第十三話 来島海峡
来島海峡は、しまなみ海道の南端、今治と大島の間にある。
四国と大島の間、わずか四キロの水路に、日本三大急潮流の一つが渦巻く。最大潮速は十ノット——時速約十八キロ。船舶の航行は極めて危険で、大型船は海上交通センターの管制を受ける。
小型船が潮止まり以外の時間に海峡中央部に入れば、潮流に翻弄される。
潮風は夜明け前に尾道を出た。しまなみ海道の下を東に進み、来島海峡に向かう。
「今日の潮止まりは午前十一時二十三分。約十二分間」凛が潮汐表を読んだ。「この十二分間に潜水し、洞窟を見つけ、中に入る。——一度きりのチャンスです」
「十二分。前回の能島より二分長い」
「ただし水深が違います。能島は二メートル。来島海峡の海底は——十五メートルから二十メートル」
「二十メートル——。フリーダイビングでは」
「無理です。スキューバが必要。——大三島で調達しました」
凛が船倉からスキューバの装備を二セット出した。
「二セット?」
「鷺宮さんも潜ります」
「俺はスキューバの経験がない」
「基本だけ教えます。水中で呼吸する方法と、耳抜きと、浮上の速度。——洞窟の中に入ったら、ギミックを開けるのはあなたの仕事です。私は操船と潮流の管理しかできない」
「凛さんが潜って、俺が船で待つのでは——」
「洞窟の中のギミックは、修復士の手が必要です。私の手では開けられない」
直人は自分の手を見つめた。修復士の手。紙を直す手。木を読む手。石のギミックを開く手。
そして——水中でも使える手なのか。
「……やる」
来島海峡が見えてきた。
来島海峡大橋の三連吊り橋が、朝日を受けて銀色に輝いている。橋の下を、白い波が西に向かって流れている。潮流だ。
「まだ潮が動いてる。あと一時間で止まる。——その前に位置を確認します」
凛がGPSで座標を入力した。五枚の潮印が指す地点。海峡の中央やや東寄り。
「この座標の真下に洞窟がある——はずです」
早川が魚群探知機を調整した。海底地形を映し出す。
「水深十八メートル。海底は岩場っすね。——あ、ここ。海底に窪みがある。幅三メートルくらいの——穴、っすかね」
「穴。洞窟の入口かもしれない」
「行けるっすか。十八メートルって結構深い——」
「行ける。十二分あれば十分だ」
午前十時。潮止まりまで一時間二十三分。
その時——レーダーに反応。
「船が来る」サラが叫んだ。「南東から高速接近。——AIS信号は……海鷹。来島の船です」
「来島——! 偽物だと気づいたのか」
「たぶんサラの離反で情報が漏れたと判断して、手持ちの情報で先回りした。来島海峡に来るだろうって——」
海鷹が見えた。白い船体に赤いライン。潮風の三倍の速度で接近してくる。
「もう一隻——!」サラが声を上げた。「北西から。海上保安庁の巡視艇! 朝倉もこの海域に張っていた——」
三つの船が、来島海峡に集結しようとしていた。直人の潮風、来島の海鷹、朝倉の巡視艇。
「三つ巴の決着——ここでつくのか」
「巡視艇が来たら、全員身柄確保される。来島もこっちも」
「来島はそれでも構わない。俺たちを止めることが目的なら——」
「いえ」凛が首を振った。「来島はそんな男ではありません。来島は自分で竜宮を開きたいのです。海保に捕まることは望んでいない」
「なら——来島も海保から逃げながら、俺たちとも戦う?」
「はい。三つ巴の海上戦です」
午前十時三十分。
海鷹が潮風の五百メートル後方に迫った。巡視艇は北西二キロ。近づいている。
「ボートチェイスの時間っすか——」早川が青ざめた。
「違う」凛が舵を握った。「逃げるんじゃない。時間を稼ぐ。潮止まりまであと五十三分。それまでこの海域に留まりながら、二隻をかわし続ける」
凛の操船が始まった。
潮風が急旋回した。海鷹が追う。だが凛は海峡の潮流を知り尽くしている。潮目を読み、渦を避け、反流帯に滑り込む。海鷹は馬力で押してくるが、潮流の読みでは凛に劣る。
巡視艇が無線で停船命令を出した。凛は無視した。巡視艇は大型で、島の近くの浅瀬には入れない。凛はその弱点を突く。
四十分間の海上チェイス。来島海峡大橋の下を何度もくぐり、島の間を縫い、渦潮の縁をかすめる。
「凛さんの操船——すげえ——」早川がしがみつきながら呻いた。
「吐くなら海に向かって吐いて」サラが冷たく言った。
午前十一時十五分。潮止まりまで八分。
潮流が目に見えて弱まってきた。海面が穏やかになっていく。
「今だ。座標地点に向かう。——早川、サラ、舵を頼む。潮止まりの間、直進を維持してくれ」
「俺が操舵!?」
「サラがナビゲーション。真琴さんは無線で海保の動きを傍受して。二隻の位置を把握し続けて」
「了解です」真琴がヘッドセットを装着した。
「お願い」
凛がウェットスーツを着た。直人も。二人がスキューバの装備を装着する。
午前十一時二十三分。潮止まり。
「行く」
二人が海に飛び込んだ。




