三年5
高屋は予備校で物理の授業を受けていた。
黒板の前では眼鏡をかけた講師が単振動と円運動の関係を説明している。
そう言えば大分前に学校の授業でもそんなことを言っていたなと思い出していたが、内容はほとんど入っていなかった。
等速円運動を一次元的に見れば単振動と同じ挙動を示すと言われてもそれがどうかしたのかと訊き返したくなる。
それでも、一応真面目に板書を取ることにした。
元々、高屋にとって物理は一番好きな科目だった。
物理が好きと言うよりかは、学校の物理の先生が好きだった。
最初はあまり興味がなかった物理もその先生が、変化球が曲がる理由は実は回転により生じるボール表面の気圧差によるものだとか軟球の表面の凹凸があるために空気抵抗が少なくなるとかを教えてくれたことで興味が湧いた。
身近なこと、それは高屋にとって野球だったのだが、それと結びつけて説明してくれると楽しくなってきたのだ。
それらのことを野球部のみんなに説明すると感心されたのを覚えている。
だがそれはあくまでも力学の分野に限ることで、大きく分ければ高校物理には他に波と電気がある。
力学には興味を示せたものの、他は全くだった。
波の授業が始まると自然と脱落していった。
赤点ギリギリの高屋に先生は何とか興味を持たせようと色々な話をしてくれたのだが一切記憶には残っていなかった。
今では力学の一分野であるはずの単振動や円運動すらも理解出来なくなってしまった。
授業が終わり帰宅しようと予備校の玄関まで行くと野球部の後輩が立っていた。
名前は松木と言って今は二年生だ。
ポジションはキャッチャーで一年の秋からレギュラーを張っていた高屋を尊敬していていつも部活中は付いて回ってきた。
そんな松木を高屋は弟のように可愛がっており、自分の後のキャッチャーはこいつにしてくれと監督に頼んだりもした。
その甲斐あってか今ではレギュラーとなっていた。
「あ、どうも高屋さん。今から帰りですか?」
松木もこちらに気付き手を挙げている。
「そうだよ。やっとあのめんどくさい授業が終わったよ」
こういう愚痴を言うと気が少し晴れた。
「でも、もうそんなことも言ってられない時期でしょ? 受験まで半年ぐらいしかないんだし」
「それはそうだけどさ。お前こそ予備校通いは早すぎるだろ。部活もやって予備校通ってじゃ、そのうちパンクするぞ」
聞いた話では高屋が通い出すのよりひと月ほど前から通っていた。
「俺もそう思うんですけど、親がどうしてもって言うんで。野球部って他に比べると引退の時期って遅いでしょ。だから今のうちからじゃないと間に合わないって言うんですよ。最後には、野球やりたければ予備校行けとまで言ってきたりしたんですよ。もうこれじゃ脅迫でしょ?」
松木はうんざりした顔になった。
どこも同じなんだなと少し仲間意識が芽生えた。
「そうだ。今のうちからじゃないと間に合わないぞ」
「高屋さんに言われたくないですよ。さっきは早すぎるって言ったくせに。まあ、高屋さんは選抜コースだからやれば出来るんでしょうけど、俺たちみたいな普通科の生徒は今から必死ですよ。元がそこまで良くないのに期待だけは大きいですから」
「確かに俺はやれば出来る子だが、それでもなかなか苦労している。早めに手を打っておいた方が無難かもな」
「何、自分で出来る子とか言っちゃってるんですか。お世辞ですよ。真に受けないで下さい」
松木は苦笑している。
「冗談だよ。お前こそ真に受けるんじゃない」
そこで、松木は周りに誰も聞いてないことを確認して声をひそめた。
「高屋さん。その顔の怪我大丈夫なんですか? なんか今日、いろんな噂を聞いたんですよ。他校と大喧嘩をしたとか、やばい犯罪に巻き込まれたとか」
「やばい犯罪って何だよ。心配するな。自転車で転んだだけだ」
「学校にもそうやって説明したんですか? そんなの絶対に疑われますよ」
「え? そうなのか?」
「そりゃそうでしょ。自転車で転んで、顔から落ちるなんてそうはないですよ。しかもよりによって高屋さんがそんなことになるなんて誰も信じないですよ」
「買いかぶりすぎだ。俺だってたまには顔から落ちる」
「ないですよ。まあ、言いたくなかったらこれ以上は訊きませんけど本当に大丈夫なんですか? それだけは訊いときたくて。変な噂とか聞いて心配だったんで」
「大丈夫だって。気にするな。そのうち時期が来たら教えてやろう」
「ほら、やっぱり何かあるんじゃないですか」
松木とはそこで別れた。
駐輪所に行って自転車に跨る。
それにしてもあの嘘はばれていたのだろうか。
そうなってくると明日、学校で色々聞かれるかもしれないな。ちゃんと佐々木に相談してから言い訳を考えればよかったと後悔した。
佐々木と言えば今日はいつもと違う道から帰れと言っていた。
そう言われると余計に昨日の公園に行ってみたくなるのが人間の性である。
だけど、今日もまた昨日の奴らがいて、いざこざがあるとそれこそ言い訳が出来ない。
佐々木は何と言ってくるだろうか。
色々葛藤があったが、結局は公園には行かないことにした。
だけど、遠くから様子を見るくらいならいいだろうと思い、近くまでは行ってみようと思った。
それぐらいはしないと気がおさまらない。
公園の近くまで来ると、やはりどうしても中に入りたくなってしまった。
あと少しぐらいいいだろう。
もう少し、もう少し、としているうちに入り口まで来てしまった。
そこで我に返り、これはさすがにまずいなと思い、引き返すことにした。
そこでふと、背後に何か気配を感じた。
驚いて振り返るが誰もいない。
何か気持ち悪いなと背中に冷や汗がすっと流れた気がした。
振り返ったままじっと辺りを見回すが何も見当たらない。
大きく深呼吸をして目を閉じる。
そして目を開ける。
「やっぱり気のせいか」と声に出してみたが、恐怖感は拭えない。
急いで自転車のペダルを踏んで逃げるように引き返した。