最後の決断
国王陛下の命令は──絶対だ。
それは、王国で生きる以上、そして騎士として在る以上、当然のことだった。
疑う余地はない。反論の余地もない。
国王が下した判断を疑うことは、不敬以外の何物でもなかった。
だが、そうだろうか。
たったひとりの少女を、"人類の希望"と呼んでおきながら
用済みとなれば始末しろなどと、それが本当に正しい判断だろうか。
彼女は混血児だ。
そして我々には扱えない魔法を操ることができる。
しかし、彼女は裏切っていない。いつだって裏切ることができたというのに。
彼女に反旗を翻された場合、自分達に勝ち目はないというのに。
「……ゆっくりで構わない。今後のことを考えてみてほしい」
ルクリアは分かりやすく困惑の色を浮かべたままだ。
「……なに、どういうこと? ねぇ、もしかして逃げるの? ここまで来て?」
「いいや、逃げない。魔王の討伐は果たすべきだ」
「それなら……」
それなら。
そうだとしたら。
討伐の後、自分が死んでいなければ彼が咎められるのではないだろうか。
ルクリアとしては、それが不安でならなかった。
約三年。旅の間、ずっと共に過ごしてきて、とても楽しかった。
恐ろしいことも怖いことも、そして危ないこともあったが、それでも彼と過ごせて良かったと感じている。
親しくなる前に散ってしまった仲間たちもいる旅路を、"楽しい"などと言っては誤解されるかもしれない。
そうだとしても、ルクリアにとっては人生の中で唯一誰かに存在を許され、認められた期間でもあった。
ルクリアの困惑をよそに、シャインは言う。
「君は死ぬな。死ななくていい。だから、生き抜くために私と共に戦ってくれないか」
「……なにそれ」
「生き苦しくとも、息苦しくとも、君は今まで人々のために頑張ってきたじゃないか。生きてくれ」
シャインの真剣な眼差しを受けて、ルクリアは肩を竦めた。
全くもって、真面目で正義感の強い男だ。
世間的な勇者としての人物像そのものだと言えそうなシャインの真摯さに、ルクリアはとうとう笑った。
「別に頑張ってきたわけじゃないけど。……でも、いいの? 命令なんでしょ?」
「ああ。そうだ。だが、私は出立前に陛下と約していることがある」
「ふーん? 約束?」
相変わらず真剣な眼差しを向けてくるシャインに対して、ルクリアは少し笑いそうになってしまう。
こんなにも真剣に、本気で、他人のことを考えているだなんて馬鹿ではないだろうかと。
自分の立場が危うくなるかもしれないというのに、それでも他人のことを考えてしまう。そんな人だ。
だから、居心地が良かった。だから、役に立ちたくなってしまった。
それまで含めて人間側の作戦なのだと言うのであれば、その罠であれば掛かっても良いと思えるほどだ。
「無事に討伐を果たした暁には、望むものを全て下賜してくださるそうだ」
「へえ、太っ腹だね」
「出立の折、私は望むなどないと思っていた。もし叶うのであれば、私は君を授かろうと思う」
「……へえ? またトンチみたいなことを言うね」
生真面目な彼にしては珍しい言い分だ。
そう思いながら話を聞いているルクリアは、何となく楽しくなってきていた。
死の前夜に交わす言葉にしては、馬鹿げているほど未来の話をしている。
魔王と対峙して死ぬかもしれないというのに。
魔王討伐を叶ったとしても、殺されるかもしれないというのに。
そのような恐れを無視した気軽な会話にすら思えた。
「単なる屁理屈だ。それに私は、"無事に帰還せよ"とは言われていない」
「……うん?」
「魔王討伐は果たす。それが、我々人類の悲願だ。その上で、私は君と共に行こう。そうすれば、故郷の家族も英雄の身内でいられるだろう。陛下も悪いようにはなさらない」
「え、ちょっと待ってよ」
唐突な話についていけなくなったルクリアが眉を寄せると、シャインは小さく笑った。
そんな顔をしている彼女が珍しかったからだ。
いつも笑っていて、皮肉げにしていて、軽薄そうにしていて、時折ふと見せる少女らしい笑顔ともまた違う。
きっと誰も、恐ろしい"魔法使い"がこのような表情を浮かべることなど知りもしないだろう。
「いいや、もう決断した。私は君と共に在る。我々が共に帰らなければ、相討ちだと判断されるに違いない。それでいて魔王の討伐さえ果たしていれば、深追いもされはしないだろう」
「で、でもさ!」
吹っ切れた様子で言い放つシャインに対して、ルクリアは焚火を避けて身を乗り出した。
「シャインはいいの? それで。もう国に戻れないんだよ。家族にだって会えないし、友達とか、なんか、ほら、地位とか、そういうの全部捨てちゃうことになるんだよ」
「良くはない」
「でしょ?」
「だが、もう決めたことだ。もとより、君を殺して得た平和のもとでのうのうと生きていけるとは思えない。それに、少女を犠牲にしてきた手で、家族と抱擁もできない。顔向けできない人生を歩むつもりはない」
そうだった。彼はこういう人だった。
戦場で倒れた仲間に肩を貸して、もう死ぬだろう仲間の最期の声を聞き届けるような、そんな人だ。
自分の首を持ち帰れ──などと言っておきながら、今更になってルクリアは思い出していた。
そうやって国に戻って賛美されたところで、彼は決してそれらを受け入れないだろう。
清廉潔白とでも言うべきか。期待された忠義を尽くした上で、別の決断を果たしたということだ。
ルクリアは、少しばかり呆れた気持ちになった。
「……もう、騎士じゃなくなっちゃうんだよ」
「構わない。剣術を教えて生きていくこともできる。そうでなければ、農業でもしよう。狩猟でも構わない。自給自足も悪くないだろう」
「……本気で言ってる?」
「私は冗談が得意な性質ではないな」
「うん、まあ、そうだね」
やはり本気なのだと分かれば、呆れついでに笑ってしまった。
「ねぇ、シャイン。私の夢はね、自由に生きることなんだ。混血がどうのとか、そういうの、言われたくないの」
「言わせはしないとも。私が君を守ろう」
「……それってさ、プロポーズみたいなんだけど」
「生涯をかけて誓うのであれば、同じことだ」
ますますもって呆れを深めたルクリアは、とうとう声を上げて笑った。
それでも、シャインの真剣な眼差しはぶれない。
ああ、そんな目で見ないでほしい。こちらが恥ずかしくなってしまう──ひとしきり笑ったあと、ルクリアは軽く首を振った。
「あー、あははっ、うん、ごめん……そんな話になるとか、思わなくてさ……」
「そうだろうとも。私とて、数分前までは思っていなかった」
「あのさ、決断がさ、早すぎるっていうか……」
「ああ。これは私の決断だ。君はゆっくりと考えてくれて構わない」
朝まで、まだ時間はある──囁くようにそう告げたシャインを前にして、ルクリアは乗り出していた姿勢を戻した。
無茶苦茶だ。そんなの。
魔王を倒して、その上で生きて逃れるだなんて。
そして、ふたりで生きていくだなんて。
ぺたんと尻をつけて座り直したルクリアは、はーっと息を吐いて空を見上げた。
不気味なほどに静まり返った森の中、それでも空はどこで見ても同じようなものだ。
どことでも繋がっている。どこまでも広がっていて、昨日見た空と変わらない。
「ねぇ、私が裏切ったらどうするの」
「君は裏切らない」
「どうしてそう思うの?」
「裏切るのであれば、既にそうしているだろう。いくらでも機会はあった。それを逃すような君ではない」
シャインは緩やかに首を振り、彼女が示した可能性など最初からなかったのだと告げる。
やはり馬鹿みたいだ──と、ルクリアは肩から力を抜いた。
裏切る可能性はある。自分は半分魔族だから。疑われるには十分なはずだ。
機会ならあった。これからだって、いくらでも機会はあるだろう。魔王の前で、寝返るかもしれないというのに。
今までそうしなかったというだけで、これからもそうしないという理由にはならないというのに。
「……シャインって、本当に馬鹿なんだと思う」
「よく言われた。正直者は善だが、馬鹿正直は愚かだと」
「……そこまでは言ってないけどさ」
小さくなってしまった焚火に枝を入れ直し始めたシャインの様子は、ルクリアから見ても普段通りだった。
戻ってきた時の方が、よほど思いつめた顔をしていたほどだ。
「例え君が裏切ったとしても、それは私の責任でしかない。私は私の決断に責任を持つだけだ」
そう言い切ったシャインを見つめたまま、ルクリアは肩を揺らして笑った。
そのように言われては、そう真っ直ぐに信じられては、冗談のひとつも言えはしない。
「だから、君は君の思う道でいい。私も私の思う道を行く」
それが国王陛下の意思に背くとしても。
国を裏切ることになったとしても。
それでも、自分自身の生きざまを偽るよりは余程良い。
「君のことは私が守り抜く。だから君は、その力で魔王を討ち取ってくれないか」
「……言われなくても、分かってるよ」
「そうか。それならいい。これが、"魔法使い"としての最後の仕事になるはずだ」
真剣な表情を少し和らげたシャインは、目を細めて柔らかく微笑んだ。
魔王討伐さえ終われば、彼女はもう"魔法使い"と呼ばれることはない。
呼ばれる必要がないように、他人の"希望"など背負わなくとも良いように。
「任せてよ。頑張るから」
笑ったルクリアは、毛布を被り直して寝転がった。
目を閉じて、少し眠れば朝が来るだろう。その朝は、思いつめていたほど重いものにはならないはずだ。
眠って起きて朝になって、そして夜になる。それが許されるのであれば。
やがて空の端に夜の色が追いやられ、直に朝がやってくる。
石造りの城を目指して朝霧の中を駆け抜け、門扉を打ち破り、朝焼けの中で煌めく長剣を振るいながら目指す先。果たして魔族の王と相見えたか。そして、討ち果たすことは成功したのか。ことの顛末は、ただふたり。騎士と魔法使いだけが知ることで──。