ダンジョンに戻ってきました。
まだ暗い台所で、俺はおにぎりと緑茶をバックパックに入れた。
黒いマウンテンパーカーを羽織り外に出ると、少し湿ったような明け方の匂いがした。
裏山の向こうの空は、青白く光を帯び始めている。
こっちはまだ暗い。山が世界の境界線になったみたいだ……。
通い慣れたはずの獣道を歩きながら、何だかとても懐かしい気持ちになる。
「たった数日だったのになぁ……」
途中、目についたゴミを拾いつつ、フェンスを開けた。
ダンジョンに入り、カウンター岩に荷物を置く。
変わらない土の匂いに、どこかホッとする自分がいた。
早速、デバイスを立ち上げて、フロアをチェックする。
「えー、異常は……な、さ、そ、う、だなっと」
一通り、開店準備を終わらせた後、俺はデバイスをプレオープンモードに切り替え、コジロウをアイテムボックスから取り出す事にした。
『ガル……?』
ふっと、目の前に現れたコジロウは、キョロキョロと辺りを見回している。
別れ際に、ラッキーダンジョンの店主が着せた、皮のよろいが良く似合っていた。
「着いたよ、ここがD&M。俺が管理しているダンジョンだ」
『広い?』
キョトンとした顔で俺を見るコボルト。
「あぁ、前のダンジョンよりはね。十六階層で別ルートも入れると……、全部で十九フロアかな」
『ガル⁉ 前より広い?』
「う、うん。そう、すごく広いね。好きなフロアを探すのも良いけど、一番下に君と同じコボルトがいるよ」
『ほんと⁉ オイラ仲間見たことないガル!』
コジロウは尻尾を高速で振り始め、嬉しそうにダンジョンの奥へ走って行ってしまった。
「あ、ちょ……。ま、いいか」
――これでよし、と。
数日もすれば、他のモンスとの折り合いも付くだろう。
「ん、でも……ちょっと気になるよなぁ」
デバイスのビューから確認すると、コジロウが迷宮フロアのドアを片っ端から開けているのが見えた。
「ま、まぁ……、元気な証拠か。ははは……」
モニターを眺めながら苦笑する。
そうだ、花さんにも専門的な意見を聞いておいた方がいいよな。
忘れないようにメモしてっと……へへ。
俺は勉強会で買ったAXCISメモに、『コボルトの件、花さんに確認すること』と書いた。
軽く筋トレをした後、念入りにトイレ掃除をする。
改装までは現状のトイレを使うしかない。
なら、少しでも清潔にしなければ……。
――ふと、思いつく。
俺はデバイスのアイテムボックスから、以前使ったハッカーナの葉を取り出し匂いを嗅いだ。
「うん、いける!」
すり鉢でハッカーナの葉を磨り潰し、ペースト状にする。
しかし、本当にマジックミントに似ているなぁ……。
以前飲んで、大変な目にあった事を思い出す。
あんなのは二度と御免だ……、俺は思わずブルッと身体を震わせた。
「おっと、忘れてた」
メモを取り出して、自分の作業工程を記録していく。
習慣にすることが大事だと、我がマスター(勝手に言っている)小林さんも言っていたからな。
「よし、まずは……」
俺は『材料名』や『状態』『色』『時間』などの大項目を決め書き込んでいった。
いまいち何を書けば良いのか決めかねる部分もあるのだが、最初は大雑把で良いらしい。
何故なら、作業を重ねるうちに効率化され、無駄のないものになっていくからだ。
マスター曰く、それが自分の『型』となる……。
ゆっくりと目を閉じれば、遥か彼方の雲の隙間から、慈愛に満ちたマスター小林がゆっくりと頷きながら遠ざかっていく。
『ジョーンくん……自分を信じるのです……ジョーンくん……ジョーンく……ジョ……』
「マ、マスタァーーーーーッ!!」
さて、次にペースト状のハッカーナを少しずつ水で薄めていく。
途中、匂いを確認しながら、最適な割合を探り……。
「ちょっとずつ……ちょっと……お!」
真緑のペーストが、淡いエメラルドグリーンの液体に姿を変えた。
「良さそうだな」
空のスプレーボトルに液体を移し、試しにシュッと一吹きしてみると、辺りに爽やかな香りが秒で満ちた。
「おぉ! まさに狙い通り!」
まるで蒼林を思わせる、この若々しい清涼感――大自然の息吹。
これをトイレにシュッとひと吹きしておけば、簡易芳香スプレーの出来上がりだ!
その場しのぎ感は否めないが、現状ではこれが精一杯だろう……。
――さて、そろそろ開店だ。
***
――その日の夜。
D&M十六階層では、焚き火を囲む老齢のコボルトとコジロウの姿があった。
『なるほど、それでこのダンジョンに来たというわけか……』
『オイラもここで寝ていいガル? ワフゥ……』
眠そうな目を擦りながら、コジロウが欠伸をする。
剣を手入れしていたコボルトが、一瞬その手を止めた。
そして、再び焚火の灯りに剣を透かしながら目を細めた後、『好きにしろ』と立ち上がりながら答えた。
コボルトは剣を鞘に戻し、ベビーベロスのブラッシングを始める。
手慣れた様子で、リズミカルにブラシをかけていくコボルト。
乱れたダークピンクの毛並みが整い、徐々に毛艶が戻っていく。
ベビーベロスの真ん中と右の首は、半分眠ったままだ。
口をモチャモチャさせながら、地面に涎を垂らしている。
しばらくすると、左の首が『ムフーッ!』と気持ちよさそうな鼻息を鳴らした。
『あ、いいなぁー。オイラもブラッシングして欲しいガル~!』
コジロウが甘えた目で、コボルトにせがむ。
するとコボルトは、ブラッシングの手を止めコジロウに向き直った。
『お前、ブラッシングされる側で良いのか?』
『え……』
目を丸くして、言葉に窮するコジロウ。
『良いのなら、涎を垂らすまでやってやるが……。どうする?』
老齢のコボルトは肩を竦め、からかうような目でコジロウを見た。
『ぐ、ぐぅ……、オ、オイラ……オイラもう寝るっ!』
コボルトと焚き火に背を向け、コジロウは丸くなった。
揺れる炎に照らされたその小さな背中を見て、コボルトは小さく笑う。
寝ぼけたベビーベロスに鼻で背中を押され、
『あぁ、すまん、すまん』と、コボルトがベビーベロスの身体をぽんぽんと叩いた。
パチパチという焚き火の音、コジロウの小さな鼾。
シャッ、シャッというブラッシングの音が、真夜中のフロアに響く。
ダンジョンには静かな時間が流れていた……。