第3話 冬の粕汁定食物語
小生の名は、文谷修蔵。
四十八歳、平社員にして、食に心を慰められる男である。
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金曜日の朝、八時。
小生は東京駅のホームに立っていた。
手には出張の書類、胸には重い気持ち。
「なぜ小生が……」
事の発端は、三日前の水曜日。
入社三年目の若手社員・濱田が、取引先への納品書に重大なミスを犯した。
数量を一桁間違え、先方に多大な迷惑をかけてしまったのだ。
本来なら、濱田本人が謝罪に行くべきであろう。
あるいは、その上司である光石係長が同行するべきだ。
だが、大杉課長は小生を呼んだ。
「文谷、お前が行ってくれ」
「しかし大杉課長、これは濱田君の……」
「分かってる。だが、お前の謝罪は丁寧だ。先方も納得してくれる」
大杉課長は、小生の目を見て言った。
「頼む。お前にしか任せられないんだ」
――頼む、と言われて断れる性格ではない。
小生はそういう人間なのだ。
四十八歳、平社員。
出世もせず、昇給も微々たるもの。
だが「謝罪が上手い」という妙な評価だけは、社内に定着している。
「……承知しました」
小生は頷いた。濱田は申し訳なさそうに頭を下げた。
そして今、小生は一人、新幹線に乗り込んでいる。
大阪へは二時間半。
車窓から流れる景色を眺めながら、小生は溜息をつく。
「人はかくも、他者の罪を背負わねばならぬものか」
濱田の失敗。それを詫びるのは小生。
理不尽だと思う。だが、それが小生の役割なのだ。
同期の寺島は課長として部下を率い、遠藤は係長として実績を上げている。
小生だけが、いつまでも「謝罪要員」である。
田口はこんな時、まるで空気のように気配を消して難を逃れる……。
「……情けないな」
新大阪に着き、在来線に乗り換える。
取引先は大阪市内。約束の時刻は午後一時。
謝罪は、重苦しいものであった。
先方の部長は、最初こそ怒気を含んでいたが、小生の丁寧な説明と謝罪に、徐々に表情を緩めた。
「まあ、今回は大事には至らなかったから……次からは気をつけてもらわないと困るよ」
「はい、肝に銘じます。本当に申し訳ございませんでした」
小生は深々と頭を下げた。
謝罪を終え、会社を出たのは午後三時過ぎ。
帰りの新幹線は、午後六時発。まだ時間がある。
冬の大阪は、東京よりも少し暖かいと聞いていたが、
それでも冷たい風が容赦なく頬を打つ。
小生の胸中に広がるのは、疲労と虚しさ。
重たい体を引きずるように街を歩く。
そのとき、ふと目に留まった小さな定食屋。
看板には「粕汁定食700円」と手書きで書かれていた。
「……粕汁、とな」
関西の冬の味。酒粕をたっぷり使った、体の芯から温まる郷土料理。
東京では、あまり見かけぬ。
「冷え切った小生の心を、解かしてくれるやもしれぬ」
小生は暖簾をくぐった。
店内は、ほの暗く温かい。
木のカウンター、古びたテーブル席。
壁には手書きのメニューが貼られ、「本日のおすすめ」として粕汁が大きく書かれている。
客は他に三人ほど。
皆、黙々と定食を食べている。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、年配の女性が声をかけてくれた。
恐らく六十代後半。大阪弁の柔らかい響きが、小生の耳に優しい。
「粕汁定食をひとつ」
「はいはい、ちょっと待っててな」
小生はカウンターに腰を下ろす。
厨房からは、出汁の香りと酒粕の甘い匂いが漂ってくる。
ああ、この匂い。東京では味わえぬ、関西の冬の匂いだ。
しばし待つと、湯気を立てる盆が運ばれてきた。
大ぶりの椀に注がれた白濁の粕汁。
湯気に乗って鼻をくすぐる酒粕の香りが、疲れた心に沁みる。
隣には炊き立ての白飯、漬物、小さな焼き魚。
「おお……これぞ冬の定食」
一椀に、土地の風土と人情が凝縮されているではないか。
レンゲで一口。
白味噌のようにまろやかでありながら、酒粕独特の甘みと深みが口に広がる。
「……ああ……」
沁みる。胃に、心に、骨の髄にまで。
中には豚肉、大根、人参、こんにゃく。
具材は大ぶりで、ひとつひとつがしっかり煮込まれている。
大根は柔らかく、豚肉からは旨味が溶け出している。
「これだ……これなんだ」
体の芯から温められ、ふっと肩の力が抜けていく。
この瞬間、小生の心に重くのしかかっていた謝罪の影も――。
濱田のミスを背負わされた理不尽さも、どこか薄れていった。
隣の席では、作業服の男性が同じく粕汁を食べている。
彼もまた、一日の仕事を終えたのであろう。
黙々と椀を傾ける姿に、小生は共感を覚える。
皆、何かを背負って生きている。
仕事の疲れ、人間関係の悩み、理不尽な境遇……。
だが、この一椀が――。
それぞれの心を、少しだけ温めてくれるのだ。
ふと、スマホを取り出しかけて、思い直す。
あのグルメサイトには、きっとこの店のレビューもあるだろう。
「味が濃すぎる」「田舎臭い」などと書かれているかもしれぬ。
「濃すぎる、とな……小生にとっては、この濃さこそ救いである」
冷えた体を包むには、これくらいがちょうど良い。
薄味の上品な粕汁では、小生の心は温まるまい。
他人の評価など、関係ない。
星の数など、小生の満足を測る尺度にはならぬ。
小生の舌が「うまい」と感じ、
小生の心が「救われた」と思う。
それで十分ではないか。
椀の底まで飲み干し、深く息を吐く。
酒粕の香りが喉に余韻を残し、体の芯まで温まる。
「ごちそうさまでした」
「おおきに。気ぃつけて帰ってな」
女性の柔らかい大阪弁が、小生の胸に沁みた。
店を出ると、冷たい風がまだ吹き付けていた。
しかし今の小生の胸中は、ほんのりと熱を宿している。
謝罪は済んだ。濱田のミスも詫び終えた。
小生の役割は果たされた。
理不尽だと思う。不公平だとも思う。
それでも小生は、また明日も会社に行くのだ。
四十八歳、平社員、謝罪要員。
それが小生の立場である。
ただ、この粕汁が――。
小生の心を、確かに支えてくれた。
「食は、日常の詩である」
そして今日、小生が出会ったのは――。
冬の大阪で綴られた、温かい一篇であった。
小生はマフラーを巻き直し、駅へと向かった。
新幹線の中で、濱田に報告のメールを送ろう。「謝罪は無事に終わりました」と。
彼は申し訳なさそうに返信してくるだろう。
そう、それでいいのだ。
若い者は失敗し、年長者がそれをフォローする。
小生もかつて、先輩に助けられてきた。
今度は小生が、その役割を担う番なのだ。
「……まあ、悪くない人生である」
小生はそう呟き、冬の大阪の街を後にした。
-続く-




