第六話 裏切りの港
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能島に向かう前に、凛が提案した。
「鞆の浦に立ち寄りたい」
「鞆の浦? 三枚目は能島だろう」
「はい。でも——鞆の浦に、来島暁がいます」
直人は凛を見つめた。凛の目が、いつもと違った。決意と——迷いが混ざっている。
「なぜ来島の居場所を知っている」
「来島とは——面識があります。何度か会ったことがある。古美術の取引で。来島は闇ブローカーですが、表向きは海運会社のCEOで、瀬戸内海の経済界では顔が利く。古美術商としての私とは、業界が重なる」
「それで」
「来島と直接交渉したい。これ以上の暴力沙汰を避けるために」
「交渉? 来島が話し合いに応じると思うか」
「分かりません。でも——試す価値はあります。来島は学のある人間です。暴力は手段であって目的ではない。話が通じる可能性がある」
直人は凛の提案に懐疑的だった。だが凛は村上水軍の当主だ。この海の歴史を背負っている。直人がその判断を否定する権利はない。
「一人で行くつもりか」
「はい。あなたたちが一緒だと、来島は警戒します。——私一人なら、同じ海の人間として話ができる」
「危険だ」
「承知しています」
直人は真琴を見た。真琴が頷いた。
「彼女の判断を尊重すべきです。——ただし、何かあった時のために、近くで待機しましょう」
潮風は鞆の浦の沖に停泊した。凛は小型ボートで港に向かった。一人で。
直人と真琴と早川は、船上で待った。
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鞆の浦は江戸時代の町並みが残る港町だ。常夜灯、雁木、波止場。坂本龍馬が「いろは丸事件」の交渉をした場所でもある。
凛は港の近くの料亭に入った。来島暁が待っている。
来島は四十二歳。長身。痩せた顔。鋭い目。高級なスーツを着ているが、どこか海の匂いがする男だった。
「凛さん。久しぶりですね。——座ってください」
「来島さん。単刀直入に言います。暴力を止めてください」
「暴力? 心当たりがありませんが」
「因島で鬼頭が私たちを襲った。しまなみ海道でSUVが体当たりしてきた。——あなたの指示ではないと?」
「鬼頭は独断が過ぎる男でしてね。指示はしていませんが、止めもしなかった。——反省しています」
嘘だ。凛には分かった。だが表面上は穏やかだ。
「来島さん。海の蔵は村上家の財産です。あなたには権利がない」
「権利? 村上も来島も、元は同じ海の民です。海の蔵は村上だけのものではない」
「武吉公が隠したものです」
「武吉公が『海の民のために』隠したのなら、来島も海の民です。——凛さん、協力しませんか。潮印を分け合いましょう。五枚のうち二枚を私に、三枚をあなたに。最終的には一緒に竜宮を開く」
「お断りします」
「そうですか。——では、別の提案を」
来島がテーブルの上に、写真を置いた。
写真には——村上堂の外観。店の前に立つ凛の母親。八十代の老女。
「お母様はお元気ですか。——尾道は物騒になりましたからね。一人暮らしのお年寄りは心配です」
凛の手がテーブルの下で握りしめられた。脅し。母親を脅しに使っている。
「……何が望みですか」
「潮印を一枚。一枚だけでいい。因島で見つけた一枚目を」
凛は考えた。母親の安全。一族の使命。直人への信頼。
「——分かりました。一枚、渡します」
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凛が港に戻ってきた時、直人は彼女の顔色が変わっていることに気づいた。
「どうだった」
「交渉は——成立しました。来島は当面、暴力的な行動を控えると約束しました」
「何と引き換えに」
凛が黙った。
「凛さん」
「……一枚目の潮印を渡しました」
直人の表情が凍った。
「渡した?」
「はい」
「なぜ——」
「理由があります。ですが今は説明できません」
直人は凛を見つめた。裏切り。その言葉が頭をよぎった。だが——凛の目は逸れなかった。直人をまっすぐに見ていた。
「鷺宮さん。信じてください」
「信じる根拠がない」
「あります。——でも今は言えない。もう少しだけ時間をください」
船上の空気が凍りついた。真琴が直人と凛の間に立った。
「直人さん。彼女を信じるべきです」
「根拠は」
「女の勘です」
「勘で——」
「勘ではなく、観察です。凛さんの瞳孔は拡大していません。嘘をついている人間の瞳孔は拡大します。——彼女は嘘をついていない。理由があるのは本当です」
真琴の冷静な分析に、直人は黙った。
早川がデッキから顔を出した。
「鷺宮さん——凛さんの気持ちも分かるっすよ。お母さんを脅されたんじゃないかって俺は思いますけど」
凛がぴくりと反応した。
「早川くん——」
「だって、交渉前に来島と何話すか考えてた時、凛さんスマホで尾道の実家に電話してたじゃないすか。お母さんの安否確認。——来島に何か言われたんすよね。お母さんのこと」
凛の目に、涙が浮かんだ。一瞬だけ。すぐに拭った。
「……早川くんは、よく見ていますね」
「ITエンジニアは観察が命っすから」早川が照れ臭そうに笑った。「凛さんのこと、信じてるっすよ。俺は」
直人は息を吐いた。
「……分かった。今は——信じる。だが凛さん、説明はいずれしてもらう」
「はい。必ず。——ありがとうございます、鷺宮さん」
凛が直人を見た。その目に、感謝以上の感情があった。直人がそれに気づかなかったのは、隣で真琴が小さくため息をついたからだ。
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鞆の浦を離れようとした時、港に車が三台入ってきた。黒いSUVが二台と、白いバン。
「来島の部下——! 約束を破ったのか!」
「違います」凛の目が鋭くなった。「あれは——朝倉の車です」
白いバンの側面に「内閣官房」のステッカー。政府の車だ。
「朝倉が動いた。——港を封鎖する気か」
車から男たちが降りてきた。スーツの男が四人。そしてその後ろに——制服の男が二人。海上保安庁。
「海保まで——」
「文化財の不法持ち出しを名目に、身柄を確保する気です」直人が判断した。「船で出るしかない。今すぐ」
凛がエンジンを全開にした。潮風が港から飛び出す。岸壁の男たちが叫んでいるが、もう遅い。
だが海保が来ているということは——巡視艇が出る可能性がある。
「凛さん。鞆の浦の海保の巡視艇は」
「最寄りの海上保安署は福山。巡視艇が出るまで二十分。——二十分あれば、島影に隠れられます」
潮風が全速力で鞆の浦を離れた。直人はデッキから振り返った。港が小さくなっていく。
三つ巴。来島の暴力。政府の法律。そして——味方の中の秘密。
直人は懐の中の潮印——二枚目——を握りしめた。一枚目は凛が来島に渡した。手持ちは一枚だけ。
能島で三枚目を取らなければ、追い詰められる。
「能島へ」直人が言った。「今度こそ」
凛が頷き、舵を切った。潮風が白い波を引いて、瀬戸内海の西に向かった。




