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第二話 因島の城  

瀬戸内海の朝は、光が違う。


 東京の朝は灰色がかった白だが、瀬戸内海の朝はオレンジと青が混ざった透明な光だ。海面が朝日を反射して、無数の金の鱗を撒いたように輝く。


 凛の船は十二メートルの漁船を改造したクルーザーだった。「潮風」という船名。白い船体に青いライン。操舵室は最新のGPSとレーダーを備えている。


「村上堂の店主が、なぜこんな船を」直人が聞いた。


「瀬戸内海の古美術商は、島々を回って品物を集めます。船は商売道具です」


 嘘ではないだろう。だがそれだけでもないだろう。凛の操船は、商売のために船を使う人間の動きではなかった。舵を切る手つき、波を読む目——体に染みついた海の人間の動作だ。


 早川がデッキの手すりにしがみついていた。船酔いだ。


「うぅ……揺れる……」


「瀬戸内海は日本で最も穏やかな海です。これで酔うのは珍しい」


「俺、乗り物全般ダメなんすよ……車も電車もギリで……」


「早川、水を飲め。前を見ろ。下を見るから酔う」


 直人が早川にペットボトルを渡した。真琴は東京に残り、巻物の残りの解読を続けている。直人、凛、早川の三人で因島に上陸する計画だ。


 十分後。早川がまたデッキの手すりにしがみついていた。


「鷺宮さん……俺、前世で船の神様に何かしたんすかね……」


「前世の話は知らん。今世で水を飲め」


「水飲んでも出るんすよ……。てか凛さん、なんでこんなに揺らすんすか」


「揺らしていません。波がないのに酔っているのは、あなたの三半規管の問題です」


「三半規管をディスられた……」


 早川が手すりから海に向かって嗚咽した。その背中を、カモメが一羽、興味深そうに眺めていた。


 因島が近づいてきた。


 因島は瀬戸内海のほぼ中央に位置する島で、しまなみ海道の途中にある。村上水軍の拠点の一つだった。島の北部に因島水軍城——正確には一九八三年に建設された資料館だが、城の形をした建物の中に、村上水軍の資料が展示されている。


「因島水軍城には、武吉公の甲冑のレプリカが展示されています。本物は散逸してしまいましたが、江戸時代に作られた精巧な写しです。——潮印は、その甲冑の台座の中に隠されていると」


「台座の中? 巻物にそう書いてあったのか」


「巻物ではなく、一族の口伝です。『鎧の足元に潮の道あり』。代々伝えられてきた言葉ですが、誰もその意味を確かめたことがなかった」


「確かめなかった? 四百年間?」


「確かめるには、巻物の裏面を読む必要があった。口伝だけでは場所が分かっても、開け方が分からない。——鷺宮さんが裏面を読めるようにしてくれたから、今、確かめられるのです」


 凛が直人を見た。朝日を背にした凛の横顔は、切れ長の目に光が反射して、どこか神秘的だった。


「ありがとうございます。あなたに頼んで——正解でした」


 凛の声が、ほんの少しだけ柔らかかった。尾道で初めて会った時の刃物のような声ではなく。


「……礼はまだ早い。見つけてからだ」


---


 因島水軍城は、島の高台にあった。城の形をした三階建ての資料館。展示室には甲冑、刀剣、航海図、旗指物が並んでいる。


 観光客は少ない。平日の午前中。受付のおばさんに入館料を払い、三人で展示室に入った。早川は船酔いから回復し、カメラを構えている。


「これです」


 凛が立ち止まった。展示室の中央。ガラスケースの中に、甲冑が飾られている。


 赤糸威の大鎧。兜には三日月の前立て。胴には村上家の家紋——丸に上の字。江戸時代の写しとはいえ、精巧な作りだ。


 直人はガラスケースの下を見た。台座。木製。黒漆塗り。高さ三十センチほどの箱型。


「台座の中に——」


「口伝では『鎧の足元に潮の道あり』。足元=台座。潮の道=潮印への道」


 直人はガラスケースの周囲を歩いた。修復士の目で観察する。ケースの鍵。台座の接合部。木材の種類。漆の状態。


「台座の漆は二層ある」


「二層?」


「表面の漆は江戸後期。だが接合部の内側に、もう一層古い漆がある。台座は——二つの時代の木材で構成されている。外側は江戸後期に作り直されたが、内部の構造はもっと古い」


「戦国時代の——」


「可能性がある。——ガラスケースを開けたい」


 凛が受付に戻った。数分後、資料館の管理者——地元の歴史愛好家のおじさん——を連れて戻ってきた。


「村上さんとこの凛ちゃんか。久しぶりじゃね。——甲冑の台座を見たいって?」


「はい。木工の状態を確認したいのです。こちらは文化財修復士の鷺宮さん」


「鷺宮——。あの星霜蔵の鷺宮さんかね! テレビで見たで。いやー、すごい人が来たもんじゃ」


 管理者のおじさんは快くガラスケースの鍵を開けてくれた。「壊さんでくれよ」と笑いながら。


 直人は白手袋を嵌め、台座に手を触れた。


 指先が、木の表面を滑る。漆の下の木目を読む。繊維の方向。接合部の隙間。


「ここだ」


 台座の底面。四隅のうち一つだけ、接合部の幅が微妙に広い。誤差〇・五ミリ。職人が意図的に広くした隙間。


 直人は修復道具の極細ヘラを取り出し、隙間に差し込んだ。ヘラが奥に入る。通常の接合部なら数ミリで止まるが、この隙間は——三センチ入った。


「空洞がある」


 ヘラの角度を変え、内部を探った。金属の感触。


「何かある。——引き出す」


 ヘラで金属片をこじり出した。


 真鍮の円盤。直径五センチ。表面に線刻。


 潮印だった。


 円盤の表面には、瀬戸内海の海図の断片が刻まれている。島の輪郭。海流の矢印。水深を示す数字。一枚だけでは全体像が分からないが、他の断片と重ね合わせれば——


「一枚目——」凛の声が震えていた。「四百年間、ここに——」


「凛ちゃん? 何が出てきたんかね」管理者のおじさんが覗き込んだ。


「大発見です。——あとで詳しくご説明します。ありがとうございました」


 直人は潮印をポケットに入れ——


 展示室の入口に、男が立っていた。


 体格がいい。短髪。昨日、尾道の坂道で追ってきた男と同じ体格。だが今日はスーツを着ている。


 男の視線が、直人のポケットに向いた。


「鬼頭——」凛の声が低くなった。


「村上さん。お久しぶりです。——その手に持っているもの、見せていただけますか」


 鬼頭の声は丁寧だった。だが目が笑っていない。元自衛隊。格闘のプロ。


「お前に見せるものはない」凛が直人の前に立った。


「そうですか。では——」


 鬼頭が動いた。速い。自衛隊仕込みの踏み込み。凛に向かって右手を伸ばす。


 凛がかわした。体を半回転させて鬼頭の腕をいなし、逆に手首を掴んで捻った。合気道の動き。だが鬼頭の体重が凛の倍近い。捻りが効かない。


 鬼頭が左手で凛の肩を掴み、押し倒そうとした。


 直人が動いた。修復道具のヘラ——チタン製、長さ二十センチ——を握り、鬼頭の右手首の内側を叩いた。正確に。手首の腱の上。


 鬼頭が呻いた。右手が一瞬緩んだ。


 その一瞬で凛が離脱。直人は管理者のおじさんに叫んだ。


「警察を呼んでください!」


 鬼頭が体勢を立て直した。右手首を押さえている。だが戦闘能力は失われていない。


「鷺宮さん。文化財修復士が暴力沙汰とは。テレビで見た印象と違いますね」


「修復士は壊す側じゃない。だが直す方法を知っている人間は、壊し方も知っている」


 直人はヘラを構えたまま後退した。凛が直人の腕を引いた。


「裏口。展示室の奥に非常口がある」


 三人——直人、凛、早川——が展示室の奥に走った。鬼頭が追ってくる。だが展示ケースが障害物になって直線で追えない。


 非常口を蹴り開けた。外は高台の駐車場。日差しが眩しい。


「船だ。港まで走れ」


「走る!? 坂道を!?」早川が悲鳴を上げた。


「走れ!」


 三人が坂道を駆け下りた。因島の港は高台から見下ろせる。凛の「潮風」が白い船体を揺らしている。


 背後に鬼頭の足音。速い。確実に距離を詰めてくる。


「凛さん! 船のエンジン、リモートでかかるか!」


「かかります——」凛が走りながらスマートフォンを操作した。港に停泊している潮風のエンジンが、遠くで唸りを上げた。


 坂道の下に出た。港まで百メートル。


 鬼頭が追いついてきた。直人の背後五メートル。


 早川が突然立ち止まり、リュックからLEDランタンを取り出して最大光量で鬼頭の顔に向けた。


「目潰し!」


 六千ルーメンの白色光が鬼頭の目を直撃した。鬼頭が腕で顔を覆い、一瞬足が止まった。


「今だ走れ走れ走れ!」


 三人が港に駆け込んだ。潮風に飛び乗る。凛が操舵室に入り、スロットルを全開にした。


 船が岸壁を離れた。鬼頭が港に到着した時、潮風はすでに五十メートル沖に出ていた。


 鬼頭が岸壁に立ち、船を睨んでいる。直人は船尾のデッキから鬼頭を見た。距離が開いていく。百メートル。二百メートル。


 鬼頭がスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけた。


「……報告してるっすね。来島に」早川が息を切らしながら言った。


「ああ。潮印を取られたことと、俺たちが船で逃げたこと。——次に会う時は、もっと人数が増えるだろう」


 早川がノートPCを開いた。


「鷺宮さん。気になることがあるっす。因島の港の監視カメラ映像、ちょっとハックして見たんすけど——鬼頭とは別に、もう一人いた。スーツ姿の男。港の駐車場で、こっちの船が出るのを双眼鏡で見てた」


「来島の別の部下か」


「違うっすね。車が公用車っぽい。黒のセダン、ナンバーが品川。——霞が関から来てる感じっす」


「政府——」


「星霜蔵の発見で、お上が文化財の管理に本腰入れてもおかしくないっす。俺たちが次の埋蔵金を探してるって嗅ぎつけたなら——」


 凛がエンジンの回転を落とした。因島の港が小さくなっていく。瀬戸内海の穏やかな水面を、潮風が滑るように進んでいく。


「凛さん」直人が操舵室に入った。「次はどこだ」


「大三島。大山祇神社。——二枚目の潮印がある場所です」


「鬼頭が追ってくる前に」


「はい。——でもその前に、一つ確認したいことがあります」


 凛がポケットから潮印を取り出した。逃走中に直人が凛に渡したものだ。


「この潮印の裏面に、文字があります」


 直人が潮印を裏返した。裏面に小さな線刻。漢字。


「『一ノ潮。次ハ神ノ島。鎧ノ主ニ問エ』」


「一ノ潮。これが一枚目ということ。次は神の島——大三島は古来『神の島』と呼ばれています。鎧の主に問え——大山祇神社には、国宝の甲冑が多数奉納されています」


「甲冑の台座にまた隠されているのか」


「分かりません。でも——鎧の主に問え、という表現は、甲冑そのものに何か仕掛けがあるのかもしれない」


 直人は潮印を見つめた。四百年前の海賊が作った暗号体系。一年前の星霜蔵と同じ構造だ。


 直人は東京の真琴に連絡した。


「真琴さん。一枚目を見つけた。次は大三島に向かう」


「分かりました。巻物の解読は八割完了しました。——直人さん、気をつけて」


「ああ。——もう一つ頼みがある。早川が因島の港で政府関係者らしい人間を見つけた。内閣官房あたりに文化財がらみの新しい部署ができていないか、書陵部のネットワークで調べてもらえないか」


「政府が——? 直接は聞いたことがありませんが、調べてみます」


「もし政府も動いているなら——来島だけでなく三つ巴になる」


 電話を切った。


 瀬戸内海が目の前に広がっていた。穏やかな海。だがその水面の下に、四百年の秘密が眠っている。


 早川がデッキに出てきた。船酔いはだいぶ収まったらしい。


「鷺宮さん。凛さんってマジですごいすね。格闘できるし船操れるし美人だし。——完璧じゃないすか」


「早川。目的を忘れるな」


「忘れてないっすよ。ただ——凛さんの操船見てると惚れ惚れするっていうか——」


 早川が凛の操舵姿を眺めている。凛は前方の海を見つめ、舵を微調整している。風に黒髪がなびいている。確かに——絵になる光景だった。


「鷺宮さんは何も感じないんすか。あの美人を前にして」


「俺には真琴さんがいる」


「いるって——まだ付き合ってないじゃないすか!」


「うるさい」


 直人は操舵室に入った。凛の隣に立つ。


「大三島まで何分だ」


「この速度で四十分。——鬼頭が来島に報告したとすると、来島の船が出るまでに三十分。来島の本拠は今治。今治から大三島まで、高速クルーザーなら一時間。——私たちの方が三十分早い」


「三十分のリードか」


「十分です。大三島に着いたら、すぐに動きましょう」


 凛が直人を見た。海風が凛の前髪を揺らしている。


「鷺宮さん」


「何だ」


「さっき——鬼頭の手首を打ったの、すごかったです。修復士の手は、精密なだけじゃないんですね」


 凛の声に、尊敬とは別の温度が混じっていた。直人はそれに気づかず、ただ頷いた。


「ヘラは修復士の命だ。正確に力を伝える道具。——人を打つために作られたわけじゃないが」


「でも、あなたがいなかったら。——ありがとうございます」


 凛が微笑んだ。刃物の女が見せる、稀な笑み。


 直人は目を逸らした。海を見た。大三島の島影が、水平線の上に見え始めていた。

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