シルバー・グレー(3)
転校生が来て二日目にして転校生が休んだ教室の空気はひどくどんよりとしていた。
昨日の朝のざわめきが嘘のように思える。
やはり昨日、真樹が休んだと思われる直接的な事情を知っているみんなだからこそ、騒ぐ行為になれないのだろう。
そんな中でも陸斗は相も変わらず小説を読み耽っていた。右手でページを繰る。
陸斗がページ半分まで読んだところで横開きのドアは開かれた。入ってきたのは佐藤先生。
「きりつ、きをつけ、れい!」
クラス委員長の号令がかかる。揃って挨拶するが、やはり幾らかトーンが落ちているように聞こえる。
そしてみんなが席に着いたのを確認すると、佐藤先生は話し出した。
「今日は真樹君は休みです。昨日の熱が下がらなかったようなので今日まで休むようです。なので明日から仲良くしてあげてくださいね。では、今日の日程から――」
佐藤先生が教壇で事務連絡をしている中、ヒソヒソと話している声がした。
「真樹君が来てないってアレのせいだよね」
「絶対そうだよ。たぶんアレがひどかったんじゃないかな」
二人して何の話をしているかが大体は検討がつく。
おそらく、昨日の甲斐の言い放った言葉に傷ついて真樹は来れない、ということだろう。
そして二人でアレアレと言い交わしながら視線をこちら側――陸斗ではなく、その前の席――に向けてきた。
「ん?」
二人の視線に気づいた甲斐は振り向くが、それに反応して二人はすぐに視線を逸らす。
いつも人気者である甲斐からしてみれば初めての経験だったのかもしれない。甲斐が視線を送れば、挨拶や返事、会話の糸口などが返ってくるが、無言で視線を逸らされる――無視されるのは初めてではないだろうか。
甲斐は何事もなかったように前を向いた。
表情には表れてなかったが、胸中では憤怒や悔恨が渦巻いているだろう。
その証拠に左拳がギュッと握り締めたのを陸斗は見逃さなかった。
――十二時半。給食の時間。
今日の給食の時間に陸斗の前には誰もいない。真樹が休んだことで班のメンバーは三人になり、班の形が鏡写しのLの字になっている。
班員が一人いないのに甲斐と駿は相も変わらず笑い混じりの会話が飛び交っていた。
それに一瞥もくれることなく、食事を進めていたのだが、やはり我慢できなかった。
「なあ、古賀。なんで昨日、真樹にあんなこと言ったんだ?」
体は向けることなく、フォークでパスタを巻きながらそう尋ねた。
それがおしゃべり中の甲斐の耳にも入ったようで、
「あん?」
と返してきた。
甲斐は訝しげな表情で首だけをこちら側に向ける。
「皐月から話しかけてくるなんて珍しいじゃねーか。あんなことって何のことだ?」
甲斐の茶化しにもめげずに陸斗は続ける。
「あの"混血児"って言葉だよ。古賀は知ってて言ってたんだろ? それが差別用語だってことを」
"混血児"というワードが出てきた時、教室の空気が変わった気がした。
周りのおしゃべりが少しずつ減っていく。昨日はそこまでなかったのだが、反応する人が増えたということは陸斗と同じように誰かに聞いたのだろう。それが今の真樹を傷つける暴力的な言葉だということも知ったはずだ。
いくら小学四年生といってもこの言葉を人に言えば、傷つくかそうでないかくらいの区別はつく。それを知っていて転校初日の真樹に向けて使ったのが陸斗には許せなかった。
甲斐はニヤリと口元を吊り上げた。
「ああ、知ってるぜ。なんせ、外国ではよくある事なんだからな。今更日本でもそう珍しくないだろーさ」
外国では、を強調する甲斐の言葉に世の不条理を訴えた。
「外国がそうだからって、日本人がその悪い習慣を見習っちゃダメだ」
「もっとワールドワイドにいこうぜ。今じゃ、世界のどこにでも差別くらいあるじゃないか。それはそこに在るべきだからこそあるんだろ? 言うなれば必要差別ってやつさ。それが、たまたま、日本のうちの学校で、転校初日のアイツだったわけさ。世の中の真理とも言えるかもな」
雄弁に語る甲斐の言葉に陸斗は一つも共感できなかった。
いつもであればクールに流すのだが、今はそれさえもできない。むしろ、この胸の奥から込み上げてくる憤怒をどこにぶつければいいのか探しているまであった。
ついぞこんな気持ちになったことはない。いつも人と関わらず、全てを自分の中に押し込めていたのだから。
それが今、抑え切れないほどに溢れそうだ。それも自分のためではなく、他人のために。昨日やってきて、まだ一言も話していないのに何故自分はここまで他人のために怒りが込み上げてくるのだろう。
胸中に渦巻く妙な感覚に突き動かされ、つい口を開いてしまう。
「やっぱり、お前、嫌なやつだな」
一言、そう口が滑ってしまった。いつもは押さえ込む感情が蓋を開けてしまったのだ。
甲斐の右拳が強く握り締められる。無骨なモーションで陸斗に向かって振りかぶった。
それに気づいた時には既に拳が目の前に迫り、回避することは不可能だった。
頬への激痛と共に眼前が暗転し、気を失った。
次に目を開けたときは天井から垂れ下がる白幕の内側だった。
突然、その白幕が裂けた。
「ああやっと起きたのね。心配してたのよ」
白幕の裂け目からやってきたのは白衣を羽織った女性だった。
「せんせ……いたっ」
頬の激痛により陸斗の言葉は遮られた。そっと頬に手を触れるとさらさらとした布地が感触として捉える。
「まだ痛い? 口の中切っちゃってるからね。あまり刺激物になるようなものは控えるように。まあ口の中だからすぐに治るだろうけど」
そう言うと白衣の先生は白幕に手をかけ、横に引いていく。
すると、今まで遮られていたオレンジ色の陽光が差し込んでくる。
軽く目を細め、周りを見回した。室内が陽光のせいでオレンジ色に見えるが、物ははっきりしている。
正面の奥にはいろんな薬や包帯が仕舞われているショーケース、先生のものと思しきデスク、陸斗の寝ていたベッドの傍に誰かが持ってきてくれていたランドセル。ここは保健室だとすぐにわかる。
「先生、僕帰ります」
外の明るさを見る限り、夕方の五時ごろといったところか。校内の生徒はみんな帰ったころだろう。
陸斗が立ち上がろうとしたとき、突然視界が暗くなった。足がよろめき、腰がそのままベッドに落ちる。
「大丈夫? ずっと寝てたから眩暈がするのよ。ほら、肩貸してあげるから」
先生は陸斗の腕を引っ張って勢いで立ち上がらせた。まだ頭がくらくらするが、なんとか立ち上がれるくらいにはなったようだ。
「先生、ありがとうございました」
そう言って立ち去ろうとしたとき、不意に先生に呼び止められた。
「聞かないの? その頬の傷のこと」
「いいです。元はといえば僕が悪いので」
陸斗は先生に振り返ることなく、保健室を後にした。
生徒が一人いなくなった保健室には二人の人影が残っていた。
先生はデスクに据えられているイスにもたれかかる。ギシィと音を立てるが、決して先生が重いわけではない。
「もう出てきてもいいんじゃないの?」
先生はどこに向けたわけでもなく発した。一人いなくなった保健室に綺麗に響く。
すると、その声に反応してさっきまで陸斗の寝ていたベッドの横の白幕が左右に引かれた。
中から現れたのは肩まで伸びるサラリとした銀髪、灰色の瞳を持つ少年だった。
「先生、僕……」
「いいのいいの。君は何も悪くない。悪いのは殴った古賀君と言葉を発した皐月君なんだから」
「でも、僕のせいで皐月君が殴られて……」
パチン、と真樹の額が弾かれた。その弾かれたところを押さえて目の前の先生を見つめる。
「だ~か~ら~、君は悪くないの! ああなったのは皐月君のせい。あの子だけの責任なの。他の誰も背負うことのできないものなのよ。……それでも、何かしてあげたいって思うならそれでもいいんじゃないかしら」
真樹は陸斗の殴られた一連の状況を少なからず教えてもらっていた。
そして真樹は朝から保健室に登校し、担任の先生にも今日だけ休んだことにしてほしいと言っていた。
しかしそのせいで今日陸斗が殴られたことになってしまった。真樹はずっとそのことを気に病んでいたのだ。
「僕、明日皐月君のために何かしてあげたいと思います!」
「うん、がんばれ!」
真樹は先生に一礼し、ベッドの上に置いてあるランドセルを引っ掴んで保健室を足早に出て行った。
今度こそ一人になった保健室の先生は一つ溜め息をこぼした。
「……若いなあ……」
里村響香、三十二歳、独身の独り言は幸い誰にも聞かれず、窓から入ってきた風にさらわれて消えていった。
もう何話まで続くのか分からなくなってまいりました。
それでも良いと言うのであればこれからもお付き合いください。