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第一話 海賊の末裔

尾道の坂道は、足腰に容赦がない。

 鷺宮直人は石段を登りながら、額の汗を拭った。十月の瀬戸内海は温暖で、東京よりも日差しが強い。駅から山手に向かう路地は、猫と寺と古い家が入り混じる迷路だった。

 池袋のシェアオフィスを出たのは昨日の朝。新幹線で福山、在来線で尾道。目的は修復の仕事だった。尾道の古美術商から「戦国期の巻物の修復を依頼したい」という連絡が来たのが一週間前。

 星霜蔵の発見から一年。直人の名は修復士の業界では知れ渡っていた。テレビにも何度か出た。本人は出たくなかったが、発掘プロジェクトの広報の一環で断れなかった。おかげで修復の依頼は増えた。フリーランスの修復士としては、有り難い話だ。

 だが名前が売れると、変な依頼も増える。「うちの蔵にも埋蔵金があるかもしれないので見てほしい」という類いの連絡が月に三件は来る。すべて丁重に断っている。

 今回の依頼は、まともな修復案件のはずだった。

 尾道の坂の中腹に、その店はあった。

「村上堂」。

 古い町家を改装した店構え。格子戸の向こうに、薄暗い店内が見える。古い壺、掛け軸、仏像、茶器。雑多だが、直人の目には分かる——品揃えの質が高い。目利きの店だ。

 格子戸を開けた。

「すみません。鷺宮です。修復のご依頼をいただいた——」

 店の奥から、女が出てきた。

 長い黒髪。切れ長の目。藍染めの作務衣。年は直人と同じか、少し下。顔立ちは整っているが、美人というよりも、鋭い。刃物のような印象の女だった。

「鷺宮直人さん。——お待ちしていました。村上凛です」

 声は低い。落ち着いている。だが直人は、その声の奥に——緊張を感じた。この女は、何かを隠している。修復士の勘だ。紙の裏に隠し文字がある時と同じ——表面の奥に、もう一層ある。

「こちらへ。巻物はこの奥に」

 凛が店の奥に案内した。茶室のような小部屋。畳の上に桐の箱。凛が蓋を開け、白手袋を嵌めて巻物を取り出した。

 白手袋。古美術の取り扱いを知っている人間の動作だ。

 直人も手袋を嵌め、巻物を受け取った。

 和紙。厚手。楮繊維。手漉き。年代は——戦国後期から江戸初期。表面に墨書き。航海に関する記述。潮の流れ、島の名前、水深。

「航海図——の文章版ですね。図ではなく、文章で航路を記述している」

「はい。村上家に伝わる巻物です。——修復をお願いしたいのは、巻末の部分です」

 巻物を広げていくと、末尾の数十センチが損傷していた。虫食いと水濡れ。紙の繊維が弱っている箇所がある。

「虫食いは表層のみ。水濡れの染みは古い。百年以上前の損傷ですね。修復は可能です」

「ありがとうございます。——鷺宮さん。一つ、お聞きしてもいいですか」

「何ですか」

「この巻物に——何か、気づかれましたか」

 凛の目が、直人をまっすぐに見ていた。試している目だ。直人がどこまで見えるか、確かめようとしている。

 直人は巻物を光に透かした。修復士の習性。

 透かした瞬間——見えた。

 和紙の裏面に、もう一層の文字。表の墨書きとは別の筆跡。薄い墨で、紙の裏側から書かれている。表から見ただけでは分からない。光に透かして初めて浮かび上がる。

 星霜蔵の時と同じだ——二重書き。

「裏に文字がある」

 凛の表情が変わった。硬い顔が、ほんの一瞬だけ——緩んだ。安堵に似た表情。

「やはり、気づかれましたか。——さすがですね。星霜蔵を見つけた方だけのことはある」

「あなたは最初から知っていた。裏の文字を」

「知っていました。——でも読めないのです。光に透かしても、表の墨が邪魔をして全文は判読できない。専門の技術がなければ」

 直人は巻物を下ろした。凛を見た。

「修復の依頼は——口実ですね。本当の目的は、裏の文字の解読」

 凛が直人の目を見つめ返した。長い睫毛の奥の瞳に、覚悟の光がある。

「はい。——鷺宮さん。私の本名は村上凛。村上水軍の当主、村上武吉の末裔です」

 直人は黙った。

 村上水軍。戦国時代、瀬戸内海を支配した海賊衆。「海の関所」を設け、通行料を取り、時には大名の戦に加勢した。日本史上、最大にして最後の海賊。

「武吉公は、一族の衰退を予見していました。関ヶ原の後、毛利家に従って領地を失い、海賊としての力も奪われる。——その前に、一族の財宝を瀬戸内海のどこかに隠した。私たち一族は、その場所を『海の蔵』と呼んでいます」

「埋蔵金」

「はい。——あなたなら、その言葉の重みが分かるはずです」

 直人は分かっていた。祖父の三十年。黒田の二十年。「埋蔵金」という言葉がどれほどの人生を狂わせるか。

「この巻物の裏面に、海の蔵に関する手がかりが書かれている。——そう考えているんですね」

「はい。一族の言い伝えでは、『航路の裏に道がある』と。航海図の裏に、蔵への道が書かれている」

 直人は腕を組んだ。

「断る理由はいくつもある。だがまず一つ聞かせてくれ。なぜ俺に」

「星霜蔵を見つけた実績。そして——宝を独り占めにしなかった誠実さ。私が求めているのは、トレジャーハンターではなく、宝を正しく扱える人間です」

 凛の声に嘘はなかった。少なくとも直人にはそう聞こえた。

「……巻物を預からせてくれ。裏面の解読には、設備が必要だ。赤外線撮影と、場合によっては多バンドスペクトル分析。東京に持ち帰る」

「持ち帰る? ここでは——」

「この店に赤外線カメラがあるなら別だが」

 凛が苦笑した。鋭い顔が、少しだけ柔らかくなった。

「ありません。——ただし、巻物は村上家の家宝です。あなたと一緒に、私も東京に行きます」


 村上堂を出たのは午後三時。尾道の坂道を駅に向かって下る。

 石段を三段降りたところで、直人は足を止めた。

 下の路地に、黒い車が停まっていた。エンジンがかかっている。ナンバーは——愛媛。

 尾道で愛媛ナンバーは珍しくない。しまなみ海道で繋がっている。だが——車の中に人影が二つ。こちらを見ている。

 直人の背筋に冷たいものが走った。一年前の記憶が蘇る。鎌倉のグレーのジャケット。姫路の追跡。

「村上さん」

「凛で結構です」

「凛さん。あの車に心当たりは」

 凛が目を細めた。黒い車を見て——表情が硬くなった。

「……来島」

「知り合いか」

「敵です」

 凛の声が刃物に戻った。

「来島暁。来島水軍の末裔。——来島は戦国時代、村上水軍の分家でしたが、のちに敵対した一族です。五百年の因縁がある」

「その因縁が、今も——」

「来島は海運会社のCEOです。表向きは。裏では——文化財の闇ブローカーです。海の蔵の存在を嗅ぎつけたのでしょう」

 車のドアが開いた。男が降りてきた。体格がいい。短髪。軍人のような歩き方。

「走るぞ」直人が言った。

「え——」

「走れ。考えるのは後だ」

 直人は凛の手首を掴み、坂道を横に逸れた。路地。尾道の山手は路地の迷宮だ。猫しか通らないような細い道が、寺の間を縫って走っている。

 背後で足音。男が追ってくる。

 直人は路地を走った。石段を駆け上がる。左に曲がる。寺の山門をくぐる。境内を横切る。裏の墓地に出る。墓石の間を縫って——

「こっちです」凛が直人の手を引いた。逆に引かれた。凛はこの坂道を知っている。

 凛に導かれて、狭い石段を駆け下りた。両側に古い民家の壁。洗濯物が頭上を横切っている。猫が驚いて飛び退いた。

 石段の下に出ると、商店街だった。人通りがある。アーケードの中に紛れ込んだ。

 凛が足を止めた。息が荒い。

「——撒けたと思います」

「あの男は」

「来島の部下でしょう。鬼頭という男かもしれない。元自衛隊です」

 直人は商店街の人混みの中で、周囲を警戒した。追手の姿は見えない。だが安心はできない。

「凛さん。もう一つ聞く。来島は、海の蔵のことをどこまで知っている」

「分かりません。でも——巻物の存在は知っているはずです。去年から、私の店に何度か不審な来客がありました。巻物を見せてほしいと。断りましたが」

「それで俺を呼んだ」

「はい。一人では——もう守りきれない」

 凛の声が、初めて揺れた。鋭い刃物のような女が、一瞬だけ——脆い表情を見せた。

 直人は考えた。断るべきだ。一年前の経験で、十分に懲りている。命の危険。仲間を巻き込むリスク。そして何より——埋蔵金という言葉の持つ、人を狂わせる力。

 だが巻物の裏の文字が、脳裏に焼きついていた。修復士のさがだ。見えないものが見えた時、無視できない。

「巻物は俺が持つ。東京に帰る。——凛さん、連絡先を交換しよう。それと」

「それと?」

「仲間に連絡する」

 直人はスマートフォンを取り出し、早川の番号を押した。

 三コールで出た。

「鷺宮さん! 久しぶりっす。今どこ——」

「尾道。——早川、また面倒なことになった」

「マジっすか。——また埋蔵金すか」

「ああ。今度は海賊の」

 電話の向こうで、早川が息を呑んだ。そして——笑った。

「……行くっすよ。基本っすから」


 翌日。東京。池袋のシェアオフィス。

 直人の修復台の上に、凛の巻物が広げられていた。赤外線カメラで裏面を撮影する準備。

 早川が隣の席からモニターを覗き込んでいる。

「戦国の航海図っすか。字が読めないっすけど、かっこいい」

「崩し字だ。読める人間は限られる。——真琴さんに連絡した。今日の午後、来てくれる」

「九条さん! 来るんすか! ——鷺宮さん、九条さんとはその後どうなんすか」

「どうって何がだ」

「いやだって、前の事件の後、食事に誘ってたじゃないすか。その後——進展は」

 直人は赤外線カメラのセッティングに集中するふりをして、答えなかった。

 進展。週に一度、食事に行く関係になった。映画に行ったこともある。だが「付き合おう」という言葉は、まだ言っていない。直人は不器用で、真琴も奥手で、二人の間にはいつも——あと半歩の距離があった。

「進展は——ない」

「ないんかい! 一年もあったのに!」

「うるさい。仕事しろ」

 午後二時。真琴が来た。紺のスーツに白いブラウス。書陵部の帰りだろう。手に紙袋——差し入れのサンドイッチ。

「直人さん。お疲れ様です」

 直人さん。厳島の夜から、真琴は直人を名前で呼ぶようになった。それだけの変化が、直人にはひどく大きく感じられた。

「ありがとう。——これを見てくれ」

 巻物を見せた。赤外線カメラの画像をモニターに表示する。裏面の隠し文字が浮かび上がっている。

 真琴がモニターに顔を近づけた。目が輝いている。学芸員の顔だ。

「崩し字ですね。戦国末期から江戸初期の書体。筆の運びが荒い。急いで書いている。——読めます」

「全文読めるか」

「少し時間をください。——ここ、『潮印しおじるし』と読めます。『潮印五ツ、各島ニ封ズ』。五つの印を各島に封じた——」

「星霜蔵の地図断片と同じ構造だ」

「はい。——その下。『五ツ揃エバ竜宮ノ口開ク。竜宮ハ海ノ底、潮ノ道ノ交ワル処ニアリ』」

 竜宮。海の底。潮の道が交わる場所。

「瀬戸内海のどこかに、海底の洞窟がある。その入口を開くために、五つの潮印が必要」

 真琴が巻物の解読を続けている間、格子戸が開いた。

 凛が入ってきた。

 昨日の作務衣ではなく、白いワンピースに薄手のカーディガン。髪を下ろしている。尾道では刃物のような印象だったが、服装が変わると——息を呑むほどの美人だった。

「鷺宮さん。お世話に——」

「うおっ」

 早川が椅子から立ち上がった。目を見開いている。

「え? えっ? この人が海賊の末裔? マジすか? こんな——こんな美人が——」

「早川。落ち着け」

「いや無理っす! 映画じゃん! 海賊の美女って映画じゃん! ——あ、早川雅彦です。ITエンジニアっす。鷺宮さんの相棒っす。よろしくお願いします!」

 早川が両手で凛の手を握った。凛が少し戸惑った顔をしている。

「……村上凛です。よろしくお願いします」

「凛さんって呼んでいいすか! 凛さん、髪めっちゃ綺麗っすね! 和風美人ってこういうことっすよね!」

「早川」直人が低い声で言った。「仕事しろ」

「すみません。——いやでもマジで綺麗っすよ」

 真琴が巻物から目を上げ、凛を見た。凛も真琴を見た。二人の視線が交差した。

「九条真琴です。宮内庁書陵部の学芸員です。——巻物の解読を担当しています」

「村上凛です。巻物の持ち主で——。九条さんは、星霜蔵の発見にも関わった方ですよね」

「はい。直人さんと一緒に」

 「直人さん」。真琴が自然にそう呼んだ。凛の目が一瞬だけ、直人に向いた。そしてすぐに逸れた。

 直人はその視線の動きに気づかなかった。だが真琴は気づいていた。凛の目が直人に向いた一瞬を——真琴の目は、逃さなかった。


 真琴の解読は、二時間で全文の七割に到達した。

「潮印は五枚の真鍮の円盤。各円盤に瀬戸内海の海図の断片が刻まれている。五枚を重ね合わせると、竜宮の座標が浮かぶ」

「五枚の隠し場所は」

「具体的な場所名は——ここが虫食いで読めません。ただし『因ノ島』『大三島』という文字は確認できます」

「因島と大三島。どちらも村上水軍の拠点だ」凛が言った。「因島には因島水軍城——今は資料館になっています。大三島には大山祇神社。日本で最も多くの武具が奉納されている神社です。武吉公も——」

 凛の言葉が途切れた。窓の外を見ている。

 直人も窓を見た。

 シェアオフィスが入っているビルの向かいの歩道に——黒い車。愛媛ナンバー。

 尾道と同じ車。

「来た——」凛の声が硬くなった。

「東京まで追ってきたのか」

「巻物の行方を追跡したのでしょう。私が東京に来たことは——駅の監視カメラで分かる」

 直人は巻物を素早く桐の箱に戻し、箱ごとカバンに入れた。

「早川。裏口は」

「ビルの裏にあるっす。非常階段」

「真琴さん。凛さん。先に出て。早川が案内する」

「鷺宮さんは——」真琴が振り返った。

「すぐ行く。赤外線の画像データだけ保存する」

 直人はPCのデータをUSBメモリに退避させ、カメラの電源を切った。三十秒。

 非常階段を駆け下り、ビルの裏口に出た。三人が待っている。

 路地を抜けて池袋の雑踏に紛れた。西口のロータリー。人混みの中なら追跡は難しい。

「タクシーを拾う。——凛さん、しばらく東京の安全な場所に——」

「安全な場所はありません。来島の目は広い。ホテルに泊まっても見つかる」

「じゃあどうする」

「瀬戸内海に戻ります。私の船がある。海の上が一番安全です」

「海の上——」

「瀬戸内海は私の庭です。来島がどれだけ追ってきても、この海では負けません」

 凛の目に、海賊の血が燃えていた。

 直人は真琴を見た。真琴は黙って頷いた。「行きましょう」の頷き。

 早川も頷いた。「行くっすよ」の頷き。

 タクシーを拾った。東京駅へ。新幹線で福山。そこから尾道。凛の船。瀬戸内海。

 車窓の向こうに、池袋のビル群が遠ざかっていく。

 直人は懐のカバンを抱えた。桐の箱の中の巻物。四百年前の海賊が隠した文字。

 また始まる。

 壊れたものを直す修復士が、隠されたものを見つける旅に出る。今度の舞台は——海だ。

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