哀哭
その後、救急隊がやってきた。
周りを見回すと多くの人が怪我をしていたり、倒れていたりしていた。
まさにそこは戦いの後のようだった。
コンクリートの地面が所々赤黒く染まっている。
それは私が座っているところも例外ではない。
それらは私のものではなく彼、父のものだった。
父は私の腕の中に抱かれたままぐったりとしている。
すでにもう息はないように思えた。
「運びます。」
救急隊の方がそう言って私から父を抱き上げた。
その時初めて、もう父はいないのだと悟った。
唯一の肉親がいなくなってしまった。
思っていても実感が湧かない。
目の前に赤く染まった父がいるというのに...。
父が担架に乗せられ救急車の中に運び込まれる。
それを見て私も行かねばと思い、のろのろと立ち上がる。
足はふらつき、頭には誰かに殴られているような感覚が襲った。
そういえば薬を飲んでないなと、こんな時に思った。
ふと自分の体を見ると服が赤く染まっていた。
そんな服を見ているとまた涙が溢れてきた。
枯れたはずではなかったのだろうか。
まだこんなに残っていたのかと思われるほど、どんどん涙が溢れてくる。
もう一度父の声が聞きたい。
ひたすらにそう思った。
救急車に乗り込み、病院に向かう。
父の手を触るとひんやりと冷たく感じた。
温かかったはずのその手はもうなく、氷を触っているようだった。
私の記憶はそこで終わっていた。
気づくとそこは見知らぬ天井。
いや、見知っている天井だった。
体を起こすと頭が割れるように痛かった。
でもそんなことは気にならないぐらい、私は必死にあたりを見回した。
今最も求めている温もりを探した。
でも求めている存在はもうなく。
あるのは虚しい空気だけ。
ふと自分の手が目に入った。
私の手のひらはとても綺麗だった。
それがとても悲しかった。
全てがなかったことにされたようで。
父の存在が、まるでなかったかのように扱われたように感じて。
とても悲しく、とても虚しく、なんとも言えない気持ちになった。
「珠理‼︎」
突然私の名前が叫ばれた。
もしかしたら今までのは全て夢だったのかもしれない。
そう期待して、思わず叫びそうになった。
「お父さ......ぁ。」
でも違った。
そこにいたのは明だった。
私が心から望んで、会いたいと思っている人ではなかった。
視界の中に明を捉えた時、やはり現実を突きつけられたようだった。
視界が霞む。
歪む。
頬に涙が伝う。
もう慣れてしまったその現象は私の心を締め付ける。
すると私を温もりが包んだ。
明が私を抱きしめていた。
優しい温もりが私の体の隅々まで行き渡っていくようだった。
それから親戚の人たちが次々に病室にやってきた。
母が亡くなってからとてもお世話になっている方ばかりだった。
その時初めて私はこんなにもたくさんの人達に支えられているんだ、一人じゃないんだと実感した。
しかしそこには兄の姿はない。
何か物足りないという感情のまま数時間過ごしていた。
そんな時、急に廊下が騒がしくなった。
「ちょっと落ち着いて」
「待って!」
などという声が聞こえたあと、ガンという音と共に勢いよくドアが開け放たれた。
そこには兄がいた。
私を睨みつける兄がいた。
怒っているのは明らかだった。
兄の言葉は全て受け止めようと思った。
でもその言葉は目の前で父を失った私にはあまりにも残酷なものだった。
「お前のせいで...。お前さえいなかったら、父さんが死ぬことなんてなかったんだ。全部全部全部‼︎お前が。珠理が奪ってくんだ!父さんも。母さんも!お前なんか生まれてこなければよかったんだ。」
思春期真っ盛りの私の心には、それはもうよく響いた。
父の死に加え、兄からこんな事を言われて平気でいられるわけがなかった。
兄はそれだけいうと病室を出て行った。
それだけを言うためだけに来たのか。
そう思うと少し虚しくなった。
父の葬式の時、兄は私を睨むように眺めていた。
その視線が痛かった。
心臓に刺さるようだった。
私は前を向くことが出来なかった。
俯いて、歯をくいしばるようにして、涙を堪えることしか出来なかった。
何か言葉を発してしまったら、きっと手がつけられないほどの水が溢れ出してしまうから。
“私には泣く権利なんてない”
必死にそう思って堪えた。
私が父を殺してしまったから。
私は犯罪者だから。
泣く権利なんてない。
そんな権利があるのは兄だけだから。
私の事を睨むように見ている兄だけ。
“お兄ちゃん、ごめんなさい。私がお父さんを殺したの。言われなくても分かってる。こんな私が生きていて良いわけない事。全部分かってる。こんなちっぽけな命じゃ償いきれないって思うけど、それでも、少しでも償えたなら。お兄ちゃんの中に秘めている感情を少しでも軽くすることが出来るなら。私は喜んで命を投げ出します。”
心の中でただひたすらに、呪文のように唱えた。
石像のように動かない私を心配してか、明が隣に腰を下ろした。
何も言わず、どこにも触れず、ただただ隣で寄り添ってくれた。
それが言葉にできないぐらいの安心感を与えてくれた。
父の葬儀が終わり、火葬が終わり、ようやくもうこの世に父はいないのだと実感した。
どんなに泣いても叫んでも、もう帰ってこない。
死んでしまったものは帰ってこない。
それが世界の決まりで、暗黙の了解ということだった。
虚しい気持ちをどこに向けるのが正しいのか。
ただそんな思いが脳裏をよぎった。
身内では、私達2人を誰が引き取るかの話題が持ち上がっていた。
だがほとんどの家庭が生活に余裕がなく、これ以上人数が増えてしまうと生活できなくなるといった状態だった。
このままでは施設行きだろうなと思い私はその場を離れた。
いろんな感情がごちゃ混ぜになってはいたが、人並み程度には思考回路が繋がっていた。
自分が今どうするべきなのかしっかりと考え、行動に移すのは今しかないと思った。
コンクリートで固められた地面を歩き、砂利道を歩き、たどり着いたそこは少し高い、まるで展望台のようだった。
高さは軽く5メートルはあるだろうか。
ここから飛び降りれば確実に命を絶つことが出来る。
そう思うと次第に怖さは消えていき、飛び降りなければといった使命感に駆られた。
落ちるのを防止する柵に手をかける。
柵の高さはそんなに高くないので、簡単に身を乗り出すことができた。
これで父や母の元に逝ける。
やっと会える。
空を見上げてそう思った。
「珠理!」
突然後ろから声がかけられ、私は振り向く間もなく後方へと引っ張られた。
尻もちをつくような形で地面に叩きつけられ、大声が耳を通り抜けていった。
「何してんだよ‼︎何考えてんだよ‼︎死んでどうすんだよ。死んだって、お前の父親は帰ってこないんだぞ!お父さんが命がけで守った命を自分で捨てようとすんな‼︎」
顔を上げると目の前に明の顔があった。
私のことをつけてきたのだろう。
焦った表情にとても惹きつけられた。
明の後ろに視線を移すと、父と母がいるように感じた。
実際には何もいない空間だが、なぜかそう感じた。
心の中でなにかが切れたようだった。
頬を温かいなにかが伝う。
嗚咽が漏れる。
明の胸に縋りつくように私はしばらくの時間を過ごした。