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二,蝉と水とキリスト





声が、していた




《…もし……が……》




遠く、遠く




《ば………ことを…》




よく、聞こえない




《たのむ………》




でも




もっと、聞いていたい










「……、お嬢さん、」



……お嬢さん?




目を開けると、はっきりしない視界が、どうも薄暗い。


日が陰ったかと思いかけたが、すぐさま耳に流れ込む音の洪水にその考えは押し流された。



蝉。


蝉の声の中に居る。



「お嬢さん、大丈夫ですか?」


大合唱の合間を縫って、静かな声がそっと、あたしに届く。


そっと、肩を叩くものがある。






鮮明になっていく世界は、深い緑に包まれていた。

真夏の陽の光をやわらげる木の葉の屋根。

陽の強さの分だけ深い影がひんやりとして、心地好い。



「嗚呼…良かった」


隣で勝手に安堵している者が居る。



そちらを向こうとするが、どうも頭をうまく動かせずに、視線だけを出来る限り、声のする方へ向ける。




黒いズボンと、白いシャツが見える。

顔の輪郭も見えるが、木陰に誤魔化されて細部はぼんやりとしている。



「熱中症でしょう。今日は特別暑いですから」



黒と白の影は呟きながら身じろぎして、背中の下に手を差し入れてきた。


腕が背中を通る感触はあまり気持ちの良いものではなく、小さく呻きを洩らす。構わずに手は反対側まで通ったらしく、肩を包まれる感覚がある。



腕に支えられて、ゆっくりと上半身が起こされる。

中途半端な傾斜をつけられた状態で、口元に小さな水筒の口があてがわれた。



僅かに水筒が傾けられると、冷たい水が口内に流れ込む。


ほとんど条件反射的に喉を波打たせると、食道を冷やしながらするりと水が伝い落ちる。

二度三度繰り返されるうちに、頭も冷やされて、感覚や思考がはっきりとしてきた。




熱中症、と、白黒の影は言った。

太陽が昇りきるのにも気付かずにぼんやりとブランコに座っていたあたしは、そのまま陽の熱さにやられて倒れたのだろうか。

ここはおそらく、公園を囲む林の中だ。


再び横たえられると、やっと背中に土を感じる。


同時に、後頭部を包むやわらかな布らしき感触も。



「喉が乾いたら、言ってください」


また静かな声がした。

穏やかであるのに、熱い蝉達の叫びに屈することなく耳に届く。


こんな近くに居るからだろうか。






久しぶりだ。


爺さん以外が、こんなにも意識の中に居るなんて。



無遠慮に視界に入ってくる憲兵とも違って、あたしが嫌がればすぐさま意識の外へ退くような

そんな気配だ。







静かだ。




木々と、蝉の歌に守られた聖域だ。




この影が、誰であっても良い


何であっても良い






満たされた気分で、もう一度目を閉じる。










ぱらり










ぱらり






小さな音が気になって、また目を開けた。


今度はもう少し身体の自由が利いて、頭を影が居る方へ向ける。




本だ。



手帳のような大きさの、辞書のように分厚い本。


表紙を支える指は、多少骨張ってはいるがすらりと長い。




「何……」


爺さんと話す以外では、ここ最近初めて声を発した。


影は−−−否、もう冴えた視界の中で、木陰の中で白く映えるシャツのその人は、こちらを向いたようだ。



「その、本……」


蝉の歌に負けて、かき消されそうなあたしの声を、



「聖書ですよ」


その人はそっと拾い上げた。




視線を上げる。




ちゃんと、顔つきが伺える。




三十と言われればそのくらいの年頃と思われる、思ったよりも意志の強そうな、けれど微笑んでいるせいでやわらいだ目元の男だ。




「馴染みがありませんか?」


深く静かな声に、あたしは縦に首を振る。ほんの僅かしか動かせないが。



「知り合いに…キリスト教のひとが居たけど」


ゆっくりと、しかし普段より遥かに饒舌に


「…読んだこと、ない」


あたしは声を発する。言葉を紡ぐ。


「イエス様は……優しい神様だと思う?」



教徒は微かに吐息を震わせて、笑った。



「もちろんです」




貴方にも、神の御加護はありますよ




あたしも笑う。

けれど、あまり巧くは出来なかった。









「嘘。」

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