奴隷のアリス
奴隷が椅子の上で固まっている。テーブルの上のパン粥を凝視し、漂う香りに喉を鳴らす。
テーブルの向かいには俺とヘンゼルが並んで座る。ヘンゼルは笑顔を浮かべて奴隷に声を掛けた。
「妹が病気の時に良く作ってたんすよ。アリスちゃんの状態だと、これが良いと思ったんすよね」
「……アリス?」
知らない単語に俺は首を傾げる。すると、ヘンゼルは慌てた表情を浮かべる。
「いやいや、奴隷商から説明受けたっすよね! この子の名前がアリスっすよ!」
「そうだったか? 俺にとっては不要な情報だったからな」
ヘンゼルはガックリと肩を落とす。疲れた様子で大きく息を吐いていた。
まあ、奴隷の名前はどうでも良い。俺は奴隷に向かって声を掛ける。
「どうした? さっさと食べろ」
「食べて……良いんですか……?」
奴隷の視線が初めてパン粥から外れる。戸惑った表情で俺の顔色を伺っていた。
「お前の前に置かれているのだ。当然だろう?」
「は、はい……。それでは、頂きます……」
奴隷はパン粥に添えられたスプーンを手に取る。そして、恐る恐る掬ったパン粥を口に運ぶ。
初めはゆっくりだったが、やがてその手が速度を上げる。流し込む様に食べる姿に、ヘンゼルが慌てて制止を掛ける。
「ゆっくり食べるっす! 慌てて食べたら、体がビックリするっすから!」
「……美味しい。美味しいです! こんな、人間らしい……食事なんて……!」
奴隷は涙を零して食事を続ける。ヘンゼルは慌てた様子で、水の入ったコップを差し出す。
食事を美味しいと感じるならば、味覚も心も壊れていないな。これならば体調さえ回復すれば、すぐに鍛える事も可能だろう。
俺は奴隷の状態を確認しつつ、食事を取り終わるのを待つ。そして、皿とコップを空にして、奴隷が落ち着くと声を掛ける。
「念のために確認しておく。お前は何が出来る?」
俺の問い掛けに、奴隷がビクリと肩を揺らす。そして、怯えた表情で俯いてしまった。
「わ、わかりません……。わたしは馬鹿だから、自分が何を出来るのかも……」
これまでの見て来た奴隷は、必死に自分の能力をアピールして来た。そのアピールによって、自分の価値を上げようと必死だった。
しかし、この奴隷にはそんな考えが無いらしい。嘘や虚勢であっても、何かしらの価値を示そうとはしなかった。
「――悪くない。そう、悪くない答えだ」
「えっ……?」
驚いて顔を上げる奴隷。赤い瞳を揺らし、俺の事をじっと見つめていた。
俺はそんな奴隷の姿に、ニイッと口を吊り上げる。そして、奴隷に対して語って聞かせる。
「そう、全ての人間は賢くなど無い。全て等しく愚かなのだ。だが、それを受け入れ、認められる者がどれ程居ると思う?」
「え、えっと……?」
「そう、皆無だ! 誰もが自分を賢いと考えている! 愚かである事を指摘すれば、全ての愚者は激高する!」
これまでに俺の指摘を、真に受け入れた者は限られている。俺の隣に座るヘンゼル以外に思いつかない。
ヘンゼルも決して賢者では無い。けれど、他の愚者に比べれば随分とマシだ。この奴隷もそれに次ぐ位にはマシな存在だと言える。
「己が愚者であると認めろ! そして、知らぬ事を恥と思うな! 貴様も知る努力さえずれば、今よりずっと賢くなれるであろう!」
「わ、わたしでも、賢くなれるんですか……?」
「無論、成れるとも! 賢者とは須らく、己を愚かと認める事から始まるのだ!」
俺の言葉に奴隷が目を見開く。そして、ポロポロと涙を零し始めた。俺は眉を顰めて奴隷に問う。
「何故、この状況で泣く?」
「う、嬉しいからです……。私でも賢くなれるって、初めて知ったから……」
なるほどな。新しい可能性に気付いた時、人は誰でも感動する。俺でもその感情は理解出来る。
つまり、この奴隷は一段賢くなったと言うことだ。これは悪くない買い物だったかもしれない。
「おい、奴隷。今は体を休ませろ。栄養状態さえ改善すれば、治癒魔法で病気も直してやる」
「わかりました、ご主人様! ありがとうございます! ありがとうございます!」
涙で顔を濡らしながら、何度も頭を下げる奴隷。だが、俺からすれば感謝の言葉は不要。さっさと休めと言いたい所だ。
しかし、そう口を開くより早く、隣のヘンゼルが俺に耳打ちして来た。
「ちなみに奴隷は名前で呼ぶと、作業効率が上がるみたいっすよ……」
「何だと? それは本当の話だろうな?」
胡散臭い情報だが、ヘンゼルは真剣な表情で頷いている。経験則から彼の進言は、意外と正しい場合が多いのだが……。
俺はチラリと奴隷を見る。何故だかその瞳には、期待の色が滲んでいた。
「チッ、アリスと言ったな? 俺の名はグリム。今後は俺の役に立って貰うぞ」
「はい、グリム様! 誠心誠意、お仕えさせて頂きます!」
涙を流しながら笑顔を見せるアリス。そんな様子を温かい眼差しで見つめるヘンゼル。
何となく落ち着かない空気だが、不思議と悪い気分では無い。俺はそんな気持ちの変化に、内心で戸惑いを感じていた。