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思考の行く末

作者: 根谷司

 私の前を、三人の小学生が走り抜けて行った。


 春。出会い別れの季節だ。客説ぎゃくせつ的に出会い別れをしなければ春では無いと言えるかもしれない。


 皆はどうだっただろうか。今年の春、どのような出会いを果たし、いかなる別れを惜しんだか。さっきの小学生達は、出会ったばかりなのか、それとも去年からの延長された関係なのか。


 別れは出会いの始まりと誰かが言ったが、しかし私は思うのだ。例えば別れに傷付き、別れを恐れてしまった者は、ならば始まりを失った、終わってしまった人間だという事になるのではないか、と。私はそう考えるのだ。逆に、出会いが別れの始まり、というのも同じ事が言えるだろう。


 出会う事を諦めた人間にも出会いは訪れる。それこそインターネットに触れず、テレビも付けず、当然部屋から一歩も出ないという生活をしていれば一切の出会いから回避可能だ。しかし、職場、学校、道端、全ての場所に出会いがある。会話などしなくとも、どこぞの店員と向き合っただけだとしても、それはひとつの出会いだ。他にも、アニメやドラマ、そういう創作の物語にも言える。俗にヲタクと呼ばれる熱狂的ファン達は、理想的な物語を見つけると「出会った」と言うらしい。出会いとは人間に限ったことではないのだ。


 だから、誰かと話すことの無い私にも、出会いはあるのだ。


 人間と話すことが出来ない私にだって、出会うものはある! つまり私にも、春は来る! 春は来るのだ! 


 ああしかし、さっきの小学生達が三人でバスケを始めている。羨ましい。なんと仲が良いことか、そしてなにより、なんと活発な事か。私には、あんなふうに動き回る事が出来ない。私もああいうふうに、運動がしたい。どうすれば私にも運動が出来るかは知らないが、運動というものがなんなのかは知っている。


『身体を動かし(以下略)』


 もういい。もう関係ない。身体の動かない私には知っている意味が無い。


 なにせ私は銅像だ。


 なんと言っても通称『考える人』だ。


 皮肉だ。私は彼等の思惑にはまり、考える事しか、思考する事しか出来ないからそうしているだけだというのに、まるで私が、初めからそのためだけの存在だったかのようにされている。


 仕方なしにと考える。今日も私は考える。


 どうでもいいから誰か、私の上に山積みの、この桜の花びらをどかしてくれないか。

読んでくださりありがとうございます。ぶっちゃけ、他サイトからの転載ですが、やってる事が同じというだけで、文章は結構変えてます。


キーワード検索で『モノモノシリーズ』と入力してくれたらこれと似たような短編が出てきますので、もしよければそちらも覗いてみてくださいね。


ではっ

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