第2話 カレーライスの深淵物語
小生の名は、文谷修蔵。
文豪風の名を持ちながら、小説は書けぬ。
四十八歳、平社員にして、食に生きる男である。
だからこそ、小生は今日も食を追うのである。
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木曜日の夜、七時過ぎ。
今日もまた、長い一日であった。
午前中は得意先への謝罪、午後は大杉課長からの書類チェック。
「文谷、この数字、また間違ってるぞ」
何度も差し戻され、定時を過ぎても残業。
ようやく解放されたのは、八時を回った頃であった。
疲れた足で駅へ向かう。
帰宅してから自炊する気力はない。
かといって、チェーン店の牛丼も今日は気が進まぬ。
駅からの路地を歩いていると、ふと古びた看板が目に入った。
「カレーライス 680円」
白地に赤いペンキで書かれた文字は、少し掠れている。
その掠れが小生に呼びかけていた。
「……カレーか」
考えてみれば、最後にカレーを食べたのはいつだったか。
会社の食堂で食べた、あの水っぽいカレー以来であろうか。
小生は意を決して、ドアを押した。
チリンと鳴る小さなベル。
店内は、カウンター席が五つ、二人掛けのテーブルが三つ。
照明は薄暗く、壁には色褪せたメニューが貼られている。
スパイスの香りが、湯気となって鼻をくすぐる。
カレーの匂い。しかしチェーン店のそれとは違う。
どこか懐かしい、家庭的な香りだ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、年配の女性が笑顔で迎えてくれた。
恐らく六十代後半。エプロン姿で、優しそうな目をしている。
客は小生の他に二人。
カウンターの端では作業着の男性が、テーブル席では学生風の若者が、それぞれ黙々とカレーを食べている。
小生はカウンターに腰を下ろした。
「カレーライスをひとつ」
「はい、少々お待ちくださいね」
女性は穏やかに答え、厨房へと向かった。
待つ間、小生はふと壁のメニューに目をやる。
カレーライス 680円
大盛り 780円
トッピング(ゆで卵、チーズ、カツ) 各100円
「……シンプルだな」
最近の店は、何種類ものカレーを揃えている。
スパイシーカレー、欧風カレー、キーマカレー……。
この店は、ただ「カレーライス」とあるのみ。
潔い。そして、それが良い。
隣の作業着の男性が、食べ終えて立ち上がった。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました」
その背中には、一日の疲労が滲んでいた。
小生と同じように、仕事帰りなのであろう。
このカレーが、彼の一日を締めくくったのだ。
やがて、小生の前にも皿が置かれた。
白いライスの上に、とろりと茶色いルーがかけられている。
湯気が立ちのぼり、福神漬けの赤が鮮やかに彩りを添えていた。
「ああ……これぞカレーライス」
洋食でもなく、インド料理でもなく――。
日本の日常が凝縮された一皿である。
スプーンですくい、ひと口。
口いっぱいに広がるのは、玉ねぎの甘み、肉の旨味、スパイスのほのかな刺激。
「……うまい」
辛さは穏やかで、じわりと体を温める。
激辛を競うカレーも世の中にはあるが、小生が求めているのはこれだ。
具材は乱切りの人参、じゃがいも、豚肉。
家庭の食卓をそのまま持ってきたような、素朴な仕上がり。
だが――その素朴さこそが、小生を安心させるのだ。
食べ進めながら、小生はふと思った。
今日、大杉課長に何度も怒られた。
書類のミスを指摘され、やり直しを命じられた。
四十八歳にもなって、こんな初歩的なミスを……。
同期の寺島は課長として部下を率い、遠藤は係長として実績を上げている。
小生だけが、いつまでも平社員のままだ。
いや、田口もだが。
「……情けないな」
しかし、このカレーを食べていると――。
そんな自分も、少しだけ許せる気がする。
人生は思い通りにいかぬ。
小生は平凡な人間で、平凡な仕事をして、平凡な給料をもらっている。
だが、この平凡なカレーが――。
小生の心を、確かに満たしてくれるのだ。
ふと、スマホを取り出した。
もう癖である。あのグルメサイトを覗いてしまう。
この店の評価は、星が三つ半。
レビューには『昔ながらで平凡』『価格相応』『特筆すべき点なし』とある。
「平凡、か……」
小生は画面を見つめる。
だが、小生にとっては特別である。
この平凡さが、小生の舌に沁みるのだ。
そして、またしても現れる長文レビュー。
「18時32分に入店。店主の表情は穏やかで、カウンターは清潔に保たれていた。注文から提供までの時間は約7分。ルーの温度は適温で……」
「……これは観察記録であろうか」
小生は画面をスクロールする。
レビュアーは、店の照明の明るさ、BGMの有無、食器の種類まで克明に記録している。そして最後に「星は3.5です」と結ぶ。
「小生には、こんな文章は書けぬ」
それでも、小生にも言葉はある。
こうして心の中で呟く言葉。
それは誰にも読まれぬ。
レビューサイトに載ることもない。
だが、この言葉こそが――。
小生にとっての、食の記録なのである。
スマホをポケットにしまう。
他人の評価など、関係ない。
星の数など、小生の満足を測る尺度にはならぬ。
大切なのは、己の舌で味わうこと。
己の胃袋で判断すること。
それが小生の、変わらぬ矜持である。
皿を空にし、小生は水を飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
女性が笑顔で応える。
会計は680円。財布から小銭を取り出す。
この価格で、この満足。
「……良い店だ」
店を出ると、夜風がほんのり冷たい。
カレーライスとは、日常の詩である。
華やかではないが、心に沁みる。
平凡な小生には、平凡な味こそが似合う。
そしてその平凡さこそが、小生にとっては最高の文学なのだ。
「また来よう」
小生はそう心に刻み、駅へと向かった。
680円のカレーが、小生の木曜日を締めくくってくれた。
それで十分である。
-続く-




