ティアマトの忠告
既に日は沈んでいる。昼に受けたグレーテルからの忠告。それに対する答えを、俺はずっと出せずにいた。
決断すべきはたったの一つ。俺の気持ちをアリスに告げるかどうか、只それだけなのだ。
必要ならば告げればよい。必要無ければ告げなければ良い。それだけの判断に、俺は延々と悩み続けていた。
――何と愚かな……。
グレーテルの忠告通り、事実をアリスに告げるべきだろう。ダンジョン攻略後に、アリスの人格に影響が出る可能性が高い。それをアリスは知るべきである。
ただ、そこに俺の気持ちを添えるかどうか。そんな下らない問題で、俺はずっと悩み続けていた。はっきり言って時間の無駄でしかない。
「くそっ……。頭ではわかっているのに……」
別にそれは必要な事ではない。俺の気持ちを伝える必要なんて無い。いつもの俺ならそう即決していた。
けれど、グレーテルのあの言葉がずっと引っかかっているのだ……。
――もっとアリスちゃんを信じてあげて?
俺はアリスを信じているし、今の距離感が適切だと感じている。無理に距離を詰める必要は無い。それで問題ないはずなのだ。
なのに俺は、何故だかその結論に納得できない。ならば気持ちを伝えるかと言えば、その決断には躊躇して踏み切れずにいる。
何なのだこの状況は? どうしてこんなに、不快な気分で悩まねばならない?
俺は研究室で一人頭を抱えていると、不意に近付く気配に気付いた。
『――グリム、随分と悩んでいるな』
「……ティアマト? 何故、お前が?」
夕食時は騒がしかった記憶が朧げにある。恐らくあの時はハーシーが表に出ていたはずだ。
しかし、今の彼女はウトウトした姿に凛とした声。ティアマトが表に出ているみたいだった。
『グリムの態度をこの子も心配していてな。私に主導権を譲られてしまった』
「主導権を譲られた? そんな事も出来るのか……」
どうやら、どちらが表に出るかは、ハーシー側に主導権があるらしい。ティアマトはその意思に従って活動しているのだろう。
それはそれで興味深いが、今はそれより気になる事がある。ティアマトが何の目的で俺に所へとやって来たかだ。
「何か俺に話があるのか?」
『……以前に少し話したが、私は獣達の母。今は滅んでしまったが、世界に生命を満たした神だ。多くの生命を見守って来た私だからこそ、言える事があると思っている』
そういえば、ティアマトはそんな話をしていたな。そして、全ての子供達を魔物に殺し尽くされ、全ての魔物を憎んでいるとも。
ただ、それが今の状況にどう関わるのだろうか? 俺は状況がわからず、静かに彼女の言葉に耳を傾けていた。
『――死別は唐突にやって来る。今日と言う平穏は、未来永劫続く訳では無い』
「死別は、唐突に……?」
世界を滅ぼされたティアマトからすれば、それは経験に基づく意見なのだろう。その言葉には十分な重みがあるとわかる。
しかし、やはり俺にはわからない。ティアマトは俺に何を伝えようとしているのだろうか?
『私が生み出した子供。その子が生み出した孫。全てが愛おしい子供達だった。その子供達が殺されていく中、どれ程の後悔を味わった事だろう。もっと出来る事があったのではないか? もっと違う未来だって作れたのではないか? そんな強い想いが残ったが故に、今の私はここに居るのだろう』
その話も既に聞いている。全てのダンジョンの神々は、その無念を継承者へと与える。それが令呪となり、抗えない意思を植え付けるのだと。
オズや三獣士と言った継承者は、全ての魔物を憎んでいる。それと同時に、同族を守る事を令呪として刻まれている。それは、神々の後悔の念がそうさせるのだろう。
『グリムよ、だからこそ言おう。――後悔の無い決断をしろ』
「――っ……⁈」
ティアマトの声には力があった。これまで感じた事が無い程の想いが込められていた。その言葉は何故だか、俺の心を激しく揺さぶっていた。
『死力を尽くして駄目だったなら諦めもつく。けれど、何も行動しないのは駄目だ。それは必ず未来の後悔に繋がる。アリスを大切に想うならば、本気になって行動しろ。後悔が無い様に死力を尽くせ』
「…………」
その言葉は俺に向けられた想い。そして、ティアマト自身の後悔なのだろう。守れなかった大切な子供達への想い……。
『迷いがあるままダンジョンへ挑むな。それは命を落とす要因となる。だからこそ、やるべき事を早く済ませろ。グリムならば、何をすべきかわかるだろう?』
「何を、すべきか……」
ティアマトは全て言い終えたと言わんばかりに踵を返す。そして、俺を残して研究所を後にした。
俺はティアマトの言葉を思い返す。俺が何をすべきなのか、それが朧気ながら理解出来た気がする。
「……よし、行動に移そう」
俺はゆっくり立ち上がり、研究所を後にする。そして、アリスの部屋へと向かって歩き出した。




