表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
続・小生さんがゆく。  作者: 釜瑪秋摩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/4

第3話 冬の粕汁定食物語

 小生の名は、文谷修蔵(ふみやしゅうぞう)

 四十八歳、平社員にして、食に心を慰められる男である。


---


 金曜日の朝、八時。

 小生は東京駅のホームに立っていた。

 手には出張の書類、胸には重い気持ち。


「なぜ小生が……」


 事の発端は、三日前の水曜日。

 入社三年目の若手社員・濱田が、取引先への納品書に重大なミスを犯した。

 数量を一桁間違え、先方に多大な迷惑をかけてしまったのだ。


 本来なら、濱田本人が謝罪に行くべきであろう。

 あるいは、その上司である光石係長が同行するべきだ。

 だが、大杉課長は小生を呼んだ。


「文谷、お前が行ってくれ」


「しかし大杉課長、これは濱田君の……」


「分かってる。だが、お前の謝罪は丁寧だ。先方も納得してくれる」


 大杉課長は、小生の目を見て言った。


「頼む。お前にしか任せられないんだ」


 ――頼む、と言われて断れる性格ではない。

 小生はそういう人間なのだ。


 四十八歳、平社員。

 出世もせず、昇給も微々たるもの。

 だが「謝罪が上手い」という妙な評価だけは、社内に定着している。


「……承知しました」


 小生は頷いた。濱田は申し訳なさそうに頭を下げた。

 そして今、小生は一人、新幹線に乗り込んでいる。


 大阪へは二時間半。


 車窓から流れる景色を眺めながら、小生は溜息をつく。


「人はかくも、他者の罪を背負わねばならぬものか」


 濱田の失敗。それを詫びるのは小生。

 理不尽だと思う。だが、それが小生の役割なのだ。


 同期の寺島は課長として部下を率い、遠藤は係長として実績を上げている。

 小生だけが、いつまでも「謝罪要員」である。

 田口はこんな時、まるで空気のように気配を消して難を逃れる……。


「……情けないな」


 新大阪に着き、在来線に乗り換える。

 取引先は大阪市内。約束の時刻は午後一時。


 謝罪は、重苦しいものであった。

 先方の部長は、最初こそ怒気を含んでいたが、小生の丁寧な説明と謝罪に、徐々に表情を緩めた。


「まあ、今回は大事には至らなかったから……次からは気をつけてもらわないと困るよ」


「はい、肝に銘じます。本当に申し訳ございませんでした」


 小生は深々と頭を下げた。

 謝罪を終え、会社を出たのは午後三時過ぎ。

 帰りの新幹線は、午後六時発。まだ時間がある。


 冬の大阪は、東京よりも少し暖かいと聞いていたが、

 それでも冷たい風が容赦なく頬を打つ。

 小生の胸中に広がるのは、疲労と虚しさ。


 重たい体を引きずるように街を歩く。

 そのとき、ふと目に留まった小さな定食屋。

 看板には「粕汁定食700円」と手書きで書かれていた。


「……粕汁、とな」


 関西の冬の味。酒粕をたっぷり使った、体の芯から温まる郷土料理。

 東京では、あまり見かけぬ。


「冷え切った小生の心を、解かしてくれるやもしれぬ」


 小生は暖簾をくぐった。

 店内は、ほの暗く温かい。

 木のカウンター、古びたテーブル席。


 壁には手書きのメニューが貼られ、「本日のおすすめ」として粕汁が大きく書かれている。

 客は他に三人ほど。

 皆、黙々と定食を食べている。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から、年配の女性が声をかけてくれた。

 恐らく六十代後半。大阪弁の柔らかい響きが、小生の耳に優しい。


「粕汁定食をひとつ」


「はいはい、ちょっと待っててな」


 小生はカウンターに腰を下ろす。

 厨房からは、出汁の香りと酒粕の甘い匂いが漂ってくる。

 ああ、この匂い。東京では味わえぬ、関西の冬の匂いだ。


 しばし待つと、湯気を立てる盆が運ばれてきた。


 大ぶりの椀に注がれた白濁の粕汁。

 湯気に乗って鼻をくすぐる酒粕の香りが、疲れた心に沁みる。

 隣には炊き立ての白飯、漬物、小さな焼き魚。


「おお……これぞ冬の定食」


 一椀に、土地の風土と人情が凝縮されているではないか。

 レンゲで一口。

 白味噌のようにまろやかでありながら、酒粕独特の甘みと深みが口に広がる。


「……ああ……」


 沁みる。胃に、心に、骨の髄にまで。

 中には豚肉、大根、人参、こんにゃく。


 具材は大ぶりで、ひとつひとつがしっかり煮込まれている。

 大根は柔らかく、豚肉からは旨味が溶け出している。


「これだ……これなんだ」


 体の芯から温められ、ふっと肩の力が抜けていく。

 この瞬間、小生の心に重くのしかかっていた謝罪の影も――。


 濱田のミスを背負わされた理不尽さも、どこか薄れていった。

 隣の席では、作業服の男性が同じく粕汁を食べている。


 彼もまた、一日の仕事を終えたのであろう。

 黙々と椀を傾ける姿に、小生は共感を覚える。


 皆、何かを背負って生きている。

 仕事の疲れ、人間関係の悩み、理不尽な境遇……。


 だが、この一椀が――。


 それぞれの心を、少しだけ温めてくれるのだ。

 ふと、スマホを取り出しかけて、思い直す。

 あのグルメサイトには、きっとこの店のレビューもあるだろう。

「味が濃すぎる」「田舎臭い」などと書かれているかもしれぬ。


「濃すぎる、とな……小生にとっては、この濃さこそ救いである」


 冷えた体を包むには、これくらいがちょうど良い。

 薄味の上品な粕汁では、小生の心は温まるまい。


 他人の評価など、関係ない。

 星の数など、小生の満足を測る尺度にはならぬ。


 小生の舌が「うまい」と感じ、

 小生の心が「救われた」と思う。

 それで十分ではないか。


 椀の底まで飲み干し、深く息を吐く。

 酒粕の香りが喉に余韻を残し、体の芯まで温まる。


「ごちそうさまでした」


「おおきに。気ぃつけて帰ってな」


 女性の柔らかい大阪弁が、小生の胸に沁みた。

 店を出ると、冷たい風がまだ吹き付けていた。

 しかし今の小生の胸中は、ほんのりと熱を宿している。


 謝罪は済んだ。濱田のミスも詫び終えた。

 小生の役割は果たされた。

 理不尽だと思う。不公平だとも思う。

 それでも小生は、また明日も会社に行くのだ。


 四十八歳、平社員、謝罪要員。

 それが小生の立場である。


 ただ、この粕汁が――。

 小生の心を、確かに支えてくれた。


「食は、日常の詩である」


 そして今日、小生が出会ったのは――。

 冬の大阪で綴られた、温かい一篇であった。


 小生はマフラーを巻き直し、駅へと向かった。

 新幹線の中で、濱田に報告のメールを送ろう。「謝罪は無事に終わりました」と。

 彼は申し訳なさそうに返信してくるだろう。


 そう、それでいいのだ。

 若い者は失敗し、年長者がそれをフォローする。

 小生もかつて、先輩に助けられてきた。

 今度は小生が、その役割を担う番なのだ。


「……まあ、悪くない人生である」


 小生はそう呟き、冬の大阪の街を後にした。





-続く-

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ