第十六話 水の中で
今治港で来島の予備船を出した。七メートルの高速リブボート。エンジンは三百馬力。潮風の三倍の速度が出る。
来島が操縦した。自分の船だ。フルスロットル。
「白石島まで三十分。——鬼頭は石切場に逃げ込んだはずだ」
「石切場?」
「白石島は花崗岩の石切場で知られている。島の東側に、採石場の洞窟がある。半分が水没していて、干潮の時だけ入口が開く。——鬼頭が隠れるなら、あそこだ」
「なぜ隠れる。太刀を持って逃走すればいい」
「太刀だけでは金にならない。鑑定書と来歴証明が必要だ。鬼頭は俺に——来島暁の名前で鑑定書を書かせるつもりだろう。人質は、その交渉材料だ」
直人の拳が震えた。
白石島が見えた。花崗岩の白い岸壁が陽光に輝いている。島の東側に、採石場の跡。巨大な岩壁がえぐられ、洞窟状の空間が口を開けている。
潮は——満ちてきていた。洞窟の入口は、海水面からわずかに上。あと一時間もすれば水没する。
「鬼頭はあの中にいる」
「入口は一つか」
「一つ。——海側の入口だけ。中は行き止まりだ」
リブボートが洞窟の入口に近づいた。岩壁に反響するエンジン音。
洞窟の中から声が聞こえた。鬼頭の声。
「来るな! 近づいたら女を沈める!」
直人の血が凍った。
「真琴さん! いるのか!」
「……直人さん——!」真琴の声。かすれている。「来ないで——罠が——」
「黙れ!」鬼頭の声。
来島がリブボートのエンジンを切った。波の音だけになった。
「鬼頭!」来島が叫んだ。「俺だ。来島だ。——出てこい。太刀は返せ」
「来島さんか。——あんたの船、いただいたよ。快適だった。——で、取引だ。太刀の鑑定書を書け。来島暁の名前で、正真正銘の村上水軍の遺品であると」
「書く。——女を返せ」
「先に鑑定書だ」
「ここで書く紙がない。陸に上がって——」
「嘘をつくな。上がったら警察を呼ぶだろう」
膠着状態。直人は洞窟の入口を見つめた。水位が——上がっている。潮が満ちてきている。
「鬼頭。洞窟が水没する。あと一時間もない。中にいたら全員溺れるぞ」
「俺はスキューバがある。泳いで出られる。——女は知らんがな」
真琴が——スキューバを持っていない。
「交渉の時間はない」直人が来島に囁いた。「中に入る」
「どうやって。入口は一つで、鬼頭が見張っている」
「水中から。洞窟は半水没だ。入口の下は水中。水中から泳いで中に入れば、鬼頭の不意を突ける」
「お前、スキューバの経験がないと——」
「さっき潜った。二回目だ。——装備はあるか」
「船に積んである」来島が船倉を開けた。リブボートには潜水用の装備一式が標準で搭載されていた。海運会社の船だ。
直人はスキューバを装着した。凛が装備の最終チェックをしてくれた。
「鷺宮さん。洞窟の中の地形は分かりません。水中は暗い。——慎重に」
「分かってる」
直人はスキューバを装着し、リブボートの反対側——洞窟の入口から見えない側——から静かに海に入った。
水中。暗い。LEDの水中ライトだけが頼り。
岩壁に沿って泳ぐ。洞窟の入口の水中部分に潜り込む。天井が低い。岩に頭をぶつけそうになる。
奥に進む。水中から——上に空間。顔を水面から出す。
洞窟の中。薄暗い。奥から鬼頭のLEDライトの光が漏れている。
直人は音を立てずに水面から体を出した。岩棚に這い上がる。
鬼頭が見えた。洞窟の奥の岩棚に立っている。右手に太刀の白鞘。左手に——
真琴。真琴が岩棚に座っている。手首を縄で縛られ——足が岩の隙間に挟まれている。
足が挟まっている。岩と岩の間に左足首が入り込み、抜けなくなっている。そして水位は——上がっている。真琴が座っている岩棚に、水が迫っている。
「直人さん——来ないでって言ったのに——」真琴の声が震えていた。
「黙っていてくれ」直人が囁いた。
鬼頭はリブボートの方を見ている。来島と凛が入口で声をかけ続けている。注意がそちらに向いている。
直人は岩棚を這って真琴に近づいた。
「足が——挟まってるのか」
「はい。鬼頭が——わざと岩の間に押し込んで——抜けなくて——」
水位が真琴の腰に達していた。
直人は真琴の左足を確認した。岩の隙間に足首が挟まっている。岩が重い。素手では動かせない。
ヘラ。修復道具のチタンヘラ。——洞窟の中に持ち込んでいた。スーツのポケットに。
直人はヘラを岩の隙間に差し込んだ。梃子にする。体重をかける。
岩が——動かない。
水位が真琴の胸に達した。
「直人さん——逃げて——間に合わない——」
「逃げない」
直人がもう一度ヘラに体重をかけた。全身の力を込めて。
鬼頭が気づいた。振り返った。
「何——! いつの間に——」
鬼頭が直人に向かって来た。だが入口の方から——来島が海に飛び込む音。来島が水中から洞窟に突入してきた。
「鬼頭!」
来島が鬼頭に体当たりした。二人が岩棚の上でもみ合う。太刀の白鞘が岩の上に落ちた。
直人は二人の戦いを見る余裕はなかった。水位が真琴の首に達している。
「真琴さん——息を止めて——」
「直人——さん——」
水が真琴の口を覆った。
真琴が水中に沈んだ。
直人が潜った。レギュレーターを咥えたまま。真琴の顔を両手で持ち上げ——自分のレギュレーターを外し、真琴の唇にあてがった。
空気。真琴が空気を吸った。目が開いた。水の中で、二人の目が合った。
直人がレギュレーターを戻し、一呼吸して、また真琴に渡す。交互に。一つの空気源を二人で分け合う。
その間も直人の手はヘラを握り続けていた。左手でレギュレーターを操作し、右手でヘラを岩の隙間に押し込む。
水中で、全身の力をヘラに集中させた。修復士の手。精密な力の伝達。ヘラの先端が岩の亀裂に入り——
岩が動いた。
隙間が広がった。真琴の足が抜けた。
直人が真琴を抱えて浮上した。水面に出る。真琴が咳き込んだ。水を吐いた。息をしている。
「真琴さん——!」
「——っ——!」真琴が激しく咳き込みながら、直人にしがみついた。
洞窟の奥で、来島が鬼頭を押さえつけていた。鬼頭は気絶している。来島の左手に——白鞘の太刀。もみ合いの中で岩棚に落ちた太刀を、鬼頭を倒した後に拾い上げていた。
「出るぞ! 水位が——」
洞窟全体が水没し始めていた。四人が水中に入り——来島が鬼頭を引きずり、直人が真琴を支えて——入口から海に出た。
外の光。太陽。波。
リブボートに凛が待っていた。全員を引き上げた。
真琴が甲板に倒れ込んだ。直人が真琴の体を抱き起こした。
「息——できるか——」
「はい——。はい——」真琴が咳き込みながら、直人の腕の中にいた。「直人さん——さっき——水の中で——」
「レギュレーターを——渡しただけだ」
「嘘です。——唇が、触れました」
直人は何も言えなかった。
「……忘れません」
真琴が直人の胸に顔を埋めた。震えている。冷たい。低体温だ。
直人が真琴を抱きしめた。修復士の腕で。壊れそうなものを、壊れないように。
「もう離さない」
それだけ言った。それで十分だった。




