第十一話 毒の島
大久野島は、二つの顔を持つ島だ。
表の顔は「うさぎ島」。七百匹以上の野生のうさぎが暮らす観光地。フェリーで渡ると、桟橋にうさぎが群がってくる。
裏の顔は「毒ガスの島」。太平洋戦争中、旧日本軍がイペリットやルイサイトを製造した秘密の拠点。最盛期には地図からも抹消された。戦後八十年を経た今も、島のあちこちに毒ガス貯蔵庫や発電所の廃墟が残っている。
潮風は大久野島の南岸に着いた。フェリー桟橋の反対側。観光客が来ない側。
着岸の準備をしていると、南東の方角から小型のゴムボートが近づいてきた。一人乗り。操縦しているのは——若い女。ピンクのメッシュが入った髪。ヘッドフォンを首にかけている。
ゴムボートが潮風の横に付いた。女がひょいと船に飛び移った。
「やっほー。鷺宮直人さんのチーム、だよね」
「誰だ——」直人が身構えた。
「霧島サラ。ネットではPhantomって呼ばれてる。——あ、殴らないで。今日は敵じゃないから」
「Phantom——!」早川が船室から飛び出してきた。「お前——! 壁紙変えやがった奴——!」
「あはは、それまだ怒ってるの。——来島辞めてきた。仲間に入れて」
「は?」
「鞆の浦で一般人が巻き添えになったじゃん。あのカーチェイスで商店街のおばちゃんが怪我したって聞いて。私、犯罪歴あるけど、一般人を傷つけるのはナシなんだよね。——あと」
サラが早川を見た。
「ポテチの件、覚えてたでしょ。あんた。三年前のパーティーで」
「え——」
「そういうの覚えてる奴は、悪い奴じゃないなって。——はい、手土産」
サラがスマートフォンを差し出した。画面に来島組織の内部データが表示されている。資金の流れ、部下の配置、船の航路。
「退職金代わりに全部抜いてきた。——役に立つでしょ。はい論破」
直人は凛を見た。凛が小さく頷いた。「使えます」。
「分かった。ただし、しばらくは信用しない。行動で示してくれ」
「了解。——で、今から何するの?」
「四枚目の潮印は、幕末に村上家の末裔がこの島に隠しました。旧日本軍が来る前——この島がまだ普通の瀬戸内海の小島だった頃に」凛が説明した。「島の北部に小さな洞窟があり、その地下に隠し部屋がある。旧軍が施設を建設した時に洞窟の上に建物が被さって——結果的に、地下施設の一部に組み込まれた形になっています」
「つまり旧軍の廃墟の中を通って、その奥にある洞窟に辿り着く必要がある」
「はい。——ただし施設は崩落の危険があります。八十年間、補修されていない」
「全員で行く必要はない。俺と凛さんで潜入する。早川と真琴さんは船で待機——」
「俺も行くっす」早川が手を挙げた。「サーバールームの配線作業とか狭い場所は慣れてるっす。旧軍の電気系統が残ってたら、俺が見た方がいい」
「私も行く」
サラが腕を組んでいる。
「来島の下にいた時に大久野島の地下施設の設計図を見たことがある。旧軍の配線ルートも覚えてる。——役に立つでしょ」
「分かった。四人で行く。真琴さんは船で待機」
「了解です」真琴が頷いた。「無線で繋いでおきます。——気をつけて」
桟橋を降りた瞬間、足元にうさぎが群がってきた。茶色、白、灰色、ぶち。丸い目でこちらを見上げている。
早川がしゃがんだ。
「うわ——かわいい——!」
「後にしろ」直人が首根っこを掴んだ。
「一匹だけ! 一枚だけ写真——」
「後だ」
「でもこの子めっちゃ俺に懐いて——うわ! 噛んだ! 靴噛んだ!」
茶色いうさぎが早川のスニーカーの紐を引っ張っている。早川が足を上げると、うさぎもぶら下がったまま持ち上がった。
「離して——離してくれ——お前意外とパワーあるな——」
「早川くん、動かないで。うさぎは引っ張ると余計に噛みます」凛が膝をつき、うさぎの顎を優しく撫でた。うさぎが口を開けて靴紐を離した。凛がうさぎを抱き上げる。
「ほら、大丈夫」
凛に抱かれたうさぎが、大人しく丸くなった。凛の胸元でうさぎが顔を擦りつけている。
「凛さん——すげえ——動物にも好かれるんすね——美人は違うなあ——」
「早川。いい加減にしろ」直人が言った。
サラがうさぎの群れの向こうに立っていた。表情が消えている。白いうさぎが一匹、サラの足元に寄ってきて靴の先をかじり始めた。
「……やめて。食べ物じゃないから」
サラが足を動かすと、うさぎも移動した。靴紐をくわえたまま。
「離してってば。——HayaP、あんたの仲間が私の靴食べてる」
「うさぎは俺の仲間じゃないっすけど——あ、サラ、そのうさぎかわいいじゃん。懐かれてるよ」
「懐かれてない。捕食されてる。全然違う」
サラが振り払う手つきは、意外なほど優しかった。だがその目は、凛に抱かれたうさぎの方を——正確には、凛の横で笑っている早川の方を、じっと見ていた。
島の北部。廃墟群。
コンクリートの壁が苔に覆われ、窓のない建物が並んでいる。毒ガス貯蔵庫の跡。屋根が崩れ、中に木が生えている棟もある。
凛が先導した。一つの建物の入口——半分埋まっている——を四人で掘り返し、中に入った。LEDライトが暗闇を照らす。
コンクリートの通路。天井が低い。壁にパイプが通っている。旧軍時代の配管。足元にコンクリートの破片が散らばり、天井から水が滴っている。
暗い通路を進む。凛が先頭、直人が二番目、早川が三番目、サラが最後尾。
二十メートルほど進んだ所で、凛が足を滑らせた。苔が生えた床。凛の体が傾く——
早川が咄嗟に凛の腕を掴んで支えた。
「大丈夫っすか凛さん!」
「ありがとう、早川くん」
凛が体勢を立て直した。早川の手が凛の二の腕に残っている。暗い通路で、二人の顔が近い。LEDライトが凛の横顔を照らしている。
「足元滑りやすいっすね。——凛さん、俺の後ろ歩きます? 危なかったら言ってください。守りますから」
「ありがとう」凛が微笑んだ。
サラが最後尾で、その二人を見ていた。暗闇の中で、サラの奥歯がきゅっと鳴った。
配電盤の前で早川が立ち止まった。
「旧軍の配電盤。——配線が一部生きてるっすね。しかもこれ、後付けの配線がある。最近誰かがいじってる」
「来島の部下が罠を仕掛けた可能性がある」直人が言った。
「通路の奥に照明が見えるっす。——配電盤の回路を追って、罠がないか確認した方がいい。サラ、一緒に見て——」
「私は一人で先を調べる」
サラの声が冷たかった。通路の闇を見据えている。
「おい、一人は危ないって——」
「別にいいでしょ。あんたは凛さんの護衛でもしてれば? 『守りますから』って言ってたじゃん」
サラの声に、いつもの毒舌とは違う棘があった。早川は気づかない。だが凛は——ちらりとサラを見た。その目に、理解の色が浮かんでいた。
「サラ、待って——」
「地下施設の設計図は頭に入ってる。左の通路の先に洞窟がある。先に確認してくるから」
サラがLEDライトを手に、左の通路に入っていった。早足で。肩が強張っている。
「何あいつ——機嫌悪くないすか?」
「早川くん」凛が小声で言った。「……追いかけてあげて」
「え? なんで?」
「いいから」
「いや、先に配電盤の回路を——」
凛が早川の目を見た。言葉にしない何かを、目で伝えた。
早川はまだ分かっていない。
直人と凛と早川は右の通路を進んだ。五十メートルほどで階段。石段を降りると——洞窟。自然の岩肌。天井が広がる。
洞窟の奥に木箱。杉材。古い。潮で変色している。
直人が箱を開けた。真鍮の円盤。四枚目の潮印。
「取った」
その時——左の通路の方から、重い金属音。天井から何かが落下したような衝撃音が反響した。
そして——叫び声。サラの声。
「きゃ——!」
三人が通路を走った。分岐点を左に。
左の通路の奥——鉄格子が天井から落下していた。旧軍のセキュリティシステム。だが最近、誰かがワイヤーで吊り直している。罠だ。サラが踏んだセンサーワイヤーで作動した。
鉄格子の向こうにサラが閉じ込められている。そしてサラの後ろに——男。体格のいい男。瀬戸。来島の部下。潜水のスペシャリスト。
いつの間に地下に入っていたのか。暗闇に潜んでサラを待ち伏せていた。
瀬戸がサラの腕を掴んでいた。
「おや、一人か。人質にちょうどいい」
「離せ——!」サラが暴れたが、瀬戸の握力は元自衛隊だ。
「鷺宮さん。潮印を渡してください。四枚全部。そうすればこの子は——」
早川が動いた。
凛の横を走り抜け、直人を追い越し、鉄格子の前に辿り着いた。
壁の配電盤。さっき見つけた後付けの配線。鉄格子を吊っているワイヤーは電磁石で保持されている。電源を切れば——
早川の指が配線を掴んだ。電気回路を読む。本来ならサラの得意分野だ。だが今は早川がやる。
配線を一本引き抜いた。電磁石が解除。鉄格子が跳ね上がった。
格子が開いた瞬間——早川が瀬戸に向かって走った。
体当たり。体格差は歴然。百八十五センチの元自衛官と、百七十センチのITエンジニア。勝てるわけがない。
だが不意打ちだった。瀬戸の体が壁に叩きつけられた。サラの腕が自由になった。
瀬戸が反撃。右拳が早川の頬を捉えた。早川が吹き飛んだ。壁にぶつかる。口から血。
だが早川は立ち上がった。足が震えている。頬が腫れている。それでも——立った。
「お前に——こいつは渡さねえよ」
早川の声から、いつもの軽さが消えていた。
瀬戸が二発目を振りかぶった。
直人が駆けつけた。ヘラを手に。瀬戸の右手首の内側を——正確に打った。因島と同じ場所。腱の上。
瀬戸が呻いた。拳が開く。凛が錆びた鉄パイプを拾って退路を塞ぐ。
「全員走れ! 出口へ!」
五人が通路を走った。瀬戸は手首を押さえて追ってこない。
地上に出た。日差し。うさぎ。
五人が浜辺に座り込んだ。
早川が砂浜に座り、口元の血をTシャツの袖で拭っている。頬が紫色に腫れている。
サラが早川を見ていた。膝を抱えて、横目で。
「……なんで来たの」
「お前が叫んだから」
「違う。鉄格子の外に出たのに。逃げられたのに。なんで瀬戸に突っ込んだの」
「突っ込むだろ普通。お前が捕まってるのに」
「普通じゃない。相手は元自衛隊。あんた殴られて血出てる。——なんで」
「なんでって——お前がいないと困るんだよ。俺のハッキングの腕を超える奴が日本からいなくなる。それは国家的損失だ」
サラがきょとんとした。
「……それ、口説いてる?」
「技術的な話だ!」早川が真っ赤になった。血と赤面が混ざって、顔全体が赤い。
「技術的って。殴られて血出しながら言うセリフじゃないでしょ」
「うるさい。——怪我は。お前は」
「ない。……あんたのおかげで」
「ならいい」
沈黙。波の音。うさぎが一匹、早川の膝の上に乗ってきた。早川が無意識に撫でた。
「……早川」
「何」
「凛さんのこと好きなの」
早川が手を止めた。うさぎが不満そうに鼻を鳴らした。
「凛さん? ——いや。きれいだとは思うけど。好きとかそういうのじゃない」
「でもいつも凛さん凛さんって。きれいっすね、守りますって」
「あれは——俺の口が悪い——いや口が軽いだけで——別に深い意味は——」
「ふーん」
「マジだって。凛さんはすごい人だけど、好きっていうのとは違う。俺が好きなのは——」
早川が言葉を切った。残りを飲み込んだ。
「好きなのは?」
「……お前のハッキング技術」
「技術」
「うん」
「そう。——技術ね」
サラが膝に顔を埋めた。不機嫌そうに見えたが——耳が赤かった。
「ねえ」
「何」
「さっき地下で、あんたが鉄格子をハックした時——私のやり方と同じだった」
「そりゃそうだろ。電磁石の回路を追って電源を切る。基本だ」
「基本。——私の基本が、あんたの基本と同じだった」
「同じ技術者だからな」
「……そうだね。同じ技術者」
サラが顔を上げた。目が少し潤んでいた。だがすぐに目元を拭って、いつもの冷めた表情に戻った。——戻りきれていなかったが。
「あんたの顔、ひどいことになってるよ。氷ある?」
「ないっす。うさぎの島に氷はない」
「じゃあ海水で冷やしな。塩分が消毒にもなる」
「それ絶対しみるやつ——」
「我慢して。——私が付いててあげるから」
サラが立ち上がり、早川の腕を引いて波打ち際に連れて行った。早川が「痛い痛い痛い」と叫びながら顔を海水で洗っている横で、サラが腕を組んで監視している。
直人と凛と真琴が、少し離れた場所からそれを見ていた。
「……あの二人、大丈夫そうっすね」直人が呟いた。
「大丈夫です」真琴が言った。「女が男の怪我を手当てしたがる時は——大丈夫な証拠です」
凛は何も言わず、少しだけ微笑んだ。




