一歩
視界に色が戻ると、そこは大勢の人で賑わっていた。
どこを見ても人、人、人。
いや、賑わっているわけではない。
ピエロの顔と人間の顔が、同じ方向を見続けていた。
茶色の砂で埋め尽くされた地面と、灰色の空。
物々しさを、痛いほど肌で感じた。
『すごい人...』
どのくらいいるのだろうか。
1万人...。
もっといるのかもしれない。
これだけの人が、訳の分からない戦いに参加していると思うと、不気味でならなかった。
私の隣にはシナーがいる。
知らない人混みの中で見知った人がいることに、不思議と安心感を覚えた。
『この人たちが見ている方に、彼らはいるよ』
『うん』
私は人混みを掻き分けながら進んでいく。
人は私を振り返り、ピエロは微動だにしない。
多少ぶつかっても動く気配は全くなく、まるで石像のようにその場に立ち続けていた。
『ちょっと君、どこいくの』
不意に背後から声をかけられた。
まさか話しかけられるとは思っていなかったので、思わず躓きそうになる。
声をかけてきたのは30代くらいの男性だった。
身なりはシャツにジーンズと普通で、普通すぎて違和感がすごい。
だがきっと、私の方が違和感に違いない。
今の私は、完全にお祭りの最中にうっかり迷い込んだ少女だ。
太ももあたりが破け、僅かに血が付着している白地の浴衣。
ここでなければ、違和感の塊だ。
『本部に行くんです』
『どうして?行ってどうするの』
『全てを終わらせるんです。この意味のない戦いを』
その後も何か言っていたようだが、私は聞かずに進んでいく。
早い方がいい。
少しでも犠牲が少なくなるように。
『珠理、大丈夫かい?』
『何が?』
『少し気張りすぎだよ』
肩に触れたシナーの手は、心なしか暖かかった。
あんなに冷たかったシナーに、なぜこれほどまでに温もりを感じるのだろう。
私の心境の変化か、それともシナーの変化か。
いずれにしても、頼れる存在に変わったことには変わりなかった。
私は足を止め、ゆっくりと深呼吸をした。
無意識のうちに呼吸が詰まっていたようだ。
肺の隅々まで空気を行き渡らせ、緊張とともに吐き出した。
私が失敗したら、この戦いはどうなるのだろう。
そもそも私1人で止められるようなことなのだろうか。
ここまで大規模になっているんだ。
一般人の私に、どこまでできるか分からない。
やらなければと思う反面、やっぱり無理だと逃げ出す私がいる。
もう逃げないと決めたのに、気持ちがどんどんマイナス方向に流れていく。
人の多さに圧巻され、たった1人である事実が突きつけられた。
怖い。
怖くて震えてしまう。
どうしようもない恐怖の再来に、私の思考は停止寸前だった。
『行こう、珠理』
シナーが右手を差し出していた。
怖くてもやるしかない。
自分で考えて、自分で決めたのだ。
私には最後までやり遂げる義務がある。
大丈夫、そう思いながら、私はシナーの手を取った。
私の手よりもはるかに大きな手に包まれ、心なしか気持ちが楽になった。
私の手を引いて歩く姿はかつての父のようで、懐かしさで胸が温かくなるのを感じる。
もし生きていたら、こんな未来があったのかもしれない。
そんなことを思いながら、ときどき見える横顔に、僅かにヒビが入っているのが気になった。
『シナー、顔どうしたの?』
『顔?何かついてるかい?』
『ヒビ入ってない?』
『...入ってないと思うけど』
左手で顔を触りながら、私の方に振り向いた。
先程見えていたヒビは、嘘であったかのように消えていた。
私の見間違いだろうか。
『どうだい?』
『無くなってる。見間違いかな?』
『どうだろうね。さ、急ごう』
人混みを分けながら、私たち2人は本部へと向かった。
本部らしき場所は白いテントが張ってあり、一目見て分かった。
とても大きなテント。
テントと言うには大きすぎて、遊牧民の住居のゲルのような、そんな見た目だった。
この中に、あの日会った人たちがいる。
あの日は怖くて怖くて、怯えてしまったけれど、今はきっと大丈夫だろう。
私は勇気を出して一歩を踏み出した。
中にはあのときと同じ服装のピエロが3人。
その他にも、重装備を纏ったピエロが2人、白いマントを纏ったピエロが1人いた。
机はなく、椅子に座って計画を話し合っているようだった。
木の板でできたボードには大きく図が描かれており、ドラマでよく見る作戦会議を思い起こさせる。
『あの!』
私の声に、罪人は一斉にこちらを振り向いた。
これだけのピエロに見られると、さすがに気持ちが萎縮してしまう。
泣いてしまいそうになる。
でも、やらなければならない。
言わなければならない。
これ以上、傷つく人を見たくないから。
『何だね君は』
『......君はあのとき来た生者じゃないか。そうだ、今こそこの人間の力を使おうじゃないか』
『何を言ってるんだ。それではダメだ』
『そうよ、負けるわ』
『長はどうお考えかな』
視線は、私からマントの罪人へと移った。
長と呼ばれたピエロは、じっと下を見つめたまま動かない。
返答を待つように、彼らは言葉を発するのをやめた。
それから僅か数秒。
ゆっくり顔を上げたかと思うと、静かに口を開いた。
『もう生者は足りているだろう。今更その者は必要ない。250よ、共に下がりなさい』
“足りている”
一体誰のことを言っているのか。
そもそも生者を何に使うのか。
分からないことだらけで、聞いてしまいたくなる。
その人の代わりに私を、と、言いたくなった。
先の短い私の方が、適任ではないか。
自然とそんな風に思ってしまう。
『いいえ、下がりません。何のためにここまで来たとお思いですか?』
私の僅か後ろに立つシナーは、静かにそう言った。
そうだ。
私は、止めにきたんだ。
何度も見失いそうになって、その度にシナーが引き戻す。
なんだか助けられてばかりだ。
『そうです。私は、この無意味な戦いを止めにきたんです』
『無意味だと!?』
『人間のくせに、一体何が分かると言うんだ』
『お前如きに、何を止められると言うんだ!!』
予想はしていた。
こう言われると、私は心のどこかで予想していた。
けれど、実際に言われて、勇気だとか使命感だとか、そんなものが一気に吹き飛んでいった。
心が折れそうだった。
私は何も知らない。
戦いの経緯も、理由も、私は何も知らない。
神様でもないただの人間に、何かできるなんて慢心だ。
止められないのか。
やっぱり私には。
...ダメだ。
まただ。
『私は逃げないって決めたんだ』
何もできなくたって、少しでも可能性があるならやるしかない。
やらないなんて選択肢は、生憎持ち合わせていない。
『無意味な戦いは今すぐやめて。今この瞬間も、傷つき、倒れている人がいる。命を粗末にしないで』
『黙れ!!戦わずしてどう収めるというのだ!勝ちこそ正義だ』
『私たちが幸せになるために、今は戦うときなのだ!』
『この戦いの末に、本当に幸せがあるの?』
『何を言っているんだ。あるに決まっているだろう』
幸せを求めた戦い。
その先にあるのは、幸福ではなく絶望だ。
荒れた街並み、失われた命。
幸せになる人なんているはずがない。
希望が失われた先にあるのは、
真っ暗な闇だけだ。
『幸せなんてない。人間の過去を見て!あの大規模な戦いの末に、一体誰が幸せになったって言うの。勝って、誰が心から笑っていられた?誰も笑ってない。救われてない。救いのない戦いに、意味なんてないのよ!!』
『黙れ黙れ!部外者は黙っていろ!!』
聞く耳を持たないピエロは立ち上がり、ひとしきり喚いたかと思うと、足音を立てながら外へ出て行ってしまった。
確かに私は部外者だ。
けれど、私の大切な人が、こうしている間にも命の危機に晒されている。
それだけで、私には止める理由になった。
きっと彼らも、戦う理由なんて分からないのだろう。
幸せのためと言っていたが、明確な目的を口にすることはない。
いつから始まったか分からない両者の争いに、今生きる彼らは理由なんて要らないのかもしれない。
ただ古から続いているから。
引くに引けないから。
そんなところだろう。
生者で何をするのか、私は知らない。
知りたくもない。
私はただ止めるだけだ。
誰も幸せになれない戦いなんて、今すぐに。




