選ばされる夜
夜の駅で、少しだけ不思議な出会いがあった話です。
夜のホームは、音が多いわりに、いつも静かだった。
終電の一本前。人はそれなりにいるのに、誰も同じ時間を生きていない感じがする。
俺は柱にもたれて、スマホも見ずに、ただ電光掲示板を眺めていた。
そのとき、隣に立っていた女の子が、急にこちらを見た。
目が合った、と思った瞬間、彼女は一歩近づいてきて、小さな声で言った。
「ねえ、 今からどこに帰るの?」
不意打ちだった。距離が、近すぎた。
香水じゃない、でも確かに女の子の匂いがして、反射的に一歩引こうとして、やめた。
「家、だけど」
そう答えた自分の声が、思ったより低く聞こえた。
彼女は少しだけ笑った。笑顔というより、表情が緩んだ、という感じだった。
「そっか。 よかった」
何が、と思ったけど、聞かなかった。
彼女は白いコートを着ていた。この季節にしては薄くて、袖から出た手首が、妙に白かった。
爪は短く、何も塗られていない。なのに、やけに目が離せなかった。
「私ね、 今日、 ここで誰かに話しかけようって 決めてたの」
まるで、今日の天気の話みたいな言い方だった。
「それが、 たまたまあなただっただけ」
たまたま、という言葉を、彼女は大事そうに使った。
電車が入ってくる音がして、風がホームを抜けた。
彼女の髪が揺れて、その一瞬、本当に触れたら消えてしまいそうで、俺は目を逸らした。
「ねえ」
また呼ばれる。
「もしさ、 今日会ったこと、 なかったことにしてもいい?」
意味が分からなかった。でも、分からないまま答える気がしなかった。
「それか、 忘れられない日にするか」
彼女は、選択肢を提示するみたいに言った。
俺が黙っていると、彼女は少し困った顔をして、でもすぐに、諦めたみたいに息を吐いた。
「ごめん。 変だよね」
そう言いながら、一歩だけ後ろに下がる。
「やっぱり、 今日はやめとく」
電車が止まり、ドアが開く。
彼女は乗らなかった。
人の流れに押されるように、俺だけが車内に入る。
ドアが閉まる直前、彼女はもう一度、こっちを見た。
今度は、ちゃんと目を合わせて。
「また会えたら、 そのときは、 ちゃんと話そうね」
ドアが閉まる。
電車が動き出しても、彼女はホームに立ったままだった。
窓越しに見る彼女は、だんだん小さくなって、最後には、柱の影に消えた。
その夜、俺は自分がどこに帰ったのか、よく覚えていない。
ただ、彼女の言葉だけが、ずっと頭の中に残っていた。
——今日会ったことを、なかったことにするか。忘れられない日にするか。
次に会ったとき、どちらを選ばされるのか。
それだけが、まだ分からない。
この話が、どこかに残ったら。




