った。
安全な海域に出た。凛がエンジンの回転を落とし、操舵輪から手を離した。指が白くなっている。ずっと握りしめていた。
「三枚目——」凛が潮印を直人に手渡した。直人が受け取る。凛の手が冷たい。海水で体温が下がっている。
「毛布を」直人が早川に言った。
「はいっす」
早川が毛布を持ってきた。凛の肩にかけた。
「凛さん、大丈夫すか。水中で何があったんすか」
「瀬戸に——腕を掴まれました。潮印を奪おうとされた。——蹴って振り払いましたけど」
「蹴った!? 水中で!?」
「水中格闘は海女の基本です」凛が少し笑った。「タコと格闘するのに比べたら、人間のほうが楽です」
直人は潮印の裏面を確認した。
「三ノ潮。次ハ毒ノ島。地ノ下ニ眠ル」
「毒の島——大久野島です」凛が言った。「旧日本軍の毒ガス工場があった島。今はうさぎ島として知られていますが、地下には当時の施設が残っています」
「地下施設。——また潜入か」
「はい。四枚目は地の下。——でも大久野島の地下施設は、崩落の危険があります。戦後八十年、放置されていた施設ですから」
直人は瀬戸内海の水平線を見つめた。三枚目を手にした。残りは二枚。四枚目は大久野島の地下。五枚目は——凛がまだ明かしていない。
「凛さん。水中格闘、見事だった。俺は、ヘラで応戦するのがやっとだよ」
「鷺宮さんの手は——修復のための手です。無理はしないでください」
「確かに。でも、いざという時は躊躇しないさ。修復できるってことは——」
「壊すこともできる、でしょ?」早川がデッキから顔を出した。「全く、普段運動だって碌にしてないのに、カッコつけちゃって」
「お前に言われたくない」
「俺は自覚あるっすよ。腕立て五回で死ぬ男っす。——でも鷺宮さん、ヘラ一本で元自衛官の手首を打ったのは事実っすからね。次もヘラでお願いします。俺は後ろで応援するんで」
「応援じゃなくてバックアップしろ」
「了解っす。基本っすから」
凛が小さく笑った。張り詰めていた船上の空気が、少しだけ緩んだ。
操舵室の窓の向こうで、夕日が瀬戸内海を赤く染めていた。
直人は一人で甲板に出た。海風が汗を冷やしていく。
自分の手を見つめた。修復士の手。ヘラを握り、紙を直し、ギミックを開く手。
この手は、何を守る手なのか。文化財か。仲間か。
それとも——。




