一,林檎と瓦礫と空
実在の人物名のキャラクターも登場しますが、容姿・性格等はイメージによるオリジナルです。また年代のズレ等、歴史に即さない部分が多いですが、ご容赦ください。
本当に、綺麗なくらい真っ赤で、上等な林檎だ。
こうして手に持っているにしても、すべすべと手触りが心地いい。そんな表皮の下に、しっかりとした果肉を感じる。水を貯えた、固く逞しい果肉なのだろう。
鼻先に近付けると、ほんのりと甘酸っぱい香りが漂っている。言うなれば清潔で毅然とした、そんな林檎の香りだ。
果物屋の爺さんは相変わらず器が大きい。
こんな時、あたしのような孤児に恵んでいる場合じゃないのに。
この国は慢り過ぎたのだと
林檎をくれる時、爺さんは呟いた。
戦争が終わってから、五度目の
震災が起きてから、二度目の夏を迎える。
まだ、街は瓦礫の山だ。
あたしの家は残っていたけれど、もう何処でどう暮らしても同じだと気が付いて、出てきてしまった。
稀典爺さんの果物屋は奇跡的に、辛うじて開けるぐらいに程よく半壊した。
今もどうにかこうにか果物を売りながら、のんびり煙管なんかふかしている。
爺さんは格好良い。
林檎を食べることも躊躇いながら、あたしは公園に向かった。
ぼこぼこに隆起した道を、瓦礫を避けたり踏み越えたり、地割れのようにぱっくり開いた割れ目を飛び越えて行く。
まだ朝方なので太陽も昇りきっていない。涼しくは無いが、汗をかく程でも無い。軽い足取りで、岩山のような道を辿っていった。
手にはしっかり、林檎を握り締めて。
ぼろぼろの街には誰も居ない
…そんな訳は無いのだが、あたしは誰も自分の意識の中に入れなかった。
みんなだって、あたしには気付かないだろう。
この瓦礫の山を、余力のある人は何とかしようと働き掛け、そうでない人達は、ただその中で生きていくのに忙しい。
あたしを意識できるのは稀典爺さんだけだし、
あたしが意識できるのも稀典爺さんだけだ。
だから今のところ、この街にはあたしと爺さんしか居ない。
否、そうでもなかった。
“意識しようと意識し”ようがしまいが、問答無用で意識の中に飛び込んでくるものは、ある。
居れば必ず視界にこびりつく
暗い緑色の制服
ふと気付けば、今日もあちこちに居る。
瓦礫の街を歩き回って、おそらくは仕事をしている。見たところは歩き回っているだけにも見える。
そういうところは蟻に似ている。
憲兵達は、今、この街の支配者に等しい。
彼らはこの混沌に紛れた犯罪者を取り締まり、惑う人々を律し、守るのだという。
国が彼らにそれらの権限を与えた。
だから、彼らはこの混沌の中では
人を殺しても許された。
でも、もう良い。
あたしは足を止めることなく、彼らから目を逸らした。
公園の名前を印す碑は地面に寝転がったままだ。
木は強くて、大方はなんて事も無い風に小さな森を保っている。そんな強い森に囲まれた、小さな公園だ。
一番奥まった場所へ向かう。
斜めに傾いたブランコが、何とか踏張っている。
斜めに傾いた板に座って、鎖にしがみつく。
やっと、あたしが知る場所に落ち着いた。
この街は、今はもう知らない街だ。
震災が起きる前は確かに、あたしが住む場所だった。
同年代の友達はあまり居なかったけれど、近所付き合いはそこそこあったし
悪くない街だった。
もう違う。
でも、この公園は−−−
父さんに抱っこされて滑った滑り台は倒れているし、母さんに押してもらったこのブランコだって、隣の座席は鎖がちぎれて落ちているけれど
何故か、ここだけは落ち着ける。
父さんと母さんの影が、少し残っているのだろうか。
二人は、もう居ないけれど
乾いた生温い風が吹く。
粉塵を含んだ苦い風は、この街中を吹き渡っている。
風の流れを辿って、空を見上げた。
突き抜けるような、凛とした空の色。
厳しいほどに青いけれど、やわらかくこの街を包んでいる。
あたしの事を、忘れた街を
林檎の香りが、うっすらとあたしを包み始めた。