第二十話 潮風のエピローグ
十二月。尾道。
すべてが終わった後の、穏やかな日。
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直人と真琴は、千光寺公園の展望台にいた。
尾道水道が眼下に広がっている。向島との間の狭い海峡を、渡船が行き来している。瀬戸内海の島々が、冬の澄んだ空気の中でくっきりと見えている。
「きれいですね」真琴が言った。
「ああ」
「前の事件の後は、皇居の前で待ち合わせでしたね。今回は——尾道の展望台」
「次はどこがいい」
「次? また事件に巻き込まれるんですか」
「いや。——デートの話だ」
真琴が直人を見た。直人は海を見ていた。耳が赤い。
「……直人さん。今、デートって言いました?」
「言った」
「初めてですね。その言葉を使ったの」
「悪いか」
「悪くないです。——むしろ、遅すぎます」
真琴が直人の腕に手を添えた。直人が真琴の手を取った。星霜蔵の洞窟の時と同じ——だが今度は、迷いがなかった。
「直人さん。私、あなたに聞きたかったことがあります」
「何だ」
「水の中で——レギュレーターを渡してくれた時。あれは本当に、レギュレーターだけでしたか」
直人は黙った。三秒。五秒。
「……唇が触れた。一瞬だけ。——レギュレーターを渡す前に」
「やっぱり」
「不可抗力だ。水中で——」
「不可抗力でいいです。——今度は、不可抗力じゃなくていいですよ」
直人が真琴を見た。真琴が直人を見た。
冬の陽光が二人を照らしている。尾道水道の向こうに、瀬戸内海が銀色に広がっている。
直人が真琴の頬に手を添えた。修復士の手。紙を直す手。ギミックを開く手。そして——
唇が触れた。今度は、レギュレーターなしで。
長い時間ではなかった。だが、一年半かかった半歩が——ようやく、ゼロになった瞬間だった。
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同じ日。東京。秋葉原のゲームセンター。
早川とサラが、対戦格闘ゲームの筐体の前に並んで座っていた。
「三本勝負。負けた方がラーメン奢り」
「いいよ。——あ、あんたの好きなキャラ、前回の対戦で弱点見つけたから。今日は勝つよ」
「なっ——お前、前回の対戦ログ解析したのか」
「当たり前。データ分析はハッカーの基本」
「卑怯な——」
「卑怯じゃない。戦略。はい論破」
ゲームが始まった。画面の中でキャラクターが飛び交う。早川の指とサラの指が、コントローラーの上で高速に動く。
一本目。サラの勝ち。
「ほら」
二本目。早川の勝ち。
「どうだ!」
三本目。接戦。体力ゲージが互いに残り一割。
最後の一撃。同時。
ダブルKO。引き分け。
「引き分け——」
「引き分け——」
二人が同時に言った。顔を見合わせた。
「……ラーメン、割り勘?」
「割り勘で」
ゲームセンターを出た。秋葉原の電気街を並んで歩く。
「あ、そういえばHayaP」
「何」
「能島の後にさ、凛さんの操船見て『惚れ惚れする』って言ってたよね」
「は? 何で知って——あ。バックドアで監視してた時か」
「うん。あの時、けっこうムカついた」
「ムカついた? なんで?」
「なんでかは言わない。——でも今は別にいい」
「なんで今は別にいいの」
「大久野島で、凛さんのこと一ミリも考えてなかったって言ってたから。——あれ、嘘じゃないよね」
「嘘じゃない。マジで一ミリも。お前のことしか——」
早川が自分の言葉に気づいて、赤くなった。
「——考えてなかった。技術的な意味で」
「技術的な意味ね。——ふーん。まあいいや」
「サラ」
「何」
「セキュリティ会社の件。考えてくれた?」
「考えた。——やる」
「マジか!」
「条件がある」
「何でも」
「社名は私が決める」
「……何にするの」
「Phantom Security。——いい名前でしょ」
「お前のハンドルネームじゃん!」
「問題ある?」
「ある! 俺の名前も入れろ!」
「HayaP Security? ダサ」
「ダサくない! ——いや、ダサいか。……分かった。Phantomでいい」
「素直。——あ、もう一個条件」
「まだあんの」
「次負けたら告白してね」
「は?」
「前にも言ったじゃん。冗談——半分って」
「どっちの半分——」
「今度は、七割本気」
早川が足を止めた。真っ赤になった。口が開いて、閉じて、また開いた。
「……告白って、俺がサラに?」
「他に誰がいるの」
「だって、お前——俺のこと——」
「大久野島で助けてくれた時から。——気づいてなかったの?」
「気づいてなかった——!」
「HayaP、セキュリティは得意なくせに、人の心のセキュリティは甘いんだね」
「お前にだけは言われたくない——」
だが早川は笑っていた。サラも笑っていた。
秋葉原のネオンが二人を照らしている。ピンクメッシュの髪と、汗っかきのエンジニア。世界最強のハッカーコンビの、始まりの夜。
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尾道。村上堂。
凛は店の奥の小さな仏壇の前にいた。仏壇には、村上武吉の肖像画(江戸時代の模写)が掛けてある。
線香を上げた。手を合わせた。
「武吉様。海の蔵は——見つかりました。遺言もお届けしました。太刀は因島の博物館に。——海の近くに」
目を開けた。肖像画の武吉は、鎧兜を纏い、海を見据えている。戦国の男の顔。
「来島との因縁も——終わりました。始まりに変わりました。これからは一緒に、瀬戸内海を守ります」
凛は立ち上がり、店に出た。
格子戸を開けると、尾道の坂道が夕日に染まっていた。石段の上に猫が座っている。海が光っている。
凛の携帯が鳴った。画面を見る。来島からのメッセージ。
「財団の定款、弁護士に相談中。退所後に詳細を詰めたい。——海の民の誇りを、共に」
凛は小さく笑った。
そしてもう一通。直人からのメッセージ。
「凛さん。因島の展示、大盛況だそうです。管理者のおじさんが泣いて喜んでたと早川から連絡がありました。——ありがとう」
凛はメッセージを見つめた。長い間。
そして返信を打った。
「こちらこそ。——お幸せに、鷺宮さん」
送信した。携帯をしまった。
石段を降りて港に向かう途中、千光寺公園の下の坂道を通りかかった。
展望台の方を——ふと見上げた。
展望台に、二人の人影。直人と真琴。手を繋いでいる。夕日を浴びて、二人の影が一つに重なっている。
真琴が何か言って、直人が笑った。直人が笑う顔を——凛は何度も見てきた。だがあの笑い方は、凛の前では見せなかった顔だ。肩の力が抜けた、飾らない笑顔。
(——そうか。あの人は、ああいう顔で笑うんだ)
凛の胸が、きゅっと痛んだ。一瞬だけ。
そして——微笑んだ。
(これでいい)
一族の掟は「部外者に心を許すな」。凛はその掟を破った。破って——よかった。直人に出会えて、海の蔵を見つけて、五百年の因縁を終わらせることができた。
それだけで十分だ。十分であるはずだ。
(——十分、です。武吉様)
凛は展望台に背を向け、港に向かって歩き出した。石段を降りる足取りは、尾道に来た直人を迎えたあの日と同じだ。だが——あの日より、少しだけ軽い。
重荷を下ろしたからではない。新しい荷物を背負ったからだ。切ない記憶という名の、温かい荷物を。
波止場に潮風が揺れている。白い船体。青いライン。
凛は潮風に乗り、エンジンをかけた。舵を握る。
船が港を離れる瞬間、風が凛の頬を撫でた。塩の匂い。瀬戸内海の、四百年変わらない風。
凛は一度だけ、尾道の町を振り返った。展望台はもう見えない。
「——お幸せに」
誰にも聞こえない声で言った。
そして舵を切った。西へ。島々の間を。瀬戸内海の夕暮れの中を、白い船が一隻だけ、進んでいった。
行き先は——まだ決まっていない。だが海は広い。島は無数にある。
四百年前の海賊の血が、凛の中で脈打っている。
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池袋。直人のシェアオフィス。
修復台の上に、新しい掛け軸が広げられていた。江戸後期の花鳥画。絹本。虫食いと折れによる損傷。
直人は白手袋を嵌め、和紙の補修紙を準備した。糊を溶く。刷毛を手に取る。
修復士の日常。壊れたものを直す。見えないものを見つける。
横のスマートフォンが鳴った。真琴からのメッセージ。
「今日のお昼、一緒にどうですか。書陵部の近くにできた新しいお店、気になっています」
直人は小さく笑った。修復道具を置き、返信を打った。
「行く。——十二時に正門の前で」
正門の前で。一年前の秋と同じ場所。あの日、二人はそこから歩き始めた。そして——一年半かけて、ようやくここまで来た。
直人は掛け軸に向き直った。刷毛を手に取り、補修紙を貼り始めた。
壊れたものを直す。それが修復士の仕事だ。
だが直人は知っていた。世の中には、壊れていないのに隠されているものがある。見えているのに、気づかれていないものがある。
それを見つけるのは——手を動かし、目を凝らし、耳を澄ます人間だ。
祖父がそうだったように。
そして直人も、そうであり続ける。
窓の外に、冬の青空が広がっていた。池袋のビルの谷間の、狭い空。だがその空は、瀬戸内海の空と繋がっている。
海は誰のものでもなく、すべての者のもの。
空も、きっと同じだ。
(了)




