パチンコが人生を壊すまで 第1部 ~光の中の孤独~
18歳のとき、僕はただ普通の大学生活を望んでいた。
都会の暮らし、人間関係、恋愛、夢——すべてが始まるような気がしていた。
けれど、ほんの小さなきっかけが、全てを狂わせる。
気づけば僕は、パチンコという「音」と「光」にすべてを奪われていた。
本書の第一部は、僕がどうやって依存へと堕ちていったか、その過程を描いた記録だ。
僕の体験が特別だとは思わない。
むしろ、ごく平凡な家庭で育ち、ごく平凡な若者だったからこそ、そこにこそ問題があると感じている。
依存は、特別な人間のものじゃない。
誰にでも起こりうるものなんだ。
第1章:上京
これは僕の、誰にも聞かれなかった告白だ。僕が壊れたのは、運が悪かったからじゃない。誰にでも起こり得る、ほんの少しの「空白」からだった。
僕は18歳で地方から東京に出た。国立大学に合格し、家族も親戚もみんなが誇らしげだった。「やればできるんだなあ」って親父が言った。人生のピークだったと思う。
東京に着いて最初に驚いたのは、人の顔が笑ってないことだった。知らない誰かの目を見たくて、駅のホームでも電車の中でもキョロキョロした。誰も僕を見ていなかった。誰も、誰も、見ていなかった。
大学の授業は想像以上に淡々としていた。僕の声が、出番を持たないまま消えていく。みんなスマホを見て、俺は講義の内容なんてほとんど耳に入らなかった。昼休みにコンビニで買ったおにぎりを食べるとき、隣のベンチに座っているやつらの会話がうらやましかった。俺もあそこに入りたかった。だけど、タイミングも、勇気も、どっちもなかった。
そんなある日、大学帰りに駅のそばを歩いていたときだった。「パチンコ・スロット 1円貸し出し」ピカピカと派手な光。自動ドアが開いたときに漏れ出る音。ちょっと覗くだけのつもりだった。中は暑かった。音は思ったよりうるさかった。けど、その“うるささ”が心地よかった。まるで誰かに取り囲まれてるような感じがした。
千円札を入れて、玉が出てきて、台が回り始めた。意味もわからず、ただ画面を見ていた。まぐれだった。10分後、当たった。箱に溜まる銀の玉。あの音。誰かに認められた気がした。
その日は3000円勝った。勝った、というより「選ばれた」ような気がした。家に帰ると、母から仕送りの確認LINEが来ていた。「ちゃんと食べてる?体に気をつけてね」いつも通りのやさしい文面。俺はそれに「うん、大丈夫」とだけ返した。
でもその日、晩飯は食べなかった。3000円の興奮で、何も腹に入らなかったんだ。
その日から、僕は少しずつ、少しずつ、授業に身が入らなくなった。単位を落とすほどではなかったけど、ノートは白紙に近くなっていった。ノートを取るより、次にいつあの当たりが来るのかを考える方が、ずっと頭を支配していた。
最初の一ヶ月は、週に一度。二ヶ月目は、週に三度。三ヶ月目には、大学の帰り道が完全に「寄り道」になっていた。
財布の中にある千円札が、何かの鍵みたいに思えてきた。今日こそは勝てる、いや、今日も勝たせてくれるはずだ。そんなふうに、機械に願っていた。
名前も知らない常連の顔も、少しずつ覚えてきた。彼らも僕と同じで、誰にも話しかけず、誰の目も見ず、ただ台を眺めていた。だけど、負けてるときだけはわかる。あの不自然な笑顔。悔しさを飲み込むような息づかい。俺もそうだった。
そして、ある金曜日の夕方、僕は初めて「全部」失った。
財布の中にあった一万円札。母の仕送り分だった。今日は勝てると思った。絶対に勝てると思った。あの台が呼んでいた。回転数も悪くなかった。
でも、当たらなかった。何も来なかった。まるで僕だけが、そこにいないかのように、台は冷たく、冷たく、沈黙を貫いた。
気づけば、千円札を入れる指が震えていた。誰かに見られている気がして、辺りを見回した。誰も僕を見ていなかった。見ていないのに、僕だけが裸になったような気がした。
残高がゼロになったとき、僕はしばらく立ち上がれなかった。耳鳴りがして、目の前の画面が光ってるのに、何も見えなかった。
あの瞬間からだ。
パチンコは「遊び」じゃなくなった。
部屋に帰って布団に倒れ込むと、スマホが鳴った。母からの着信だった。出なかった。
LINEが来た。
「今月厳しいって言ってたけど、もう少し送ろうか?」
何か返そうとして、スマホを伏せた。
翌日、大学には行かなかった。その日初めて、僕は「嘘をついて休む」ことを覚えた。
「体調崩しました」
教授にそうメールしたあと、また駅前のホールに向かった。
金はなかった。でも、行きたかった。行けば、もしかしたら何か取り戻せるかもしれないと思った。
取り戻せるのは、金じゃない。興奮。高揚。あの最初の「勝てた自分」だった。
そうして僕は、孤独と嘘と音の渦に、少しずつ巻き込まれていった。
そして、その渦の中に、あの子が現れた。
奈央。彼女は第2章から、僕の物語に登場する。
第2章:奈央
彼女に初めて会ったのは、図書館だった。春の午後、キャンパス内の自習スペースにある静かな机のひとつ。僕が問題集を開いてうんざりしていると、彼女が隣に座った。
「その教科、むずかしいよね」
いきなり声をかけられて、僕はぎょっとした。だけどその声は、耳に優しかった。
「……ああ、まあ。ていうか、意味わからない」
自分でも驚くくらい、自然に返事をしていた。そこから話が少しずつ続いた。奈央は同じ学部の一年生だった。僕と同じで地方から出てきて、慣れない東京の生活に少し疲れていたらしい。
それでも彼女は明るくて、前向きだった。笑うと少しだけ右の頬にえくぼができる。自習のあと、大学の近くのドトールでコーヒーを飲んだ。その日、久しぶりに「話した」という気がした。
僕は嘘をついた。バイトが忙しいから授業をよく休むんだ、とか、東京の生活には慣れてるよ、とか。本当は何もかもうまくいってなかったのに。嘘をついてまで、彼女と繋がっていたかった。
それから何度か会って、付き合うようになった。
奈央は丁寧で、細かいところによく気がつく人だった。部屋を掃除してくれたり、疲れてるときは栄養ドリンクを持ってきてくれたりした。
でも、僕はどこかで引け目を感じていた。彼女がまっすぐであるほど、僕は歪んでいくような気がした。
パチンコのことは、もちろん言えなかった。授業のあとや、奈央と別れたあとの夜に、こっそり行くようになった。打ちながら、「バレたら終わりだ」と思っていた。でも同時に、やめられなかった。
「最近、元気ないね」
奈央はよく言った。
「寝不足かな」
僕はまた、嘘をついた。
奈央の笑顔が、少しずつ曇っていった。それでも彼女は離れなかった。手を握って、見つめてくれた。その優しさが、時々苦しかった。
第3章:崩壊の兆し
ある日、奈央が僕の部屋に来た夜、何気なく僕の財布の中を覗いた。そして、何枚ものレシートを見つけた。
「これ……全部、パチンコ?」
奈央の声は小さく震えていた。
僕は言い訳すらできなかった。自分の中で何十通りも考えていたはずの「逃げ道」は、彼女のまっすぐな目の前で全部消えた。
「……ごめん」
それが精一杯だった。
でも奈央は、怒鳴らなかった。
「やめよう? 一緒に頑張ろう」
僕はこくりとうなずいた。本当は、やめる気なんてなかった。だって、もう「やめる」という選択肢がどこか遠い場所にあるような気がしていたから。
最初の数日は、奈央に嘘をつかずに過ごした。彼女のいる時間は、僕のなかで唯一「安全地帯」だった。
でも授業が終わって、彼女と別れたあとの夜道。街の光の中に、パチンコ店のネオンが浮かぶと、胸の奥で何かが疼いた。
「今日だけ……」
そう言い聞かせて入店し、気づけば数時間が経っていた。財布の中は空になり、残ったのは疲労感と、奈央への罪悪感だった。
奈央に会うと、彼女は僕を信じて笑った。
「顔色よくなったね」
嘘だった。僕は、最低だった。
ある夜、とうとう限界が来た。
奈央が部屋に来たとき、僕は不機嫌だった。負けが込んで、帰る途中で吐き気が止まらなかった。
「何かあった?」と聞く奈央に、僕は冷たく言った。
「うるさいって……」
彼女は黙って僕を見つめた。そして、ふっと笑って言った。
「私のこと、嫌いになった?」
「……違う」
「それならいい」
その夜、彼女は僕を抱きしめてくれた。優しさが、痛かった。
決定的なことが起きたのは、それから数週間後のことだった。
奈央が大切にしていたネックレスが、僕の手によって消えた。高校時代に親友から贈られた、大事な思い出の品だった。
僕はそれを、質屋に入れた。
「すぐ返すから」
そう思っていた。だけど、その金もすぐにホールに消えた。
翌日、奈央が部屋に来て、ネックレスがないことに気づいた。
「ここにあったはずなんだけど……」
僕は黙っていた。胸が焼けるように痛んだ。
奈央は立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。
「……返して。お願い」
僕は、答えられなかった。
奈央は泣かなかった。ただ、まるで何かが終わったことを理解したように、静かに僕の前から去っていった。
その日以来、彼女はもう戻ってこなかった。
彼女のいない部屋は、異様に静かだった。
僕は壁を見つめながら、しばらく動けなかった。
そして思った。これが、最初の「崩壊」だったと。
第4章:抜け道
奈央が去ったあとの生活は、色も音も消えたようだった。
朝起きても、起きる意味がなかった。大学には行かなくなった。教授からのメールも無視した。友達と呼べる人間もいなかった。部屋は散らかり、洗濯物の山が崩れかけていた。
それでも、ホールには通った。
何もかも失ったのに、僕はまだパチンコを「やめよう」と思えなかった。というより、やめる理由すらもう消えていた。あの光と音だけが、まだ何かを与えてくれる気がした。
いつもと同じ店、いつもと同じ台。
財布の残高を気にせず、ただ玉を打ち出す指先だけが動いた。
勝つことは、もうどうでもよかった。ただ、音と光の中に自分を溶かしたかった。
ある日、財布の中身が尽きて、僕は初めて「金を作る」方法を考え始めた。
最初は、メルカリだった。家にあるCD、ゲーム、古着。全部出品した。何もかも、すぐに売れた。得たお金はそのままホールへ向かった。台はいつも通り、何もくれなかった。
次に、実家から送られてきた荷物を開けて、中の食品を売った。
それも尽きると、僕はついにクレジットカードを使い始めた。
キャッシングという文字の意味を初めて知った夜。カードの機械から現金が出てきた瞬間、なぜか胸が高鳴った。
「これで、また打てる」
喜びでも、絶望でもない。もはや習慣だった。
六月。気がつくと、大学から「進級危機」の通知が届いた。
出席率は足りず、単位も不十分。もうすぐ後期の履修登録が始まる頃だったが、僕はそれどころではなかった。
親にバレるのは時間の問題だった。だが僕は、それを「後で考えること」にした。何でも後回しにすれば、目の前の現実から逃げられる気がした。
ただひとつだけ、「今」考えることがある。それは、「どうやって、今日を打ち続けるか」だった。
生活費が底を突いたある日、僕は日雇いのバイトを始めた。
倉庫の仕分け、ビルの清掃、イベント設営。何でもやった。朝早く、眠い目をこすりながら電車に乗り、汗だくになって働き、日当を受け取って、その足でパチンコ屋に向かった。
働いた金を、その日のうちに使い切る。
働いても、何も残らない。でも、働くと「打つ理由」ができた。
「俺は努力してる。だから、遊んでもいい」
そういう嘘で、自分を納得させた。
その頃、夜の街で似たような人たちをよく見るようになった。
ホールの入り口で煙草を吸う男たち。目の下にクマを抱えた学生風の若者。身なりのいい中年。誰もが同じような表情をしていた。
みんな、「勝ち」を求めていないように見えた。ただ、そこにいることが目的のようだった。
あるとき、隣の席の男が僕に話しかけてきた。
「兄ちゃん、ずっといるな。学生か?」
「……まあ、そんな感じです」
「バイト代で打ってんのか?」
「はい」
男はそれ以上何も言わず、しばらく黙って台を打っていた。
しばらくして、ぽつりと漏らした。
「俺もな、最初は一日千円って決めてたんだよ。でもな、意味ないんだよ、そんなもん」
彼の声には、怒りも、悲しみも、希望もなかった。ただ、空虚だった。
それが、未来の自分の姿だと思った。
部屋に帰っても、眠れなかった。
カーテンの隙間から朝の光が差してきても、布団から出る意味がわからなかった。
いつからだろう。生きていることが、「罰」みたいに感じるようになったのは。
ある夜、スマホに母からのLINEが届いた。
「最近、声を聞いてないね。元気にしてる?」
既読をつけられなかった。返信もできなかった。
その文面を何度も何度も読み返して、僕はついに、泣いた。
自分がどこに向かっているのか、もうわからなかった。
でも、その次の瞬間、また思ってしまった。
「明日、あの台が出るかもしれない」
第5章:沈没
日払いのバイトは、だんだん減っていった。
体がきつくなったのもあるが、何より、仕事に行くよりパチンコ屋に行くほうが「確実」に思えた。
「今日こそ勝てる気がする」という、根拠のない希望。
朝起きて、コンビニで缶コーヒーを買い、ホールの開店前に並ぶ。
そんな日々が、当たり前になった。
一度だけ、学生時代の友人に道で会った。
彼は驚いたように僕を見て、笑って言った。
「お前、変わったな」
僕は笑えなかった。
髪はぼさぼさで、服は安物のジャージ。
手には景品の袋。目の下には深いクマ。
「元気?」という言葉が、ものすごく遠いところにあるように感じた。
借金が膨らんだ。
最初は3万円、次は10万円、気づけばカード会社から封筒が毎週届いた。
もう見たくなかった。
開けずに捨てた。
アパートの管理会社からも連絡が来るようになった。
家賃が払えない月が続いていた。
けれど、そんな通知よりも、次の一回転のほうが僕には重要だった。
ある日、体調を崩した。
起き上がるのもつらく、コンビニにも行けず、丸一日水だけで過ごした。
誰も看病してくれる人はいなかった。
奈央の声を思い出した。母のLINEを思い出した。
でも、僕は自分からそれらを全部切ったのだ。
ベッドの上で、ふと思った。
「このまま死ぬのも、ありかもしれない」
けれど、次の朝には回復していた。
そして僕はまた、ホールへ行った。
その日、最後の1万円を使い果たしたあと、どうしようもなくなった僕は、トイレの個室に座り込んだ。
スマホで検索した。
「パチンコ 金がない」
「即日融資」
出てきたのは、消費者金融の広告ばかりだった。
その下に、ひとつだけ掲示板のスレッドがあった。
『パチンコで人生終わったやつ集まれ』
そこに書かれた言葉たちは、まるで鏡のようだった。
「仕事も家族も失った」
「ギャンブルやめたい、けど無理」
「死にたい」
その文字を見ながら、僕は画面を握りしめて泣いた。
泣くことなんて、もう忘れていたのに。
けれど、泣いたあと、また思った。
「でも今日負けた分、明日取り返せばいいんだ」
僕は、まだ沈みきっていなかった。
むしろ、これから沈みゆく途中だったのだ。
第6章:転落
ある日、部屋のドアに紙が貼られていた。
『滞納家賃についての最終通告』
電気も止められた。水も出なくなった。
冷蔵庫の中身は腐っていた。
夜になると真っ暗な部屋の中、布団にくるまって震えていた。
それでも、朝になればホールへ向かった。
金がないのに。
駅前で立ち尽くし、見知らぬ人に声をかけそうになる。
「すみません、百円だけ……」
ギリギリで引き返す。
もう自分が何をしているのか、わからなかった。
大学のポータルサイトにアクセスすると、僕の名前はもうそこにはなかった。
退学処理がされていた。
学生証も、使う場面はもうなかった。
財布には小銭だけ。携帯料金も未払いで止まり、連絡手段も絶たれた。
ネットカフェで夜を明かし、シャワーだけ浴びて朝を迎える。
その繰り返し。
食事はコンビニの廃棄弁当をもらうか、スーパーの試食コーナーを何度も回る。
それでも、どこかに一発逆転の夢があった。
それだけを握りしめて、僕は存在していた。
ある日、ホールの外で倒れた。
意識が遠のき、気づけば病院のベッドにいた。
点滴が刺さっていた。
鼻から酸素チューブが通されていた。
「あなた、脱水と低栄養状態です。あと一日遅れてたら、命はなかったかもしれませんよ」
医師の言葉が、どこか遠くから聞こえた。
僕は助かったらしい。
けれど、何も嬉しくなかった。
助けてほしいとも思っていなかった。
死ねなかった自分を、ただ情けなく思った。
それから数日後、病室に母が来た。
「……なにやってたの、あんた」
泣きながらそう言って、母は僕の手を握った。
何も言えなかった。
奈央にも、大学にも、友人にも、そして母にも。
僕はもう顔向けできる人間ではなかった。
でも、母は手を離さなかった。
そのぬくもりが、今の僕には痛かった。
第7章:目覚め
母は僕の保証人だった。僕の借金の一部が、すでに彼女に通知されていた。
病室のベッドで目を覚ますたびに、現実が襲ってきた。
体は少しずつ回復していたが、心は真っ黒な泥の中に沈んだままだった。
夜、眠れないときに天井を見ながら考えた。
「ここまでして、僕は何を得たんだろう」
パチンコ台の光、音、振動。それらが記憶の中で反響するたびに、吐き気がした。
病院を出たのは、入院から二週間後だった。
退院しても帰る家はなく、母が一時的に僕を実家へ連れて帰った。
父は何も言わなかった。ただ一度、視線がぶつかったとき、僕はその目からすべてを理解した。
妹は避けるように顔を背けた。
僕はもう、家族の中の「失敗作」だった。
ある日、母に言われた。
「ちゃんと治療を受けよう。病気なんだから」
病気。
その言葉を、最初は受け入れられなかった。
僕が弱かっただけだ。意思が足りなかっただけだ。
けれど、カウンセラーとの面談や、依存症回復施設での講話を通じて、少しずつ理解し始めた。
これは「心の病」だった。
僕だけじゃなかった。何人もの人が、似たような過去を抱えていた。
「家族に見捨てられた」
「子供に会えなくなった」
「刑務所に入った」
話を聞くたびに、胸が締めつけられた。
でもその中で、初めて、自分が「一人じゃない」と思えた。
回復には時間がかかった。
自分を責めないこと。
小さな約束を守ること。
誰かの声を聞き、語ること。
そして少しずつ、目が開いていった。
奈央からは、一通だけ手紙が来た。
『あなたが幸せになりますように』
涙が止まらなかった。
でも、その手紙が僕の中で何かを動かした。
一年後、僕は依存症回復支援施設のスタッフとして、働くようになった。
毎日、パチンコ依存で苦しむ人々の話を聞いた。
「地獄だった」と語る人々に、僕は言う。
「僕もそこにいました。でも、戻ってこれます」
誰かの役に立てる。
あの頃の僕には、想像もできなかった未来だった。
そして、あの日、病院で母が手を握ってくれた瞬間のぬくもり。
それが、すべての始まりだった。
病院のベッドの上で目覚めたあの日、僕はすべてを失っていた。
家族も、恋人も、将来も、自分自身すらも。
けれど、あの瞬間が、僕にとっての「始まり」でもあった。
母の手のぬくもり。
「治療を受けよう」という一言。
奈央から届いた、たった一行の手紙。
それらが、僕の沈んだ心を少しずつ、浮かび上がらせてくれた。
第一部はここで終わる。
だが、人生は続いていく。
傷ついた心を抱えたままでも、僕はもう一度立ち上がろうと思う。
第二部では、僕が再び世界と向き合い、「語る者」としての人生を歩き始める姿を綴っていく。
この物語が、どこかの誰かの救いになることを願っている。