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砲声夜話

作者: 一の瀬光

 南方戦線。一九四四年、夜半。

 激しい砲弾の雨の中。


「ここだ! ここがあいてるぞ! 早くとびこめ! 早く!」

 いくつかの影がタコツボと呼ばれる穴にとびこんだ。

「いるか、みんな! 一、二……え? これだけか? 三人しかいねえじゃねえか!」

「全滅なんじゃない?」

「全滅? まっさかあ。他にかくれたのさ」

「他ってどこだ! どの穴だ!」

 どなり続ける日本兵と肩をすくめる日本兵、そのやりとりをおどおどした仕草で見つめる日本兵。三人とも同じ階級章をつけている。

「やれやれ本気の艦砲射撃だな。上陸してくるぞ、これは」

 そこへ夜空を引き裂く青い火柱。

「うわっ、まぶしい!」

「まずいな、どこかのタコツボへ直撃したんだ! お、おいおい、壁がやべえぞ!」

 かなりきつい振動で土くれがバラバラと三人の男の上へ崩れ落ちた。

「ぺっ、ぺっ。ひどいよ、口の中がジャリジャリだよお」

「征露丸だと思えばがまんできるだろう、ヒビちゃん? 乾季だから助かったよな。雨季なら今頃は泥のコーヒーで溺れてるとこだよ」

「コー、だと! きさま、敵性用語を使ったな、おい柳田!」

「けっ、てやんでえ! コーヒーぐらい、とっくにもう日本語だぜ、両津のだんな。これだから田舎もんは」

「ふふん、そんな生意気な口をきけるのも今夜かぎりだぞ? 吾輩はな、来週には上等兵さまだ」

「あ、てめえ! そんで最近やたらに司令部あたりをうろうろしてやがったのか!」

「学徒組は昇進がむつかしいのに、すごいですね両津さん」

「ふん、日比野、よく聞いとけよ。軍隊さまも実力社会だ。実績次第で評価されるっつうの」

「実績といったって、両津さんだってほとんど実戦経験ないじゃないですか」

「ヒビちゃんヒビちゃん、こいつがいう実力ってのはおべっかの力量ってことだよ」

「なんだと柳田! うぬ、どうするか!」

「や、やめてよ二人とも。こんな時に」

「ヒビちゃんは知らないだろう? でもね、おれは知ってるんだ。先週うちの班の二人が重営倉入りになっただろう? その日の朝にこのダンナは司令部に足を運んでちょいとご注進におよんだというわけさ。壁に耳あり、ってな」

「き、斬るぞ、きさまあ!」

「しっ! 誰かいるよ! ねえ」

 確かに三人のタコツボの上で人の気配がした。三人は身構えた。

「第三分隊おるかあ!」

 聞き覚えのある声だった。

「みんなそのままで聞け! 敵上陸の気配濃厚により各自持ち場を死守するべし! 命令あるまで退転は許さず、以上! わかったな」

 柳田が穴の上にひょっこり顔を出したみると命令している男の姿が見えた」

「おお、隊長どのだ。班長どのもいるぞ」

 その班長がこちらへ向かってくるので柳田は穴の中に降りて歩兵銃を手に取った。他の二人はすでに直立不動の姿勢だった。

「どうだ? ここは何名おるか!」

 班長は勢いよく穴の上からどなったが、穴を一瞥するとチッと舌うちしただけで他のタコツボへ走っていってしまった。

「は、班長どの! 両津はここです、ここにおります! 班長どのお!」

 柳田は穴の壁にもたれかかり、笑った。

「なあんだ両津のダンナ、あんた班長に嫌われてんのか? お声もかけていただけないとはおぼえがめでたいぜ、ヒヒヒヒ」

「ばかやろう! 嫌われとるのはお前だ! 班長どのはお前がアカだと先刻ご承知だからな」

「なにい? てめえ、そんなデタラメをやつに吹き込んだのか!」

「もうやめてよ、二人とも。ここを動くなって命令だよ。協力しないでどうするのさ?」

 両津は口をへの字にしたまま腰をおろした。穴の上からは着弾音を散発的に聞こえてくる。

「敵さん、他の海岸へ照準をずらしたみたいだな。こっちへは上陸してこないのかな?」

「はっ! なにを気弱なことを言っとるか。我々は上陸してくる敵兵を片っ端から八つ裂きにすればいいのだ!」

「だいぶ威勢がいいけど、おたくの顔色あんまりよくないようよ?」

「なんだとお! おい柳田、こんな暗い穴の中で吾輩の顔色など見えるもの…か…、あれ? なんでこんなによく見えるんだ?」

「うわわわ! 何あれ! あわわわ」

「どうしたヒビちゃん!」

「あ、あれだよ柳田君、あそこ光ってるよ。ああ、こっちへ来る!」

 いつの間にか穴の上に顔を出していた日比野が指さす方向へ両津と柳田はすばやくよじ登った。

 遠くに青い光の群れがいくつかかたまっていたが、なぜか柳田はホッとした顔つきになって穴の中へ戻った。

「おどろかなくてもいいよ、ヒビちゃん。あれはいつもの林光なんだ」

「りんこう? ああ、林光。バナナの木が夜に光るっている、あれ?」

「そう」

「何がバナナか、あれはヤシの木であるぞ」

「知ったかぶりするな両津。何の木が光るのか誰も知っちゃいないんだ」

「きさまあ、帝大出というのを鼻にかけ、どこまでも愚弄するか!」

「そうじゃない。ぼくだって理学生徒のはしくれだ、自然現象についていいかげんなことを言いたくないだけだよ。ほんとだ」

 両津は歩兵銃を構えたまま柳田をにらんでいたが、もう何も言わなかった。そこへ日比野が大声で言った。

「ちょっと! あの光がこっちへ近寄ってきてるよ! 柳田君、見てよ!」

 両津のおこりっぽい視線は日比野に移った。

「ええい、腰抜けめ! 森が動いたとでも言いたいのか! それとも敵兵が偽装してるとでも思ったか! ばかか、敵がわざわざ目立つことをするもんか!」

 柳田がにやりとした。

「威勢がいいな、両津。どうだ、ひとつ

度胸だめしでもやってみるかい、ダンナ?」

 両津は怒りを目にこめてふりかえった。

「百物語、知ってるだろ? なあに、あの林光がなんだかロウソクに思えてさ、百物語を思い出したのさ」

「ヒャク、なんだ? 知らんぞ」

「ああ、ぼくはわかるよ柳田君。ほんとに百本もロウソクともしたことはないけど」

「ロウソク? 何の話だ!」

「わかった、説明するよ。でも、ぼくなんかよりヒビちゃんの方が適任か。なんてったって全国弁論大会の入賞者だものね」

 日比野は顔を真っ赤にしたが暗い穴の中では誰も気づきはしなかった。

「う、うん。じゃあ、ぼくから。両津さん、百物語は昔からある簡単な遊びですよ。会場にロウソクを百本ともして参加者が順番に話をして、話が一つ終わるごとにロウソクを一本消していくんです」

「それのどこが肝試しなんだ」

「もちろん怪談めいた話をするんです」

「だから話くらいで肝試しなぞにはならんと言っている! 九州男児をバカにするな!」

「いえ、その、怖いのは話が終わった後なんで、そこにある百本のロウソクが消えると同時に怪異が現れる。そこなんです」

「なにをバカげた! 子供のやるコックリさんと大差ないぞ。思ったとおり児戯のたぐいじゃ。おんしら軟弱もんには肝試しでも吾輩にとっては……うわっ!」

 不意な爆発音に三人はしゃがみこんだ。久しぶりに近くに砲弾が落ちたのだ。柳田が口を開いた。

「ほれみろ、あんただって怖いんだ。怒るなよ。おれだって弾は怖いさ、誰だって怖い。

だからさ、度胸試しにはもってこいの場だろう? それとも怖いからやめとく?」

「しょ、笑止! やりたいならやれ。つきあってやる。バケモノでも何でも呼んでみろ!」

「そうこなっくちゃ」

「待て!」

「やめる?」

「そうじゃない! おれは初めてだ、どんな話をすればいいのか見当がつかん」

「なるほど。じゃあぼくが始めるよ」

 柳田の第一の話は5分も続いただろうか、それは戦国時代の話だった。人が死ぬ直前にその場に怪しげな葬式の列がどこからともなく現れ、そしてかき消えるという死の前兆を語るものだった。

「そ、それで終わりか? なあんだ、口ほどにもない。どこが恐ろしいのか、はは」

「しっ、誰かいる。話し声がする」

 穴の外に誰かいた。それも大勢いるようだった。それらは両津たち三人のタコツボを取り囲むようにしてざわめいている。

「敵か!」

 両津の歩兵銃を抑えて柳田が言う。

「いや、日本語だな。ちょっとのぞいてみよう」

 両津も頭を出し目をこすってよく見たが、それは友軍の姿だった。敵上陸の待機に飽きて各々のタコツボから出て手足を伸ばしているようだ。

「おどかすなバカもの! さっさと持ち場に戻りやがれ! おい、聞こえんのか!」

 両津の大声にも応えず、彼らはぞろぞろと両津たちのタコツボに陰気に集まってきては肩を落としてため息をつくとまた戻って行った。何度も繰り返されるその動きはまるで葬列のようだな、と両津は思ってしまった。

「葬式なもんか、ちくしょう縁起の悪い!」

 そんな思いを柳田と日比野に悟られまいと両津はポケットにタバコをさぐった。だがどうしてもタバコがみつからなかった。

 そのとき閃光が走った。

 至近弾だった。その爆発光の中でいくつかの人影が宙を舞うのを見たように両津は思った。急いで穴の中をふりかえるとあとの二人はやけに落ち着いてすわっている。

「人は死んだら、ねえ、その後はどうなるんだと思います……」

 それは日比野の声だった。いつものあどけなさは微塵もなく、その声には生気がまるで感じられなかった。そうか、次の話を始めたんだなと両津は感じて自分も穴の中にすわりなおした。

「死は永遠の休息たりえるのだろうか。この問いにジャン・ジャック・ルソーはこう答えています。

『いったん葬られたその墓場から這い出してきて生者の生き血を吸う邪悪な死体、すなはち吸血鬼がいる。もし、この世に是認され照明された確たる歴史があるとしたら、それこそは吸血鬼の歴史である。なぜなら吸血鬼の事例は著名人や外科医や聖職者や裁判官の公式の報告書や証明書には必ず載っているし、司法上の証拠もすべてそろっているのだから』

 ですからぼくもこれからその話をしたいと……」

「ちょっと待て、待たんか!」

 両津がさえぎった。

「ルソーって、あの有名なルソーか? おい、ほんとにルソーがそんなこと言ってるのか!」

 おびえた顔つきに戻った日比野はやっとの思いで返答する。

「そ、そうですよ……でたらめなんかじゃないので……」

「ほお、まさか両津のダンナが」

 今度は柳田がさえぎった。

「あの気高きルソー氏をご存知とはおそれいったなあ」

「人を馬鹿にするなあ! 吾輩はフランス文学専攻だぞ!」

 柳田と日比野は驚いたように口をあけた。

「それに日本の話じゃないじゃないか! それでいいのか? 百物語なんだろ、え?」

 驚きの表情から一転して柳田は余裕の笑みを浮かべつつこう言った。

「両津先生、ご指摘ではありますが、話の内容は洋の東西古今を問いません。それとは百物語にはもうひとつ決まりがありまして」

「なんだ!」

「語り手が話しているあいだに他の者が口をはさむのはご法度なのです」

 両津はムッと口を閉じた。

「にしてもさ、両津のダンナの肩持つわけじゃないけど百物語にフランスの話はたしかにめずらしいよね。おもしろい、続けてよ」

 日比野は落ち着きを取り戻し話し始める。

「その、両津さんには釈迦に説法だろうけど、ルソーと言えば啓蒙主義の時代ですよね」

 ふん、と両津は鼻をならした。

「でも実際に吸血鬼の話題はこの十八世紀が一番多かったんだよ」

 両津はかっと目を見開き中腰になったが、すぐに座りなおして横を向いた。

「ほんとなんですよ。たとえばベルグラード裁判所の検査官報にはこんなことが書いてあるんです。

 曰くですね、ある兵士の報告を受けてカブレラス伯爵は裁判所の役人二人を同行してその村へ行った。その報告とは、兵士が村の農家の夕食に招かれたところ、不意にひとりの男が無理矢理入ってきて同席した。ずいぶん無礼だと兵士は感じたが誰も何も言わないので黙って食事を続けた。ところがふと顔を上げてみると家族全員がすさまじい恐怖の色をうかべて凍りついたようだった。

 と、翌日その農家の主人が死んだ。兵士が家人に問いただすと

『実は昨夜のあの客は十年前に死んだ祖父でして、それでその……今は吸血鬼になっているんです』

と泣き崩れた、とまあこれが報告でした。

 さて、例の伯爵と役人たちは村に着くやいなや問答無用で老人の墓をあばき、その頬を桃色に輝かし、皮膚もツルツル、口にはべったりと鮮血を付けていた奴の血管を切り裂いた。ほとばしる血潮の中、伯爵たちはその老人の体をバラバラに切断したところで処理完了とした。

 ところが農民たちは伯爵の無知をなじり、吸血鬼は身体が完全に絶滅しないかぎり血を吸い続けるとか、この村には他にまだまだ吸血鬼がいるので何とかしてくれとか文句ばかり並べるのだった。

 自分たちの手に余った伯爵たちはこの件を正式に宮廷に報告。するとときの皇帝陛下は気も狂わんばかりに興奮して直ちに委員会を設置して大人数の調査団を組織してその村へ派遣しケリをつけた。まさに吸血鬼の時代ですね。

 こんな時代の中で最も有名なのが哀れなパウルのお話しです。

 トルコとセルビアの国境メドレイガにアルノルド・パウルという善良な男をいて、彼は土地の吸血鬼に何十回も殺されそうになっていてその都度役人に助けを請うが何もしてくれはしなかった。

 そんな折、歩き回る死者を墓の中で黙らせておく唯一の手段はそやつの墓の土を食うことだと誰かに教えられたパウルはさっそく墓にとんでいき地面にかぶりつこうとしたときに不運にも荷車にひかれて死んでしまった。

 さあ大変。その夜からパウルは大吸血鬼になった。パウルをバカにし続けた町の役人どもは片っ端からパウルに食い殺され手下にされ、町中の人間がその命を狙われる大事件となっていった。

 ついに四十日目、パウルの墓はあばかれ、その検視報告書によると、パウルの血は血管の中でブクブクと沸騰するかのように泡立ち、全身は血みどろだったとか。驚いた執行官はすぐさまパウルの心臓を突き刺し、おそろしい叫び声をあげるパウルを炎の中に突き落とし灰になるまで焼いて処分した。これらすべては一七三〇年のヨーロッパの官報に記載された事実なんですよね……」

「おーい、埋まってるぞお!」

 頭の上からだしぬけに知らない声が怒鳴ったので三人ともビクリとして身を縮めた。

「さっきの一発でやられたな」

「完全に埋まってるぞ。確かに誰かいたのか?」

「わからん」

「いや、二人いましたよ。いや、三人だったかも。でも誰かはおりました」

「じゃあ早く掘ってやらんと」

「でもどうやって?」

「工兵隊を呼べよ」

「コラーッ! きさまら持ち場を離れるんじゃない! 戻らんかあ!」

 この声をきっかけに頭の上の声はどこかへ散っていった。

 いぶかしげに顔を見合わせた三人がタコツボの上へよじ登ってみると、兵士たちの影が夜を走っていた。両津にはその姿がむさぼるための獲物をさがす吸血鬼のように思えてしまい、そんな考えを振るい落とすようにブルブルッと頭を左右に振った。

「さ、ダンナの番だよ」

 柳田の声に両津は振り向いた。

「吾輩は……」

「むつかしく考えなさんな。受け狙いの話じゃないんだ。ま、一番いいのは故郷に伝わる話だね、それなら誰かの話題とかちあわずにすむし、どんな話でもいいんだ」

 両津は腕組みしていたが、ふんと鼻をならしてから始めた。

「おんしらでも西郷どんは知っちょろうが。

だがこれは土地の者しか知らん話ばい。そもそも西郷どんというお方はのう」

 柳田がさえぎるように片手を伸ばした。

「あんまり長いのは困るよ、百やるんだからね。どんな類の話になるのかな?」

「西郷どんは世間で思われてるような力ずくのお方ではなく頭を使う策士ぞっちゅう話じゃわい! 酒の席で大殿さまから杯で謎をかけられ、つまり薩摩の海を飲み干せるかと聞かれたときもあわてもせず、そげんなこと容易にできもうすがその邪魔にならんために大殿さまにはまず川内川の水をご愛馬の手綱にて御留おかれたい。海の水に川の水がまじってはまずうござるから、と見事とんちで切り返して知恵者と認めさせた話じゃ、文句あるのか!」

 柳田は待ってましたとばかりに手をたたき腹をかかえて笑った。さすがに大声をあげるのはだけはおさえていたが、

「自分でトンチって言っちゃってるし、クク」

と小声で言い、日比野も上品に口にあてた手で笑いをもらさないようにしていた。

 両津は憤然として仁王立ちになった。

「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう! もう我慢ならん! おい、聞け! これならどうだ、バラの幽霊の話だぞ!」

 笑い転げる柳田もちょっと不意をつかれたような顔になって、

「え? バラ? バラって花の薔薇?」

とたずねた。

「……いかにも。咲き誇るバラだ」

 両津がとても静かな声でこたえたので、思わず顔を見合わせたあとの二人はその場に座りなおした。

「まずは……いいか貴様ら、吾輩のおじきはな、カソリック教会の神父だ。だがこれは絶対に他言するなよ」

 急に何かおごそかな空気がその場を支配しだした。

「おれが八つか九つのときだ。おじきが、

『なあ、宝物を見せてあげようか』

と言って、おれを教会へ連れていった。教会へは何度か行ったことがあったが、その日はおれがそれまであるのも知らなかった地下室へ通されたので鮮明に覚えている。そこでおじきは大きなビンを見せてくれた。そうさな、両手でやっと抱きかかえられるでっかい透明なガラスビンだ。そしてその中には花が一輪、それはみごとに咲いていた。その中に何か液体が入っていたのかいないのか、それはよく思い出せないんだが、あのバラの真っ赤な色は今でも目の前にあるみたいに覚えているよ」

 両津はふうと息をはくと少し目をつぶったようだった。

「だが子どものおれにとっちゃあ宝物というほどのものでもないんで正直がっかりしたものさ。そんなおれの落胆に気づかず、おじきはこの花の作り方とか育て方とかを、それはもう懇切丁寧にこまごまおれに話すんだ。もちろんおれには退屈なだけだった。

『いいかい、今教えたことはこの本に書いておいたし、この本はこの場所においておくからね。それだけは忘れるんじゃないよ』

 そう言って見せた本は革製の本で、あとから知ったんだが、それはおじきの日記帳だったんだ。

 さて、それから何年か経ったころ、おれはある女とつきあい始めた。つきあうといっても、実は誰もだ狙うような見栄えのいい女で正直おれは取り巻きの一人にすぎなかったさ。だがある日、ふとしたことでこの女は薔薇の花に目がないことを知った。おれはすぐにあの教会の地下室の出来事を思い出したね。そうさ、あれはたしかに薔薇だったんだから。

『どうだ、今まで見たこともないくらい美しい不思議な薔薇を見せてやろうか』

 食いついたね。女の目があやしいくらいに輝いたよ。おれはやっとその女の一番になれたと確信して有頂天になった。すぐにおれは教会へ走った。

 久しぶりの協会はなんだかみすぼらしいたたずまいで神父のおじきもすっかりもうろくしていてバラの話も通じないほどだった。

 おれは勝手に地下室に降りると、それはもう荒れ放題だったんだが、なぜかおれは例のビンをすぐに見つけることができた。ところが肝心の花がない! 穴があき半分こわれたガラスビンの中には汚ねえ土が入っているだけだった。だがそのすぐ横にあの日記帳が落ちていたんで、おれは懸命にページをめくった。するとあったぜ! 例のバラの作り方だよ。

 おれはその筆記帳をひっつかんで家へ走って帰った。そしてあらためて念入りの日記帳を読んだんだが、そこでおれは初めて知ったのさ。あの花が実は幽霊だってことをな。

 なにしろおれの一世一代の恋がかかってるんだ、おれは食い入るように読み込んだぜ。

だから今だってその中身を覚えている。なんならそらんじることだって出来る。

 嘘だと思うか? じゃあ聞いてろ」

 両津はまた一度目を閉じてから話を続けた。

「再生の秘密、それは塩と熱と運動である。ここでは十七世紀ヴァルモンの修道院長たるピエール・ド・ロレーヌの記述にしたがってその方法を試す。これを正しく行えば死者ですら少なくとも一時的には再生が可能である。

 まずフラスコの中に美しい薔薇の種子を入れたのち焼いて灰にせよ。朝露を十分に集め蒸留してから灰にしみこませよ。灰から塩を取り除き、さらに蒸留した朝露と混ぜよ。粉末のガラスでビンを密封せよ。この容器を新鮮な馬糞肥料の上に置き一か月放置せよ。しかるのち容器を日光と月光とに交互にさらせ。そして容器の底にニカワ状の物質が隆起してくれば実験は成功である。

 さあ、ビンを日光にさらしてみよ。その中に葉も花びらも他の全てもが美しいバラの幽霊が現れるであろう。それは冷やせば姿を消すが熱すれば再び現れる永遠の美なのだ……」

 両津はようやく視線を二人に移した。

「どうだね? おれはな、このとおりにやってみた。簡単じゃなかったがね。とくに結果がわかるためにはひと月要するのがつらいところだ、そうだろう?

 おじきはしばらくして死んじまった。もう手がかりは日記帳だけだ。しかしおれは何度も実験した。だっておれはこの目で確かにそいつを見てるんだからな!

 おれはもう夢中になって辛抱強く実験の成功を待った。

 だが女のほうが待っちゃくれなかった、待つはずなんかなかった……

 さあ、どうした? 笑えよ、ここが笑うとこだろうが! 大の男が朝っぱらから野原へ出ては露を集めるこっけいな姿をよ。朝な夕

なに窓辺でビンを後生大事に抱きかかえるおれのかっこうをよ!

 だがな、おまえら見たことないんだろ! あの、燃えるようにあくまで赤く、それでいて氷のように透きとおる美しさのバラの幽霊を! いいか、花の幽霊なんだぞ!

 ふ……ふふ、きさまらもあの女と同じなんだ。ここに見せてくれなければ値打も何もないと言うんだろ。勝手にしろ……」

 両津は膝をかかえてうつむいてしまった。

「こいつは……」

 柳田が口を開いた。

「見直したぜ、両津のダンナ、いや両津くん」

 今まで聞いたことのない口調に両津は顔をあげた。

「すごい、すごいですよ両津さん!」

 日比野も感嘆していた。

「花の幽霊なんて、ほんと聞いたことないもの! ああ、この話、妹に聞かせてやりたいな」

「妹?」

 思わず両津が聞き返した。

「うん。故郷じゃ妹がひとりで年老いた母の面倒みていてね。ほんとうは妹は大学に行きたかったのに。妹は両津さんと同じで文学志望でね、ロマンチックなんだ。この話聞いたら喜ぶだろうなあ」

 柳田が日比野の肩に手をかけて言った。

「へへ、いつもながらうらやましいね」

「あ、ごめん柳田くん」

 日比野は申し訳なさそうに頭まで下げた。

「つい、思い出しちゃって」

「あやまるこたあないさ、ヒビちゃん。身よりのないおれみたいな者には友達の家族の話はごちそうなんだから。そういや両津、きみは故郷に誰か残してきてるのか? そうそう、あの女性はどうなったんだ?」

「柳田くん! 失礼だよ!」

「す、すまん。そうだよな、すまん両津。おれはどうも口が軽くてさ」

 まるで対等の仲間のように口をきいてもらえたのが両津はうれしかった。両津の口調もいつかおだやかになっていた。

「あの女か……いや実はな、ほんというとおれなんかが女なんて呼び捨てにしていい人じゃないんだよ。しかも既婚者でな、歳はおれくらいでも町じゃ有名な家の令夫人でね。ま、最初からおれなんかには望みなんてなかったのさ。だけど、ほらよく言うじゃないか

  ラ・ダーム・ドゥ・メ・ポンセー

  わが想いの貴婦

 知らないか? そうだ! 日比野の妹さんならきっと知ってるよ。外国文学通なんだろう、妹さんは? 今度手紙で聞いてみてくれよ。こう書くんだ」

 両津はその太い武骨な指でもって「わが想いの貴婦」というフランス語の綴りを書いたが、それはかなり優雅な筆跡だった。

「ちょっと暗くて読めないかな。そうか、なんならその部分だけおれが書いてあげるよ。あ、いや、おれなんかが手を入れちゃまずいよな、妹さんへの手紙なんかに」

 日比野は感動したような面持ちで返答した。

「そんなことないよ、そんなことない! ぜひ妹に教えてあげてよ。お願いだよ」

「そ、そうかい? うん、それならいつでも。ラ・ダーム・ドゥ・メ・ポンセーかあ、久しぶりの思い出したなあこの言葉。騎士道はなやかなりし頃の中世ではさ、どの騎士も必ず一人の想い姫を心に持っていて、その愛を勝ち取るためだけに馬上試合や戦場に臨むんだ。大学で仏文をやるようになってからなんだが、おれもいつかはそんな人を持ちたいもんだと憧れていたんだ。だからあの女性と知り合ったときに、ああ、これこそ……」

「マ・ダーム……マダーム!」

 その声は突然鳴り響いた。

 三人ははじけるようにとびのいた。まるで聞き覚えのないその声は、まるで地の底から飛び出してきたように感じられた。

「だ、だれだ! 誰かそこにいるのか!」

 三人はあわてて銃剣をとりつけて身構えた。

 どこへ銃口を向けていいのかわからず、三人はあたりをきょろきょろと落ち着きなく見回したが、やがて穴のはしの壁が不自然に盛り上がっていることに気づき一斉にそちらへ銃口を向けた。

「誰か! 返事をしないか! 撃つぞ!」

 その土の盛り上がりはだんだんと人の形に見えてきた。そしてこう言った。

「マダーム……」

 土くれがくるりとこちらへ向きを変えた。すると土がパラパラと足元へ落ちて、はっきりとした人の姿が現れた。

 それは豊かな金髪を肩までたらした長身の男だった。

「ア、ア、アメリカ兵だあ! 敵兵上陸!」

 タコツボの外に届くようにと大声を両津があげたちょうどその時に何発もの砲弾が穴の近くに降ってきた。

「安全装置はずせ! 構えー!」

 タコツボ付近へのあいつぐ着弾で穴の中はかなり明るく照らされていた。

「両津、まて。こいつほんとに米兵か? 良く見てみろよ」

 柳田の問いに両津は狂ったように叫び返した。

「あの髪の毛だぞ! それに目、目をみて見ろ、青く光ってるじゃないか! ちっくしょうめ、手を上げろ! おい、きさま、わからんのか! 動くなというんだ! 日比野、英語だ英語! なんて言えばいいんだ!」

「ホ、ホールダップ!」

「それだ! ホールドアップしろ!」

 その男はめまいでもするのか、額に手を当てると、いかにも気分がすぐれない様子で壁に手をついた。

「おいおい、こりゃあいくらなんでも変だよ。こんな服がアメリカの軍服かあ?」

 柳田にうながされるように両津もよく目をこらして男をみつめなおした。

 確かにタキシードのような派手な上着、脚にぴったりとくっついている半ズボンとその下の長い靴下、革のブーツには馬用の拍車までついていて、もう一度上半身を見ると襟や袖にはフリルまであしらわれている。全身金モール刺繍の夜会服のこんな服がアメリカ軍の突撃服だろうか。この男には宮廷の舞踏会ころがふさわしいではないか。

 ではいったい何者だというのか、と両津が頭をひねり始めたとき、男はうめいた。

「ここは……どこだ?」

 三人はびっくりしてとびあがった。それは日本語だった。少なくとも三人には男の言葉がすぐに理解できた。

「言葉がわかるのか! このやろう!」

 両津の銃口は男の頭を狙った。

「まて両津! こいつは捕虜にするんだ。おれがやっこさんの身体検査をするから」

 まだめまいでもするのだろうか、柳田と日比野が武器をかくしてないか調べる間も男はフラフラと立っていた。

「携帯してる武器はこれひとつだ。もう銃をおろしていいよ両津。それにしてもこいつはたいしたサーベルだな。ほんとに兵隊なら、さしずめ大将クラスってとこだぜ」

 サーベルを取られて目がさめたの、男は今度は毅然とした口調で言った。

「お前たちは何者か! ここがどこなのか答えろ!」

「だ、黙れ! 質問するのはこっちだぞ! その、あの、ええい、何を聞けばいいんだ、日比野?」

「所属部隊と階級は?」

 男は驚いた顔で三人を見返した。

「そうか……私は捕虜になったのか?」

「そうだ! 早く答えんか!」

 そう怒鳴りつける両津をキッとみすえると男は高らかにこう告げた。

「ル・メール元帥閣下指揮下共和国防衛隊第一師団所属。バタイユ・ドゥ・トゥール伯爵。 師団長戦死により臨時師団長代理を執行中」

「伯爵だとお! では指揮官でありますか?」

「現在はそうだ。捕虜交換では君らの師団長三人と交換できよう。扱いはせいぜい丁重にたのむ」

 そのとき見せた男のあまりにも不敵なほほえみが三人を動揺させた。銃は構えているものの三つの銃口はどれも男には向いていなかった。

「なあ柳田よ、アメリカにも爵位なんてあるのか?」

 両津のこの言葉を聞き、男はカッと目を見開いた。

「アメリカだって? 君らはアメリカの義勇兵か? ならばなぜプロシア軍に味方するのか!」

 三人は驚いた。

「プロシア軍って、ドイツ軍のことか? そりゃドイツは友軍だが……」

 男はますます憤慨した。

「なんということだ! おい君! そうだ、君だ! 君はさっきラ・ダーム・ドゥ・メ・ポンセーと言っていただろう!」

 指さされた両津は思わず

「はい! 確かに本官が言ったであります!」

とかしこまってしまった。男は叱りつけるように続けた。

「かような高邁な思想こそは我がフランス国特有のものである。祖国フランスに敵対せんとする者がけっして口にしていい言葉ではないのだぞ、この傭兵どもが!」

 両津は言葉につまり、ポカンと口をあけていた。柳田がかわって聞いた」

「あんたフランス人? 旧仏領インドシナにはもうフランス人なんて一人もいないはずだが」

 男はちょっと驚いたようだったが、すぐにまた怒り出した。

「インドシナだと? でたらめを並べて私の頭を混乱させようなどとは不埒な尋問の仕方である。そもそも君らのその恰好は何だ? カーニバルのつもりか? ここは戦場だぞ!」

 男の言葉にとりあわず、柳田はさらにきいた。

「あんたの相手はプロシア軍と言ったね? では指揮官どのにおたずねするが今年は何年です? 今は一九四四年ですか?」

「なんという卑劣な尋問だ! 一九四四だと? なにか? 私が革命歴でも使う革命派のスパイだという汚名を着せたいのか? 君らはプロシア軍なんかではないのだな? ほんとうは査問委員会の手の者なんだろう! この際はっきり言うがナポレオン三世が降伏されたとはいえまだ国家存亡の危機は救える、王党派だ共和派だとなじりあっている時ではないのだ。いいかね、私は共和国を守りたいわけじゃない、フランスを守るのだ! 君らは私が貴族だから信用できんというのだろうが、もうこのような下卑た尋問はやめたまえ。よかろう、言ってあげよう、今は一八七〇年である!」

 三人は押し黙ってしまった。

「おい、柳田……」

 両津がつぶやいた。

「なあ、こいつは、この話は普仏戦争のことを言っているのか?」

 柳田はそれに答えずさらに男にきいた。

「伯爵殿はフランス国民であるとおっしゃいます。しかし、我々は日本人なんですよ」

 バタイユ伯爵はけげんそうに眉をひそめた。

「ジャポネ? なぜ日本人がこの戦場に?

このパリ郊外に日本人が?」

 柳田は意外なほど冷静な口調で言った。

「我々はパリになんかいない。あんたがここに来たんですよ、伯爵。フランス語なんておれは生まれてこの方しゃべったことなんかないんですよ?」

 伯爵は困惑した。

「しかし君らは私の話を全部わかっているようじゃないか? だいたい私だって君らの話が全部わかるし。そうだ! 君だ、君は確かにフランス語を話していたじゃないか!」

 伯爵は両津を指さした。両津はぶるぶると体をふるわせて後ずさりして叫んだ」

「やめろ! おれを指さすのはやめろ!」

 両津は男に銃を向けた。銃口は小刻みにはげしくゆれている。

「何事だ、どうしたのだ? なぜ彼はおびえているんだ。まるで私が幽霊か何かみたいじゃないか。さあ、いいかげんもう変な尋問はやめにしないか。そろそろ私の質問にも答えてくれてもいいだろう。君らはいったい何者なんだね?」

 柳田はじっと立ったまま、なぜかさびしげにほほえむばかりだった。

 答える気のない柳田から日比野へと伯爵は視線を移した。日比野は今にも泣きだしそうな顔で壁まで後ずさりすると、くるりと背を向けて、穴から這い出しそうな勢いで土の壁をひっかきだした。

 しかたなく伯爵は両津を見た。

「君なら話もわかるだろう。なあ、話してくれないか。君らの招待は何だ?」

 伯爵はずんずんと両津に近づいた。

「く、来るなあ! 近よるんじゃない、この化け物め!」

「ばけ、もの? なんと失敬な!」

 両津は引き金に指をかけるや続けざまに六発撃った。おそろしい銃声と共に全弾が伯爵の体を貫通した。

 だが伯爵は倒れなかった。

 両津の顔は恐怖でひきつったが、伯爵の顔もまた恐怖の色をうかべていた。

「撃たれた、のか? だが、これは……」

 自分はたった今たしかに被弾した。何発も自分の身で受けた。なのに傷どころか痛みさえ感じない自分に伯爵はただ茫然としていた。

 そこへ柳田の静かな声がこう言った。

「やめろよ両津。無駄なんだ……ほんとはおまえだってわかっているんだろう?」

 日比野はワッと泣き崩れた。

「かわいそうにヒビちゃん。故郷のことを思うと辛かろうなあ」

 柳田が両津を見ると、両津は何度も何度も首を左右にふっている。

「なあ両津、もういいかげん現実にかえろう。こんな昔のフランス兵まで出てくるようじゃ、ほんとにおしまいだよ。やはりあれは、ほんとの出来事だったんだ。そうだろ?」

「うそだ……嘘だ嘘だ嘘だ! やめてくれ!」

 両津は銃をとりおとし、両手で顔をおおった。それに構わず柳田は続けた。

「両津。今日の午後な、タコツボに逃げこもうとした直前におれたちの目の前がピカッと光ったよな。やけにまぶしく視界ぜんぶが白一色になったよな。あれさ。あれが最期だったんだよ……」

 両津は顔をおおう手をそのままに暗くつぶやき始めた。

「そうか……おれたち、やられたんだな、あのとき……だからさっきから仲間が来ても誰もおれたちに声をかけなかったんだな。そりゃそうか、誰が死体に向かって声なんか……」

 日比野は幼い子どものように声をあげて泣きじゃくっている。

「何だ、何なのだ? 君らはさっきから何の話をしているのだ?」

 こう伯爵に声をかけられて柳田は初めてそこに伯爵がいるのに気づいたかのように彼の方へふりかえった。

「え、と……」

 何かを言いかけた柳田の口元はそれきりで閉じられ、また先ほどのような笑みをうかべてみせた。

 すると、不意に柳田の足元を虹色の光の線が包み込み、そこから上へ向かって、まるで舞台の幕が下から上へあがるように登ってゆき、その虹色の光が通過したあとには何も残らなかった。柳田の体は空気に溶け込むように消えたいった。

 伯爵が急いで残りのふたりを見ると、彼らの体も虹色の霧に包まれたあと静かに消えていくところだった。

 穴の中は真っ暗になった。


 ドーン

 ドドーン


 大砲の弾が着弾したその音に伯爵はハッとした。

 思わず穴の上を見あげると、そこにはまばゆい真昼の太陽の光が輝いていた。そのまばゆさに伯爵はつい目をつぶった。

 ドーン、ドーン

 あいかわらず着弾音は途切れないものの、伯爵の耳にはそれがやけにのんびりした音に聞こえてしかたなかった。

「先ほどまでの音とは違う。さっきまではまるで地獄の龍の咆哮さながらの轟音だったではないか。この大砲とは明らかに違う兵器の音だった」

 自分がいるのはやはり戦場のタコツボだったが、天気もいやにのどかに感じられた。

「ああ! 隊長どの! 隊長ですね! よかった、ああ、よかったあ!」

 その聞きなれた声に目をあけて穴の上を見あげると、人のよさそうな太ったフランス軍人が身をのりだしていて伯爵に呼びかけている。その涙交じりにバスク訛りの太い声がどうしようもなく心を温めてくれる心地よさを伯爵はじっくりと味わっていた。

「ガルシア君か」

「ええ、そうですとも隊長どの! ずいぶんと捜索しましたが、もう3時間も経過しておりますから、正直もう駄目かもと……ご無事でなにりであります!」

 この根っから人の好いごつい髭づらの将校は、涙を流さんばかりの喜びに顔を紅潮させている。それはまさしく生者の顔色だった。

「隊長どの、お立ちになれますか? 今そこへ参りますから!」

 バタイユ伯爵は、そう言われてはじめて自分が穴の底で尻もちもついてまま座った姿勢であることに気づいた。

 再び上を見あげるとガルシア大尉が穴の上に尻を突き出して降りようとしているのが見えた。

「いかんガルシア! ここへ来るんじゃない!」

 ガルシアはびっくりしてふりむいてから、伯爵の言葉におおいに傷ついた顔をしてみせた。伯爵は自分の言いすぎをすぐに反省した。

「すまないガルシア君。ありがとう、ほんとにありがとう。だが自分であがるよ」

 親しい友へ向けるような伯爵のその口調にすっかり機嫌をよくしたガルシアは、隊長に手を差し伸べる部下どもを追い払って自分のたくましい両手を差し出した。

「さあ、どうぞ!」

 穴の上に出た伯爵はガルシアと抱擁し三度四度と頬に口づけの挨拶を交わした。おざなりでない心のこもったその抱擁にガルシア大尉は天にも昇る幸せにひたった。

「天国だな、ここは」

 伯爵は空を見あげながら言った。

「はあ、まったくで……いえ! 隊長どの、ここは戦場であります。何が天国なもんですか。敵のあの一斉砲撃のあげた白煙の中に隊長のお姿が消えてしまって、もうどれだけ心配したことか!」

「そうだったな、いや、ありがとうガルシア君、私を見捨てずに残ってくれて」

 ガルシアはつい下を向いてもじもじしてしまったが、伯爵が自分の顔を真剣に見ていることに気づいてすぐに敬礼の姿勢をとった。

「現在プロシア軍が優勢。わが軍はパリ市内に向けて全軍撤退中。我々のいるここが最前線であります!」

 だが伯爵は今度はどこか遠くを見ているような様子だったのでガルシアはとまどった。

「あの、隊長どの?」

「なあ、ガルシア」

「はっ! なんなりとご命令を!」

「今から百年先、いやそれ以上たっても戦争はあるのだろうか。その頃になっても兵士というものがいて、彼らもまた銃をとり、そして倒れていくのだろうか。あの未来の亡霊たちも英雄などとまつりあげられては荒野に躯をさらすのだろうか?」

 初めはとまどいの表情を見せていたガルシアも、英雄という単語で反射的に軍人らしい反応をとることができた。

「英雄でありますか。はっ! わがフランスの祖国がある限り自分は一歩もひかず祖国のいしずえになる覚悟であります! 百年たとうが千年たとうが自分はどこまでもいつまでも隊長にお供いたします!」

 かんちがいの返答をもらいバタイユ伯爵はさみしそうに笑った。

「よろしい。全速で撤収だ。全員、市の城壁まで駆け足!」

 その場にいた十人ほどの兵士たちは、きらびやかな軍服を陽光にきらめかせ走りだした。

 それを見届けると伯爵はもう一度ふりかえった。

 戦場には無数の穴があいている。ちょっと離れただけなのに、さっきまで自分がいた穴がどれだったのか、伯爵にはもう見分けがつかなかった。

 そして伯爵はゾッとした。

 昼であるにもかかわらず、どの穴も中の様子がまったく見えないのだ。なにか悪魔的なハサミで切り取られたかのように、どの穴もどの穴も、どうしようもないほどの深くどす黒い闇の中に沈んでいるのだ。

「隊長どの! 隊長どの!」

 心配そうなガルシア大尉の声がどこか遠くから届いた。伯爵は走り出した、懐かしのパリへ向かって。

 砲声はさらに間隔がまばらになっている。もうすぐ敵の総攻撃が始まるのだろう。

 そう思いつつ前方に近づいてくるパリの街をながめたとき伯爵は不意に胸をしめつけるような不安を覚えた。彼には近づくパリの街が、まるで大きなタコツボのように見えたからだった。




一八七〇年,昼さがり。

パリ防衛戦線。

砲撃はやみ、死のような静寂が支配していた。

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