隠れん坊症
「ケイ、聞いてくれる?」
廊下に出る気分になれず、机に突っ伏していたところへ安斉くれはが来た。
可愛い女子ならどのクラスにもいるが、彼女がその類でないことは横目で見るまでもなくわかっていた。自分とは対照的な彼女が時々羨ましく思えるときもある。
それでも、この時はそんなことを考えていなかった。
「あたし、狙われてるみたい」
――来た。
その言葉だけで、双葉敬介の耳がピクリと動いた。
何ら変哲もない中学校に、敬介は通っていた。勉強に力を注いでいるわけでもなく、部活動が盛んなわけでもない中学校。
悠々と日々を過ごしているのは、敬介だけではない。他のどの生徒も何かに縛られるわけでもなく、思い思いに中学校生活を楽しんでいた。
各学年に五クラスずつあり、噂の一つや二つが当たり前のように飛び交っている。
敬介自身、特に噂に敏感なわけではない。それでも、廊下を歩けば何かしらの噂が耳に入ってくる。休み時間になると混みだす廊下の隅で、女子たちの世間話は耐えないのだ。
大抵が人様の恋愛事情だった。誰と誰が付き合っているだとか、誰が誰に恋をしているかだとか、そんなくだらない話。そんな話がなくなったかと思うと、今度は根も葉もない人様の行動に話を持っていく。
どれもこれもありふれた内容で、すでに敬介の興味は薄らいでいた。
しかし、唯一つだけ、この奇妙な噂話にだけは興味津々だった。
――“美しいものに目がない少年”がいる。
一体誰なのか。どんなやつなのか。顔立ちは。髪型は。背丈は。体格は。その殆どが謎に包まれた存在。
根も葉もない噂話が嫌いなんじゃない。黒々としたものが裏に流れているような噂話が嫌いなのだ。
しかし、この噂は違う。だからこそ興味が持てる。どうやら、その少年が自分と同じクラスにいるらしいことからも、敬介の興味は絶えなかった。
「良かったじゃん」
「良くないわ、よ!」
言いながら敬介の筆箱を引っつかみ、くれははそれを高々と掲げて微笑んだ。
思い切り腕を伸ばしても、いかんせん椅子に座っているため届くはずがない。空間を何回も掴み取って、敬介は空気を握り締めたその手を諦念と共に下ろした。
「筆箱、返せよ」
「交換条件。安いもんじゃない? 幼馴染なんだから、ね」
ウィンクをしてみせる彼女を真面目に見ていたら、きっと赤面してしまうのだろう、と敬介は思っていた。
溜息と共にゆっくりと差し出された手に筆箱を預け、くれはは敬介の前の席に腰掛けた。
彼女の相談事を聞き、やはりな、と敬介は心の中でそっと呟いた。予想通り、彼女は目をつけられていたのだ、“例の少年”に。おそらく、くれはが“狙われている”と口にすれば、どんな男子生徒でも“例の少年”を思い浮かべるだろう。
くれはが、自分は狙われているのだとわかったのは、同じクラスの友達にそう言われてからだった。些細な相談事をその友達に打ち明けただけだったという。何か視線を感じる、と。最初のうちは友達も、彼女の美貌ゆえ仕方のないことだと笑っていたが、その深刻そうな表情に切り出したようだった。
くれはの頼みごとならば、進んで受ける男子はいくらでもいる。それでも、肝心なのは、くれはが心から信頼できる人であることだ。それに値するのが、幼馴染の敬介だった。
手で弄ぶ筆箱のファスナーを陽光で輝かせ、敬介は落としていた視線をくれはの双眸に重ねる。
「周りの男どもの視線が痛いけど、仕方ない」
「サンキュ」
手を合わせて再びウィンクをしてみせるくれはから、敬介は目を逸らした。
今も同じクラスで、ずっと前から一緒にいるはずなのに、妙にくすぐったくなってしまう。中学二年生の男って言うのは、みんなこうなのだろうか。
チャイムと共に自分の席に戻っていくくれはの後姿に視線を向けて、敬介は脳裏に問いを巡らせた。
休み時間になると、くれはが自分から敬介のもとにやってきた。守る立場にある自分こそが姫のお役に立つべきではあるのに、とは思いつつ、内心敬介はそのことに甘えていた。
敬介の前の席に誰かが座っていようが、くれはには関係のないことだった。一声かけるだけで、席は彼女のものとなる。前の席が女子であったならば、少しは嫌そうな顔の一つも見れたかもしれないが、男子であるために、嫌な顔一つせず、寧ろ嬉しそうに席を明け渡す。
指定のブレザーは着ていなく、くれはは白いカーディガン姿で校内を過ごしていた。長い袖から指先だけ顔を出し、小さく尖った顎の下で絡ませる。光沢のある唇が震わすのは、ごく普通のくだらない話だった。
「最近、“堅焼き黒胡椒”に嵌ってるんだよね」
強いて言うなら、お菓子の話が多い。
「ついこの間までは“のり塩”だったんだけど、なんか物足りなくなっちゃったんだよね。なんだろう、歯ごたえかな」
どうでもいいというか、そこまでポテトチップスに興味を持てない。
敬介は専ら彼女の話を聞いているだけであった。それは昔も同じ。何か話をするとなると、必然的にくれはの方の口数が増す。しかし、敬介はそれが申し訳ないとは思わなかった。寧ろ、その方が楽だったし、何より彼女が楽しそうに思えた。
しかし、今回ばかりはどこか腑に落ちない。昔と変わらない情景であるはずなのに、どこか不自然さが漂う。
どうしてそう思ってしまったのか。そのことに気づいたのは、安斉くれはの警護を任されて数日経ってからだった。登下校も、校内にいる殆どの時間帯も、敬介はくれはと一緒に過ごしていた。しかし、くれはは全く気にする素振りを見せないのだ。視線を感じるから、狙われているから、と頼み込んできたにもかかわらず、そのことに全く触れようとしない。
当たり前とすれば当たり前なのかもしれない。わざわざ気にして、自分に恐怖を煽るくらいならば、いっその事忘れてしまったほうがマシだと敬介は考えた。
それでも、敬介の中に疑念が膨らんでいく――本当に、“例の少年”はいるのだろうか。
休み時間になるたびに足を運んでくるくれは。そのくれはの話を聞きつつも、敬介は教室中をそれとなく見回し始めた。
くれはを見る視線。
敬介を見る視線。
時折、誰かと目が合うが、大したことはなさそうだった。くれはを注視していた訳ではなく、偶然一瞥を投げたところへ敬介の視線がぶつかってしまったに過ぎなかった。
さすがに、話している彼女の方を向かずにいるのも悪いと思い、顔を向けるとくれは楽しそうに目を細めるだけだった。
結局のところ、敬介にはわからなかった。“例の少年”が本当にいるのかなんて、これっぽっちもわからなかった。
そしてくれはは、今日もまたくだらない話をし始める。
日に日に寒さが増し、登校時にマフラーは必須のものとなってきた。小学生以来ずっと封印してきていた幼馴染との登下校が再開してから、早くも半月経った。相変わらず、よくこんなにも舌が回るものだと感心できてしまうほど、彼女ばかりが喋り続けている。
しかし、だからといって、敬介がただ何も考えずに、彼女の言葉を肴に黙々と歩を進めているわけではない。
女子はなぜ寒いにもかかわらずスカートを短く穿くのか。
くれはは宿題をちゃんとやっているのだろうか。
今日の放課後はどうしようか。
それなりに考えている。しかし、彼女がべらべらしゃべるものだから、それが本当に心地良いものだから、敬介は口の中で広がる言葉を吐き出さずに飲み込んだ。
それにしてもどうだろうか――くれはから護衛を頼んだにもかかわらず、彼女の口からその原因となる“美しいものに目がない少年”の話は出てこない。彼女自身視線を感じていて、わざとそれを口にしないのだろうか、とも考えては見たがどうもそんな感じではない。
ところどころで「おはよう」と挨拶が飛び交う。次第に増していく生徒に比例して、二学年の居座る三階の廊下も賑わいを見せてきていた。各々の話題が四方八方、思い思いに廊下を埋め尽くしていた。
そんな噛み合わない話題に囲まれ、敬介はぽつねんと女子トイレの前に立っていた。テレビ番組や漫画の話題にはいくつか食いつきたくなるが、今はお姫様の護衛を優先させなければならない。
こうして誰かを待つときほど退屈なときはない。学校でなければ携帯ゲーム機で暇な時間をやり過ごすことはできるのだが、生憎、今はその学校内だ。唯一の救いとも言えるのが、女子トイレを通り過ぎる男子生徒が毎度のように、一言からかい文句を入れてくることだった。その細めた目から、本気で思っているのかもわからない、羨ましい、という言葉に、交代しようか、なんていう冗談は出てこなかった。
しかし、今日に限って、救いの手はそのからかい文句だけではなかった。
興味のない噂話にまぎれて、それは雑音と共に敬介の耳に張り込んでくる。
「それって、くれはを狙っています、て言っているようなもんじゃない?」
「でしょ? どう思うとか、双葉敬介とどんな関係なのかとか。そんなのウチに聞かれてもわかるわけないじゃん、ねえ」
それだけで、今の今まで、存在すらあやふやだったその影が垣間見えた気がした。
面識のない女子二人の日常会話に、敬介は混ざろうとは思えなかった。気にならないわけではない。その証拠に、彼の耳は他の一切の音を遮断し、ガンマイクを取り付けたかのように二人の会話にだけ標準を当てている。
くれはを待つ振りを続け、敬介は二人の話を聞き続けていた。その話はこういうものだった。
敬介がここ最近くれはと一緒にいるところを見続け、どうにも居ても立っても居られなくなったある男子生徒が、隣の組の女子に話を聞いた。くれはのことについて。敬介との関係について。わからないと答えると、他をあたると言い残し、教室を出て行ったそうだ。
「へえ。じゃあ、その人が“例の少年”なわけね」
珍しく長文を喋った敬介に驚きもせず、くれははいつもの席に座り頬杖をつき微笑んだ。
「可能性の話だよ」
「じゃあ、確かめなきゃね、“彼”が“例の少年”かどうか」
一通の手紙を目の前でチラつかせ、不敵な笑みを浮かべるくれはに、敬介はただ唖然とすることしかできなかった。
放課後になっても霜の溶け切らない校舎裏で、“彼”は待っていた。今か今かと、安斉くれはが姿を現すのを待ち望んでいた。日陰ではやはり寒かっただろうか、と口から吐き出てくる白い息を見て、思わず両手をこすり合わせる。
「随分とベタな場所ね」
突然の声に顔を上げると、そこには後光と共に彼女が立っていた。煌く光に映える肌理の細やかな髪の毛が眩しい。吹きぬける風がそれを弄び、更にそのやわらかさが強調される。
「それで、話って何かな、加藤修吾くん?」
カーディガンの袖口を広げ、顔を傾けてくるくれはに、修吾はハッとする。
すると、くれははカーディガンのポケットから手紙を取り出した。
「手紙に名前書いてあったじゃん。まさか、匿名で差し出そうとしてたの?」
「い、いや、そんなわけじゃ……」
不覚にも、少し怪訝そうな表情を見せるくれはにドキッとしてしまう。その上、意地悪そうな笑みを浮かべ始めるものだから、修吾は固唾を呑まずにはいられなかった。
「そ、率直に言うと……安斉さんが、好きです」
「うん、そうだろうと思った」
はにかんだ様に後方に顔を向けるくれはが、再びこちらに視線を戻すのを修吾は待った。
突然の溜息が、彼女の視線を曇らせたかと思うと、彼女は再びこちらを向き微笑んだ。
「ごめんね。好きになってくれたのはうれしいけど、あたし、加藤くんのこと何も知らないから」
駄目もとだとは思っていた。それでも、少しの期待があってもいいじゃないか。
うな垂れる修吾に、くれはは続けた。
「ねえ、加藤くん。あたしのことや、双葉敬介のことを嗅ぎ回っていたのはあなたなの?」
「仕方ないじゃん。双葉と安斉さん、最近ずっと一緒にいるんだもん」
「あいつは――ケイは、ただの幼馴染よ。それじゃあさ、最後にもう一つ質問。加藤くんは、あたしのこと綺麗だと思う? それとも、可愛いと思う?」
意味の成さない言葉が口をつくばかりで、修吾はその質問に戸惑うことしかできなかった。どちらか片方ならば真っ先に頷ける。しかし、二択で来られると頷いたところで、それがどちらをさしているのか、相手に伝わらないし、自分ですらよくわからない。
「き、綺麗でもあるし、可愛いとも、思い、ます」
赤面する彼に、くれははにこりと笑みを浮かべ、そっと手を差し出した。
「そっ、ありがと。じゃあ、これからよろしくね、友達として」
最後の一言が妬ましくも思ったが、修吾は彼女の差し出す手に自分の手を重ねた。本当はずっと握っていたいが、彼女の機嫌を損ねてしまうとかいう以前に、自分の鼓動を抑えることができなくなってしまった。
その場に背を向け去って行く彼女が、やはり美しいと思った加藤修吾は、白だった。
ふわりふわりと雪が舞い降る。中学二年生の半ばだらけた生活も残すところあと十数週間となっていた。来年は受験ということもあり、進路指導も絡み始めてきて、ある程度の生徒たちが少しずつ身を引き締めていく。加藤修吾はどうやらその類の生徒だったようで、約束をしていないにもかかわらず、毎日のように敬介とくれはの前に現れていたが、その数も次第に減っていった。
「今日、帰りに公園寄ってかない?」
「別にいいけど。なんで?」
「ほら、雪降ってるから、遊べるかなと思って」
敬介とくれはの関係は相変わらずだった。毎日一緒にいて、休みの日にも一緒にどこかへ出かける。隣に居るのが当たり前と思えた。
ただ、それ以上の進展はなかった。
加藤修吾に告白を受けたとき、陰に隠れていた敬介の方を、確かにくれはは振り向いた。その表情は、どこか寂しげで、どこか悲しげで。
それでも、敬介はそのことについて言及できなかった。そのことについて何も語らないくれはの話を、いつものように聞くことしかできなかったのだ。
しかし、あれ以来彼女のあの表情を見ることはなかった。今となっては、あの表情に大した意味はないのだと考えるようになっていた。
太陽の沈みが早くなったせいか、この時期になると時間が早く感じてしまう。なんともない約束通り、その日の放課後にくれはに連れられて、敬介は公園へとやってきた。
雨交じりの雪は気持ち悪いくらいにべとべととしていて、とても遊ぼうと思えるものではなかった。それでも、前を行くくれはは公園の真ん中へと駆けていく。いつもなら、さらりと肌理細かな髪をおろしているのに、今日だけはポニーテールにしていた。
クラス中でも似合っているとの声で賑わいを見せていたが、その後姿に、敬介もそっとその通りだと思った。
「ケイ、雪合戦しよ!」
ちょいちょいと手を招く彼女に、敬介は睨みを利かせた。辺り一面を見渡しても、大して雪は積もっていない。それどころか、ところどころに水溜りがあり、足元はすでに泥だらけだ。
「これじゃあ、“泥”合戦に――」
不意にぶつけられた塊に冷やりとしたが、どうやら泥は混じっていなかったようだ。などと安堵するわけもなく、敬介も対抗しようと残り少ない雪をかき集める。しかし、その間も彼女の攻撃が襲ってきた。
ようやく完成した小さな塊を握り締め、彼女の方を向く。
意地悪そうな顔をする敬介に笑いながらまた一つ塊をぶつけるくれは。
そんなものに怯むこともなく、敬介は目一杯振りかぶった。
そんなときに、突然あの表情を見せるものだから。ちらりとしか見えなかったあの表情が、今度ははっきりと見えてしまったものだから。
敬介はその手を下ろすことしかできなかった。
「どうして――」
口を開きかけた瞬間、引っかかった、と笑みを零すついでに彼女はもう一つ塊をぶつける。
結局、敬介は塊を投げ返すことはできず、仕返しに彼女を追いかけることとなった。しかし、性格も運動神経もスポーティーな彼女を捕まえることはできず、冷たい雪水に奪われた足が、彼を地面へと誘う。
「あははっ、大丈夫? ほら――立って」
差し出された手に支えられ、立ち上がった敬介の前面は泥にまみれていた。徐々に染み込んでいく冷水が体を震わせる。
苦笑を浮かべてくれはの方を向くと、彼女は優しく包み込むように微笑みかけてくれた。
「今まで、ごめんね」
幼馴染であり、友達でもある。幼馴染なのだから、友達なのか。そんなことはどうでも良かった。くれはとの関係にそれ以上はない。
ただ、毎日を同じように、一緒に過ごしてきた日々を、壊そうとしたのは彼女だった。今の関係を崩そうとしているのは、彼女だった。
いつだってそうだ。敬介は気づくのが遅かった。
彼女の微笑にも、あの表情の意味にも。本当は、彼女の口からではなく、自分の口から彼女に聞かせるべきだったのに、今はただ、彼女の唇を見つめることしかできなかった。
「これからも迷惑をかけるかもだけど……付き合ってくれないかな」
泥だらけのコートの裾から一つの滴が零れ落ちる。歪んだ円が地面にはじかれ崩れる音も聞こえないまま、ぽつねんと立ち尽くした。
そして、雨粒に混じれた降雪はポツリと公園に注がれる。
「うん、わかった……それじゃあ、帰ろっか」
小さく頷き、切り出した彼女が手を差し出す。
いつ以来だろうか、幼馴染のくれはと手を繋ぐなんて。思ったよりも小さく、そしてやわらかい。
重ねた手を離さないように、二人は公園を後にした。
◇ ◇ ◇
昨日の夜、くれはの家から敬介の家に一本の電話がかかってきた。不安そうなおばさんの声が、今日になっても敬介の耳に響いていた。
「また敬ちゃんと遊んでるんだと思ったけど、うちのくれは、そっちにいない? こんな時間になっても、帰ってきていないのよ」
昨日まで確かに一緒にいたくれは。
クラスの中で、綺麗な女子と聞かれたら誰もが思い浮かべるくれは。
その煌くようなロングヘアーがお高く見せているが、決してそんなことはなく、寧ろ自身から明るく接してくれるくれは。
敬介の幼馴染であるくれは。
そんな安斉くれはが、失踪した。
一緒に登校しようと、くれはの家を訪ねてみるものの、彼女はまだ帰っておらず、顔を見せたおばさんはひどくやつれていた。ひょっこりと中途登校でもしてくるのではないかとも考えていたが、結局、くれはは学校にも姿を見せなかった。
―― 一体どこに行っちゃったんだ。
口から白い霧を吐き出し、敬介は暗闇に包まれた路地を見渡した。思い入れのある場所はすべて探した。それだというのに見つからない。悴んだ指先に息を吹きかけ、不安と焦
燥に波打つ動悸を抑えようとするが、まったく効果がない。
放課後になり、もう一度くれはの家に立ち寄ってみたが、おばさんの腫れた目元を確認するだけに終わってしまった。
寒さも一段と増していく中、当てもなく敬介はその歩を進めることしかできなかった。
毎日一緒にいて、片時も離れることのなかった日々を振り返る。始まりは、どうでもいい些細な相談事だったっけ。
この数ヶ月が、脆く崩れ去り、ひらりと舞い落ちる一枚の枯葉が土に返るように、儚くも消え去ってしまう。
―― 一体どこに行っちゃったんだ。
幾度となく叫ぼうと、くれはからの返事は聞こえない。目に映る白い息を掻き分けようとも、暗闇の中を駆け抜けようとも、彼女を見つけることはできなかった。
不安ばかり募らせても仕方がない。敬介は、何か連絡が入っているかもしれない、と再びくれはの家にその歩を進めた。
暗い。果てしなく暗い、黒闇の空間。そこに一筋の光を差し込む。自分の足から光に沿って影が伸びた。
見覚えのある影。誰の影だろうか。
光の扇を広げていき、辺りを見通す。不安と高揚。静寂と躍動。二つの感情が一つの体を駆け巡る。
いつだってそうだ。敬介は気づくのが遅かった。
どこか、知っているような気もするけど、知らない気もする、無意識のうちに辿り着いてしまった場所。本当に自分の足でここまで来たのか、他の誰かに連れられてきたのか。敬介には、どうして自分がここに居るのかがわからなかった。
くれはの家に向かっていたはずなのに、いつの間にか着いてしまった何もない閉鎖空間。微かだが、上方で電車の走る音だけが聞こえる。線路のしただろうか。
しかし、そんなことはどうでもいい。
くれはが見つかったのだ。綺麗で美しいくれはが見つかったのだ。
いつだってそうだった。敬介は気づくのが遅い。
「ねえ、敬介。俺は、あの時、くれはになんて答えたのかな?」
「さあ。でも、敬介くんは、“イエス”とは言わなかったよね」
それだというのに、敬介は彼女のすべてを手に入れた。
その瞳も。その髪も。唇から流れる一筋の赤色も。小さく柔らかい手も。スカートから伸びる雪のように白い脚も。
すべてを手に入れたかったんだ――彼女の命も。
「見てごらん――」
小さく震わせる唇。その唇が弧を描いているのだと、微かにわかる。
「美しいと思わないか、敬介くん」
か弱く座り込む彼女が、やはり美しいと思った双葉敬介は、黒だった。
【完】