深淵からの鳴き声編 ⑩ レイドボスの不在
最下層は不気味な静けさに包まれていた。
ひとしきり暴れ狂った猫手は、黒い雲の中にスッと引っ込んだまま出てこなくなったのだ。
だが、相変わらず黒い雲はそこにあって、予断を許さない状況に何ら変わりは無かった。
――カウンター岩前。
長蛇の列が恐らく下の駐車場辺りまで伸びている。
ヘルプで駆けつけてくれた花さんと、必死に入場処理をこなしていく。
見慣れない顔のダイバーが殆どで、まだまだD&Mには伸びしろがあると接客しながら思う。
逆を返せば、それだけまだ集客が出来ていないと言うことにもなってしまうのだが……。
「あのモンスって何なのよ? 手だけとかヤバくね?」
「お前、ウィキペ見てねーんだ? 何か大昔のモンスらしいぜ」
「ないない、それはないわー」
並ぶダイバー達からはニャンラトホテプの噂ばかり聞こえてくる。
配信を見て駆けつけてくれた人、討伐依頼を見て来てくれた人、プロダイバーから学生ダイバーまで、D&Mは色んな人たちでごった返していた。
「あの子、マジヤバくね?」
「ちょ、声でけーよ」
「ヤバいヤバい、リアルであの顔はヤバいっしょ」
「読モとかじゃね?」
相変わらず花さんの人気も凄い。
今日は髪をアップに纏め、クラシックタイプの眼鏡、ゆったりとした薄いグレーのパーカーにショートパンツというラフな格好で、思わず真っ白な太ももに目が行ってしまう。
うぅ、見ないように気をつけないと……。
「それにしてもジョーンさん、あの手、一体何なんでしょうね?」
「え? あ、あぁ、うーん、猫屋敷さんが言うには都市伝説になったモンスらしいけど、その都市伝説を聞いたことがないんだよねぇ……」
「な、何ですかそれ」と、花さんが苦笑いを浮かべた。
俺はモニターに目を移す。
今、最下層ではコボルト軍団とダイバー達が争っていた。
レイドを示す紫の点は消えていないが、猫手は黒い雲の中に引っ込んだままだ。
猫型だけに習性も猫に似て飽きっぽいのかも知れない。
「ウチの大学でも教授達、この配信見てますよ」
「えっ⁉ マジで……?」
「はい、恐らく学会でも取り上げられると思います。何せ情報が無いモンスですから、私も急いで行ってこいって教授に言われたんですよ」
「そ、そうなんだ……」
「ふふ、私としてはラッキーだったかなって。間近で観察できるなんてこんなチャンス一生に一度あるかないかです!」
花さんは段々とテンションが上がってきたのか、仁王立ちになりメガネをくいっとかけなおす。
その姿を見たカウンター周りのダイバーたちも、つられたように一斉に色めき立った。
カウンター岩を抜け出て、俺は並びのダイバーさん達に、お茶とおにぎりの販売を行う。
お茶はサービス、おにぎりはコンビニの半額で設定した。
折角来てくれたのに、一回並びの列に入っちゃうと、買い物にも行けなくなってしまうのは辛い。
ごはんを食べずに慌てて来た人もいるかもしれないし、小腹が空いていたらレイドどころじゃなくなって楽しめない。
そんなお客さんのために、考えたのがこの駅弁スタイルなのだ!
俺は駅弁の販売員のように、「お茶はいかがっすか~、おにぎりは一個50DP後払いで~す、その他何かお困りならお声がけくださ~い」と列を回った。
「店長、お茶とおにぎり二個」
「あいよっ!」
「こっちお茶三つ」
「はいどうぞ!」
「おにぎり四個!」
「はーい、鮭で?」
「ジョーン、たこ焼きあるか?」
「いや、たこ焼きはさすがに……ってモーリー!」
振り返ると、懐かしいモーリーの姿があった。
列に並ぶダイバー達よりも頭二個分くらい背が高く、相変わらず金髪で彫りが深いせいか、これでカメラでも持っていれば陽気な外国人観光客にしか見えない気がする。
「ははは! 元気やったか! いやぁ~、ちゃんと店長してるやんか」
「そ、そりゃあね、レイドだし、へへへ」
「で、猫屋敷からは聞いてるけど、強そう?」
「うん……、今は引っ込んじゃってるけど、暴れてた時は誰も手が付けられない状態でさ」
「ふぅん、そりゃ厄介やな。ま、いっぺん見なわからへんけど、犬神さんもおるし、何とかなるやろ」
モーリーはそう言って笑うと、鮭おにぎりを取って美味しそうに頬張った。
カウンター岩に戻り、再び受付に戻る。
列の並びも大分減って、そろそろ初動客の入場は終わりそうだ。
「花さん、任せちゃって悪かったね」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ」
「状況はどう?」
「んー、今のところ、皆さん各フロアに散って時間を潰してるような感じですね」
「そっか、早いところ猫手が出て来てくれれば良いんだけど……」
レイドで肝心のレイドボスがいないなんて洒落にならない。
今はまだ皆待っていてくれるけど、これが続くとかなり厳しい気がする。
「はぁ~、やっと俺の番や」
「あ、お待たせ」
「どうも、お久しぶりです」
花さんがぺこりと頭を下げ微笑むと、モーリーは後頭部を掻きながら、
「お、あ、ああぁー、久しぶりやね」と照れ笑いを浮かべる。
俺はモーリーからIDを受け取り、デバイスに通した。
えっと、装備はと……。
・小狐丸(改) +831
+九尾の毛……幻惑無効
・豊穣の鎧 +220
あ、まだ使ってくれてるんだ……。
俺は小狐丸を見て胸が熱くなった。
おや、強化されてる……九尾の毛か、伏見でゲットしたのかな。
豊穣の鎧?
確かモーリーはヘビーアーマーを愛用してたと思ったけど。
「モーリー、ヘビーアーマーはやめたの?」
「ん? あぁ、あれな、防御力は高いねんけど、動かれへんやろ? めんどーなって変えてしもたわ」
「へぇ、これって使いやすい?」
「軽いし、丈夫やな。それに少しずつ体力が回復するんやーいうて、三島が言いよったわ。ホンマか嘘か知らんけど」
モーリーは装備を受け取り「ほな後で」と言って、奥にいる猫屋敷さん達のところに向かった。
「さて、そろそろ平子さんが来るかな?」
俺が呟くように言うと、花さんがピクリと反応した。
「あれ、今日、兄も来るんですか?」
「うん、島中で色々配達頼んだから」
「そうですか、何だか身内に見られるかと思うと照れちゃいますよね」
と、花さんが照れくさそうに笑った。
しばらくして、平子兄が配達に訪れた。
少し動きが固くなった花さんを気にする事もなく、平子兄は荷物を表に積み上げていく。
俺も一緒に夜の打ち上げ準備を始め、バーベキューセットや飲み物を用意した。
「もっと大変な事になってるかと思ったけど、意外に平穏だよね?」
平子兄が不思議そうにダンジョンを見た。
眼鏡がクラシックフレームでフレンドリー……、なので平子Bで間違いないと俺は判断する。
「そうなんですよ、今、肝心のボスが引っ込んじゃってて……あはは」
「配信見てたけど、かなり猫っぽいもんねぇ」
おぉ、平子Bも見てくれてたのか!
やっぱり動画ってのは強いな……。これは今後の宣伝方法も考えないと。
「そうだ! 良いものがあるから取ってくるね」
突然、何か閃いたように平子Bは走って行った。
どうしたんだろ?
特に気にせず、簡易テーブルなどを広げていると、平子Bが戻ってきた。
「はぁ、はぁ、お、お待たせ~。ジョーンくん、これ、良かったら使ってみて……」
平子Bは、インスタントコーヒーくらいの瓶を俺に差し出した。
「ちょ、平子さん、これ……」
ラベルを見ると、『猫ちゃん猛突進ニャ⁉ マタタビパウダー 300g』と書かれていた。
「ははは、いいでしょ? もしかすると効くかもしれないよ?」
た、確かに……。
あれだけ猫っぽいんだから、嫌いでは無い気がする。
でもなぁ、モンスだし……。いや、何事もチャレンジだ!
このままアイツが出てこなきゃウチの評判はガタ落ちなんだし!
「ありがとうございます! ちょっと試してみます!」
平子Bにお礼を言って、カウンター岩に戻った俺は、花さんにマタタビパウダーを見せて訊いてみた。
「……で、お兄さんから頂いたんだけど、どうかな?」
「うーん、正直、猫に近い姿形をしていても、あれは猫ではないですからね。試してみないことには何とも……、でも、試す価値はあると思います。貴重なデータも取れますし」
花さんが期待に満ちた目を向けてくる。
ぐはっ! ま、眩しくて直視できないっ!
「そ、そっか、じゃあちょっとリーダーに頼んでみようかな……」
俺はカウンター岩を出て、壁に凭れて座っているリーダーのところへ向かった。
「リーダー、調子はどうです?」
「おぅ、ジョーンか。マジでお前のおにぎり美味いよなぁ、店できんじゃね?」
もぐもぐとおにぎりを食べながらリーダーが言う。
「今日握ったのは、僕じゃなくて陽子さんです」
「ん? あぁそう? へぇー、余計に美味いな」
「……」
「で、どうしたよ?」
「あ、ああ、これどうかなと思って」
俺はマタタビパウダーの瓶をリーダーに見せた。
「おぉーっ! なるほどねぇ! やっぱジョーンは頭良いよなぁ!」
リーダーは宝物でも見つけたように、マタタビパウダーを振ったり、透かしてみたり、匂いを嗅いだりしている。
「いや、僕が考えたわけじゃないんですけどね、花さんのお兄さんに頂いたんです」
「そっか、よし! これであの手をおびき出せば良いんだな!」
「う、上手く行くかどうかわかりませんけど……」
「なあに、こんなもんノリだよノリ! 騒いでりゃ出てくんだろ? ははは!」
「そ、そうですね、あはは……」
リーダーのこの感じは見習いたい。
いつも苦境を屁とも思わないし、むしろ楽しんでいる。
あっけらかんとするリーダーを見ていると、不思議と何事も上手く行く気がするのだ。
「さぁ! そうと決まれば、猫屋敷くん達にも言っておくか。じゃ、ジョーンこれ貰ってくぞ!」
リーダーは奥に向かって走って行った。
「あ、はーい! 頑張ってくださいねー!」
コロナ関連で色々と大変な方も多いと思いますが、頑張ってください!





