滴るもの
フリーライター見習いの俺、渡辺浩壱は、ある奇妙な地名に惹かれていた。
ダムに沈んだ「水無村」。皮肉にも、かつて水神を祀っていたという集落だ。
地図には載っていない。だが地元の役所に粘って取材の許可を取り、ようやくその存在に辿り着けた。
聞けば、水無村の一部の住人は、ダム完成後も別の森に移り住んで今なお暮らしているらしい。
「集落には宿なんてありません。取材されるなら、空き家を貸すくらいは……」
森の入り口で出迎えた中年の男が、不機嫌そうに言った。名は石田というらしい。
「助かります。……蛇口の水は?」
「共用が、使うならしっかり栓を締めてください。……水の音に、村の者は敏感ですので」
冗談かと笑いかけたが、男の目は真剣そのものだった。
そのただならぬ雰囲気に、背筋がひやりとした。無意識に唾を飲み込んでいた。
***
取材初日は、拍子抜けするほど普通だった。
小さな畑に藁ぶき屋根の民家。どこか昭和の空気を残した空間に、十数人の住人。
皆、慎ましく穏やかで、話してみれば驚くほどよく喋る。
湧き水を汲み上げる際には、まるで儀式のように静かに、慎重に扱っていたのが印象的だった。
「水神さま? ええ、昔はちゃんと祀ってましたよ。いまは、もう祠も沈みましたけどね」
「移住した先で、みんな不幸になってね。祟りじゃないかって噂があって……それで、ここに逃げてきたの」
笑い混じりに語る老婆の目が、少し濁っていた。
その奥には、深い恐怖と諦めが沈んでいるようだった。
「もう若い者はいなくなってしまってね……。こうやって、ひっそり暮らしてるのが一番なの」
いくつか話を録音し、メモを取り、日が暮れる前に空き家へ戻った。
寝泊まりするその家は、築数十年は経っていそうな古びた木造家屋。
水道は止まっているが、電気は通っている。
長らく使われていなかったようで埃っぽく、湿気がこもっている。
軽くタオルで体を拭き、寝袋にくるまり、ノートパソコンに取材メモを打ち込む。
ここまでは、特におかしなことは起きていない。
***
深夜。
ぴちょん……
ぴちょん……
水音が、どこからか聞こえる。
空き家の水道は止められているはずだ。
念のため蛇口も締めた。浴室にも行っていない。
ぴちょん……
ぴちょん……
気のせいか、その音が近づいてくる。
風か木の葉か、何かの滴か。……いや、それにしては妙に規則的だ。
その音は、まるで心臓の鼓動のように、神経をじわじわと締めつけてくる。
ぴちょん……
……額に、冷たいものが垂れた。
反射的に目を開けた瞬間、視界を覆うほどの水が、頭上から――
「ごぼっ……!? ぐ、あっ……!」
顔全体に、ぬるりとまとわりつく“何か”。
水、だが――まるで生きているようだ。
呼吸ができない。息が、苦しい。
必死に手を伸ばし、近くにあったタオルを掴んで拭い取る。
視界が開ける。だが、水の塊は肌に吸い付くようにまとわりつき、なおも喉を塞ごうとする。
「はっ……はあっ……!」
なんとか息を吸う。喉が焼けるように痛む。
――ガタリ。
外から物音がした。
窓の方を振り向くと、闇の中に、人影――いや、“それ”は人の形をしていたが、人ではなかった。
目が、飛び出しかけていた。出目金のようにぎょろりと。
まるで、何かに操られているような顔で、村人たちが家を取り囲んでいた。
その目は、闇の中でうっすらと光り、俺の全身が凍りつくのを感じた。
これは――やばい。
直感が叫んでいた。
俺は荷物を掴み、ノートパソコンを鞄に突っ込むと、玄関へ走る。
外に出ると、奴らはゆらゆらと揺れていた。
数人が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
走った。無我夢中で、森の入り口を目指す。車へ向かって。
――ぬめるような足音。水を含んだような、不気味な音が、すぐ後ろに迫っている。
息が切れる。視界が滲む。
ようやく車にたどり着き、ドアを開けてキーを回す。
「……かかってくれ……頼む……!」
キュルル……キュルル……
「お願いだから……っ!」
キュルル……ドゥルルン!
エンジンがかかる。
即座にアクセルを踏み込み、ハンドルを握りしめた。
バックミラーに映る、ゆらゆらと揺れる無数の人影。
まるで水面に浮かぶ、意志を持った“何か”のようだった。
***
帰宅して三日。
眠れない夜が続いていた。
俺は録音していた音声を何度も再生し、取材メモを見返している。
「水を……使ったら……蛇口の栓を……」
あの男の声が、耳の奥にこびりついて離れない。
あれは警告だったのだ。何かを、封じるための。
ふと、以前読んだ記事を思い出す。
ロイコクロリディウム――
カタツムリに寄生し、目を膨らませて動かし、鳥に食わせようとする寄生生物。
……あの村人たちの目。
あの“水のようなもの”に包まれた感覚。
あれは本当に、水だったのか?
寄生体の媒介? それとも……生きた“何か”だったのか。
わからない。
ただ一つ、はっきりしているのは――
俺の体が、なんだか重い。頭がふらふらする。
鏡を見ると、そこに映っていたのは、妙にぎょろついた目をした、
生気のない俺だった。
いや、これは――
ぴちょん……
天井から、水滴が落ちた。
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