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分岐点

しばらくして、鴨田先生の携帯に着信が入った。

間を置くことなく通話ボタンを押して電話に出る。

声の感じからして、急いで行かなければならない状態のようだ。

私にごめんと手で表現してから、小走りに室内に入っていく。

1人残された私は、寄りかかるようにベンチに体を預け、静かに目を閉じる。

中庭で走り回る子供たち。

散歩をするお年寄り。

年齢も性別も、さまざまな人たちの、楽しそうな声が聞こえる。

自分の体から抜け出したかのような感覚に陥りながら、時間が過ぎるのを待つ。


「あら...なんだか雨が降りそうねぇ」

遠くで聞こえた声に、私は目を開けた。

空にはもくもくとした雲が広がっている。

あれだけうるさかった蝉の声も、今ではほとんど聞こえない。

雨に濡れると担当医に怒られるかもしれないと思い、病室に帰ることにした。

背後から聞こえるキャッキャとした笑い声が、少しだけ羨ましくなった。



病室に戻ると、私のベッドの向かい側のカーテンが開いていた。

どんな人が居るのだろうと気になったが、ジロジロと見るものではない。

横目でチラッと見るだけにした。

男の子だった。

私と同じぐらいか、下だろうか。

多少幼く見えた。

自分のベッドに座ると、やっぱり気になって、もう少しだけと思い見てしまった。

彼は机に置かれたパソコンに向かって、身振り手振りで何かを伝えている。

ある動作をした時、私は気づいてしまった。

「手話...だ」

それは明らかに手話だった。

見間違えるはずがない。


彼は私の視線に気づいたのか、視線を上げた。

目があった途端、思わず会釈する。

相手も同じように会釈した。

私は右手の中指と人差し指を合わせ、顔の前に持ってきた。

そして両人差し指を軽く曲げる。

“こんにちは”

すると男の子は驚いたような反応を見せた後、同じような仕草をした。

“こんにちは”

無言の挨拶。

それがなんだか可笑しくて、笑顔が(こぼ)れる。

彼が視線を下に戻したのを見て、私はベッドに寝転がった。

空はいつ雨が降ってもおかしくない雰囲気を漂わせていた。



しばらくして空には雲量が増え、しだいに辺りはどんよりと暗くなった。

足音が近づいてくるのを感じ視線をそっちへと移すと、向かい側の彼が近づいてくるのが目に入った。

ゆっくりと上半身を起こし、彼の動作を眺める。

彼は開いたままのノートパソコンを持ち、目が合うと微笑んだ。

ベッドに備え付けられた机にノートパソコンが置かれた。

画面には、一人の男性が写っていた。

どうやらスカイプのようだった。

「おはようございます。突然すみません」

画面の中の男性が喋り出した。

「いえいえ....おはようございます」

私の言葉を最後に、しばらく沈黙が続く。

「あの....」

その沈黙に耐えられず、私は控えめに声を出した。

「あ、俺は渡会(わたらい)一郎と言います。あなたの隣にいるのは水上(みずかみ)紫音(しおん)です」

ありきたりな、普通の自己紹介に、頭が追いつかない。

「あ、わ、私は藤空珠理と言います」

とりあえず私も言わなければと思い名前を言うが、何故このような状況になっているのか、いまいち分からない。

「珠理さんは手話出来るんすか?」

画面からの、これまた突然の質問につい画面を眺めてしまう。

脳内をフル回転させようやく理解が追いついてくると、私は戸惑いながらも答えた。

「親戚の方で出来る方がいて。見てただけなので、本当に触った程度というか、むしろ触ってもいないというか」

すると彼、紫音は画面に向かって手を動かし始めた。

私にはそれが手話だということは分かったものの、なんと言っているかまでは分からない。

「そんなの自分で言やいいだろ」

一郎が言った。

それに続くように紫音は自分の耳に手をのばし、付けていた耳栓を外した。

そして私の方を向きこう言った。

「少し話し相手になってほしいんですけど」

「.....もちろんです」

訳がわからなかったが、笑顔で答えた。


答えたはいいものの、私相手に何を話すというのだろう。

見ず知らずの人相手に話せることなんて限られている。

愚痴でも聞けばいいのだろうか。

そして何故耳栓をしているのだろうか。

冷静になればなるほど不思議だと感じる。

彼が再び耳栓をしようとしているのを見て、思わず待ったをかける。

「待って待って。なんで耳栓付けるんですか?」

聴こえているのにわざわざ聴こえなくする意味が分からない。

敢えてそうする、彼の意図が。

「なんでって言われても.....んー強いて言うなら、音のある世界に飽きちゃったんです」

「飽きた...?」

「そう。今まで僕は、当たり前のように音のある世界で生きてきました。テレビの音、人の声、街中のさまざまなBGM。僕はそれらが無い世界を知りたかったんです。きっとこの気持ちが始まりです」

「紫音は少し変わったとこがあるからな」

僕は変わりすぎだと思ってるけど、と紫音は笑いながら言った。

音の無い世界。

言われてみれば、私たちは常に音のある世界で生きている。

それが当たり前の事過ぎて、少しも疑問に思うことはなかった。


“音のある世界に飽きた”


という考えは、私にとってはとても斬新なことのように思えた。

生まれた時からあった環境に、彼は大きな変化を求めたのだ。

「じゃあ手話はあらかじめ覚えたんですか?」

「いいえ、手話は耳栓をしている時しか勉強してません。最初は大変でしたが、慣れてしまえば普通に生活できます。こんな生活をしていると手話だけじゃなく、読唇術(どくしんじゅつ)ってものも少し出来るようになりました」


読唇術。

唇の動きを読むやつか。

あれって結構難しいんじゃ.....。

やろうと思っても、そう簡単に出来ることではないだろう。

どれだけ努力をしたのか。

いや、努力という言葉でまとめてはいけない気がする。


「読唇が出来るといっても、あまり出来ないけど。流石に独学じゃ限界がありました」

「そんなこと言って、結構出来てるじゃないか」

「たまたまさ」

親しい間柄なのだろうと予想される二人の会話は、どこかよそよそしさを感じる。

あまり踏み込まず、ギリギリのラインで話をしているような。

かといって他人行儀でもなく、久しぶりに会った親子のような。

そんな雰囲気を漂わせている。

会話中、紫音はずっと立ちっぱなしで、画面越しに見える一郎はなんだか眠そうだ。


それからしばらく雑談が続いた。

好きな食べ物から始まり、住んでいる場所の話になった。

どうやら一郎はカナダに住んでいるようで、今は夜中らしい。

眠いはずだ。

画面の向こうから英語らしき声が聞こえた。

「悪い、もう寝るわ」

おやすみ、と言って彼はスカイプを切った。


私は心のどこかで、話したい事は別にあるのではと感じた。

特に紫音においては、間の抜けた返事が多く、まるで魂だけが別の世界へ行ってしまったようだった。

しきりに私の顔を見ては深く深呼吸をする。

それが何を意味しているのか検討もつかないが、そう思えてならない。


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