表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

三,黒と火と神

「どうぞ」


キリスト教徒はあたしの掌に、真っ赤な林檎を乗せた。


どのくらい太陽の下にさらされていたのだろうか、さすがに少し萎びてしまったように思える。

それでも、手に心地好い重みは変わらない。



蝉の合唱を背後に、あたしは今一度教徒を見上げた。


林の外は、太陽が容赦無く照りつける。折角少し冷えたお互いの肌も、温い汗を滲ませ始めていた。



教徒はシャツの袖を肘の上まで捲り上げ、ズボンと揃いらしい黒い上着を左腕に引っ掛けている。

おそらくその上着を枕にして、あたしは横になっていたのだろう。



「あと、これを」



黒い上着の端を両手に持って広げると、教徒はそれをあたしの頭からそっと被せた。

視界が狭く制限され、やわらかですべすべとした裏地の感触と、再び陰の中に包まれる。



「陽避けです」


今度からは帽子を被らないといけませんよ。


教師のような口振りで、やんわりとあたしを叱る。



キリスト教徒とは、皆こんな人達なのだろうか。




「……明日」


今日のあたしはよく喋る。


「また、公園に来る?」


教徒は少し考えるように、ほんの僅か頭を傾ける。


「−−−ちょっと、わかりません」


「これ、返すから」


肩に垂れた上着の袖を摘む。



教徒は首を振った。


「夏の間は着ても暑いし、ほら、帽子もありますから」


気付かなかったが、左手に持った丸い帽子を被ってみせる。やはり黒い。



「じゃあ、冬が来たら?」


「あぁ、それは少し寒いかもしれません」


目尻にくしゃりと皺を寄せて、教徒は笑う。



あたしは気付いていた。教徒が上着を取り戻そうとはしない事を。




なぜなら。




「……着るもの、困ってないだろ、あんた」



あたしのような小娘にも知れるほど、上着に上等の生地が使われている。おそらくズボンや帽子も同様だ。


そして敢えて帽子ではなく上着を『陽避け』に選んだのも、冬に備えた上着に困っていないからだ。




キリスト教というのは、そういうもののような気がする。




教徒は照れたように頭に手を遣り、困ったように少しの間黙った。


そして、



「貴方は、賢いですね」



言い訳をした。















みかんがひとつ、こちらへ飛んでくる。


受けとめた途端、掌にみずみずしさを感じた。



「食いな」


稀典爺さんはどこか不機嫌そうに言い渡して、木片を焚き火に放り込む。



上着を被ったまま、みかんを両手に包んだまま、黙ってつっ立っていると


呆れたように、ため息と一緒に煙を吐いた。



「何も食ってねぇんだろが」




爺さんは何でもお見通し。



隣に座って焚き火と向かい合い、諦めてみかんの皮を剥いていく。


あたしと爺さんと焚き火の空間は、たちまちみかん独特の、甘酸っぱいやわらかな香りで満たされた。

焚き火でやわらいだ闇に、煙管の煙と一緒に染み込んでいくようだ。




ここのところ、野犬にやられて死ぬ者が多い。

爺さんは傾いた果物屋の前で火を焚いて、夜を過ごす。


あたしはその死体を見たことはない。見る前に、きっと憲兵が片付けてしまうのだろう。

今のところ、憲兵の仕事はそのくらいでは無かろうか。




夏の夜に火にあたって、決して涼しいとは言えないが、あたしは上着を被ったまま、みかんの実をひとつ口に含む。


水気が口内に溢れる。みかんというのは水気が多すぎて、味が薄まっているようにも思える。

林檎に比べると貧相かもしれない。




「復興の目処が立つらしいぞ」


思い出したように爺さんは呟いた。



あたしが持つはずない、上等な上着については何も言わない。

爺さんの、そういうところが好きだ。

しかし今は、少し聞いてほしいかもしれない。




施しではなく交換したのだと、

そう聞いた爺さんが何と言うのか聞いてみたかった。



だが、

「何も食ってねぇんだろが」

そう言った時点で、林檎の行方を知っていたのかもしれない。


爺さんはたぶん、そういう人。




「やっと少しは住みやすくなるかね」


爺さんは煙管をくわえたままおもむろに立ち上がると、背後の果物屋からみかんをもうひとつ取って戻ってきた。

皮を破り破り剥く。爺さんは意外と不器用だ。




住みやすくなる



そうかな、と呟いてみる。



あたしはこれからも爺さんと暮らすつもりだった。

誰も居ない家は、野犬の巣になれば良い。






ぱちぱち、


火種を食べながら、焚き火は火の粉を吐いている。


夕焼け色の小さな軽い粒は、夜風にあおられ、闇に溶ける。


火の照らす範囲は狭く、あたしと爺さんだけが、闇に溶けずにぼんやりと浮き上がる。




夜は、益々、あたしと爺さんだけのように思えてしまう。






「この国が慢り始めたのは、いつから?」


自分でも唐突だと思ったが、ぽうと頭に浮かんだそれが、つっかえることなく口をついた。


「二つ前の戦争からだ」


爺さんもつっかえることなく答える。


「あれからこの国は味を占めた」


「勝てば、儲かるから?」


爺さんは頷く。




父さんが教えてくれたのを思い出した。


どうして戦争が起こるのか


何を手に入れられるのか


そして国民は何を失うのか




「国が、一人歩きしとるんだ」


爺さんは、かつて左耳があった場所を掻いた。




「幸徳殿は、それを嘆いておったのだろう」




その名前を聞くたび、あたしは、


はっ


としてしまう。




幸徳。




幸徳秋水。




彼は、処刑されたと聞いた。









《神の御加護を》




不意に、あの教徒が別れ際に囁いた台詞がよみがえった。




神の御加護を。



神の御加護を。




神の御加護が、どうしたというのだろう。



“幸徳さん”に、御加護があったというのだろうか。




「あぁ…すまんな、」



秋水(あきみ)




膝を抱いて顔を伏せると、上着の中が真っ暗になった。









あたしは、


あの人に、死んでほしくなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ