第四話 しまなみの罠
大三島を出る準備をしている時、真琴から緊急の連絡が入った。
「直人さん。私もそちらに行きます」
「東京から?」
「巻物の解読が完了しました。全文を持って行きます。——それと、朝倉室長の動きが気になります。現地で直接対応したほうがいい」
「……分かった。気をつけて来てくれ」
真琴は新幹線と在来線で福山に向かい、そこからしまなみ海道経由で大三島に来る手はずだ。直人は凛の船で大三島の港に戻り、真琴を待つことにした。
だが真琴が福山に着いた頃、早川が叫んだ。
「鷺宮さん! Phantomがまた動いてる! ——九条さんの携帯のGPSを追跡してやがる!」
「真琴さんの!?」
「来島は九条さんの存在を知ってる。俺たちの通信を傍受してたから。——九条さんがしまなみ海道に入った瞬間に位置が捕捉されてる」
直人は即座に真琴に電話した。
「真琴さん。GPSを切ってくれ。位置が追跡されている」
「えっ——」
「今すぐ。スマートフォンの位置情報をオフに。それとナビも切れ。カーナビのGPSも追跡の対象になる」
「分かりました。——でも直人さん、ナビなしでしまなみ海道を走るのは」
「道は一本だ。橋を渡り続ければ着く。——俺たちが迎えに行く。しまなみ海道の途中で合流しよう」
直人は凛に言った。
「真琴さんを迎えに行く。車を借りられるか」
「港のレンタカーがあります」
凛が軽自動車のレンタカーを手配した。直人が運転席に座り、凛が助手席。早川は船に残って通信の監視。
「鷺宮さん、運転大丈夫っすか」早川が船から叫んだ。
「免許は持ってる」
「持ってるだけじゃないすか! ペーパーっす——」
車が発進した。大三島からしまなみ海道に入る。多々羅大橋を渡り、生口島へ。生口島から生口橋を渡り、因島へ。
因島を縦断し、因島大橋を渡って向島へ。向島から尾道大橋で本州——
その前に、真琴と合流する必要がある。真琴は福山からしまなみ海道に入り、反対方向から走ってくる。合流地点は——
直人のバーナーフォンが鳴った。真琴。
「直人さん。今、因島に入りました。因島の北部を走って——」
「俺も因島にいる。南から走ってる。因島の中央付近で——」
直人の言葉が途切れた。
バックミラーに——黒い車。大型のSUV。ナンバーは——愛媛。
「来た——」
「直人さん?」
「後ろに来島の車がいる。真琴さん、合流地点を変える。因島の——」
黒いSUVが加速した。軽自動車との馬力差は歴然だ。距離が一気に詰まる。
「凛さん。道を知ってるか」
「知っています。次の交差点を左。——漁港に抜ける道があります」
直人がハンドルを切った。軽自動車が急カーブで傾く。タイヤが悲鳴を上げた。
左折。狭い道。両側にミカン畑。黒いSUVも左折してきた。だが道が狭い。SUVのボディが両側の木の枝を掻き分けながら追ってくる。
「この先、T字路を右。港の手前で——」
T字路。右折。港が見えた。漁船が並んでいる。だが潮風はここにはない。別の港だ。
黒いSUVがT字路を曲がってきた。距離五十メートル。
「真琴さん! 因島の南の漁港に来てくれ! ——ナビは使うな! 標識を見て——」
「分かりました。向かいます」
直人は港を通り過ぎ、島の反対側に向かった。因島は小さい。端から端まで車で十五分。黒いSUVとの鬼ごっこは、島の狭い道路で展開された。
凛が的確にナビゲートした。この島の道をすべて知っている。
「次を右。坂を上がって——墓地の脇を通って——」
「墓地!?」
「近道です。車一台分の幅しかないですが」
直人が急ハンドルを切った。石の塀に挟まれた細い道。サイドミラーが石に擦れて火花を散らした。
「ミラーが——!」
「構わない。命のほうが大事です」
墓地の脇を抜けると、島の東側の海沿いの道に出た。黒いSUVは墓地の道に入れず、大回りを強いられている。
「リードを稼いだ。このまま北に走って——因島大橋の手前で真琴さんと合流する」
因島の北端に向かって走った。しまなみ海道の本線に戻る。因島大橋のたもと。
前方から——白いレンタカーが走ってきた。真琴だ。
二台の車が、橋のたもとで停まった。真琴が運転席から降りてくる。紺のスーツ。だが靴はスニーカーに替えている。前回の教訓だ。
「直人さん——!」
「乗り換えろ! こっちの車に——」
真琴が直人の軽自動車の後部座席に飛び乗った。
直人が再発進。因島大橋に向かう。
バックミラーに黒いSUVが見えた。追いついてきた。距離三百メートル。
因島大橋。全長一二七〇メートルの吊り橋。海面からの高さ五十メートル。橋の上は片側一車線。追い越しは不可能——のはずだが。
橋に入った。軽自動車のエンジンが悲鳴を上げている。アクセル全開で時速八十キロ。黒いSUVが橋の入口に現れた。加速。あっという間に距離を詰めてくる。
「ぶつけてくるつもりか——」
SUVが軽自動車の後部バンパーに迫った。一メートル。五十センチ。
衝撃。SUVのバンパーが軽自動車の後部に接触した。車体が揺れる。真琴が後部座席で悲鳴を上げた。
「直人さん!」
「しっかり掴まれ!」
SUVがもう一度衝突。軽自動車がスピンしかけた。直人がハンドルを必死に押さえる。橋の欄干が迫る——
「ブレーキ!」凛が叫んだ。
直人がブレーキを踏んだ。急減速。SUVが慣性で直人の横を通り過ぎた。一瞬だけ、SUVの運転席が見えた。鬼頭ではない。別の男。若い。体格がいい。
SUVが前に出た。だが橋の上でUターンはできない。SUVはそのまま橋を渡り切って向島側に消えた。
「今のうちだ。橋を戻る——」
直人がハンドルを切り、因島側に戻った。橋を降りて、凛の指示で脇道に入る。林の中の砂利道。車を止めた。
三人とも、息が荒い。直人の手がハンドルを握りしめて白くなっていた。
「真琴さん。怪我は」
「ありません。——でも心臓が」
「凛さんは」
「無事です。——鷺宮さん、あの車の運転手は鬼頭ではありませんでした。別の人物です」
「来島の部下が複数いるということか」
「はい。——少なくとも二人以上」
直人はバーナーフォンで早川に連絡した。
「早川。カーチェイスになった。因島大橋の上で。——無事だ。これから港に戻る。船で出るぞ」
「了解っす。——鷺宮さん、もう一個マズい情報あるんすけど」
「何だ」
「Phantomの通信を逆探したんすけど、もう一つ別の通信先が見つかった。来島だけじゃない。——霞が関の回線にも情報を送ってる」
「霞が関?」
「朝倉って奴の部署っす。文化財特別対策室。——Phantomは来島と朝倉の両方に情報を売ってる。二重スパイってやつすよ」
三つ巴。来島、政府、そして暗躍するハッカー。
直人は砂利道の先の、木漏れ日の中を見つめた。
「……行くぞ。まだ二枚しかない。あと三枚」
「二枚目の裏面の文字——『次ハ渦ノ城。潮止マリヲ待テ』。渦の城は能島でしょう」凛が言った。「口伝では五つの島に潮印が散らばっているとだけ伝わっています。でも具体的にどの島かは——一枚ずつ裏面を読まなければ分からない」
「つまり順番に辿るしかない」
「はい。武吉公は、一枚ずつ集める過程そのものを試練にしたのだと思います。——まず、能島に行きましょう」
「能島の潮印には、四枚目の場所が書いてあるはずだ」
「そして五枚目は——」凛が言葉を切った。口伝にはもう一つ、五枚目だけに関する言い伝えがあるようだった。
「五枚目は?」直人が聞いた。
「……あとで話します。まだ確信がないので」
凛の声に、また——隠し事の気配がした。直人はそれに気づいたが、今は追及しなかった。
車を港に戻し、潮風に乗り込んだ。真琴がデッキに立ち、瀬戸内海の風を受けた。
「直人さん」
「何だ」
「……運転、思ったより上手でした」
「嘘をつくな。サイドミラーを吹き飛ばしただろう」
「それでも。守ってくれました」
真琴が直人を見つめた。風が真琴の髪を揺らしている。直人は真琴の目を見つめ返した。
言葉にならない何かが、二人の間を流れた。あと半歩。いつもの半歩。だがその半歩が——少しだけ縮まった気がした。
操舵室で凛が、ちらりとこちらを見たのを、直人は気づかなかった。




