三年2
SHRの終了と一限目の開始を告げるチャイムに佐々木の意識が現実に引き戻された。
今日の一限は木島の数学の授業だったので、間髪入れずに授業が始まる。
既に高校で習うべき単元は全て終了しているので、最近はひたすらに過去の入試問題を解いている。
そうした授業を一限目から四限目までこなして、昼休みになった。
昼休みには大半の生徒は食堂に行くので、教室には四十人近くいた生徒が十人ぐらいしか残らない。
佐々木たちはわざわざ食堂に行くのは煩わしいので、いつも一緒に佐々木の席に集まって家から持ち寄った弁当を食べている。
そこで高屋は改めて、自分が襲われた事件を話題にした。
この時までこの話題が話に出てくることはなかった。
佐々木はあえてその話題を出さないようにしていたし、他のクラスメイトも一度聞けば、興味を失ったのか、朝以降休み時間になっても誰もそのことを聞こうとしなかった。
唯一、休み時間に一度、高屋が顔の怪我について生徒指導の先生に呼ばれたのだが、自転車で転んだと嘘を吐いたみたいだ。
「今から俺たちはどうすべきだろう?」
興奮した面持ちで高屋が言う。自分が怪我を負わされているのに本当に楽しそうだ。
「どうするも何も、今は静観するしかないだろ。とりあえず、お前が警察に届ける気がないなら、今日はいつもと違う道から帰った方がいい。朝はあの事件の犯人と間違われたんじゃないかとか言ったけど、あれは冗談だよ。普通に考えれば制服を着た高校生を犯人と間違えるわけがないし」
的外れに思っていた最大の理由はこれだった。
車を使用している犯行なのに高校生が犯人である可能性は極めて低い。
女が何かされたというだけで、強姦事件と結び付けるのは短絡的過ぎる。
「あの事件とは関係ないかもしれないが襲われたのは事実だ。何もしなかったら、何も分からないままだろ」
高屋が食ってかかってくる。
「何も分からないのに何をするんだよ」
「何も分からないからこそ何かしなきゃダメなんだろ」
「だからまずは、お前が狙われたのか、それとも誰でもよかったのかを見極めなきゃいけないだろ。そのためにはしばらく様子を見なきゃいけないんだ。もしお前が狙われてたなら、その時はどうするか考えよう」
高屋は少し不満げな様子で何かぶつぶつ言っていたが、最終的には渋々納得したようだった。
そして佐々木は一番気になっていたことを聞いてみた。
「それで、お前を助けてくれた人はどんな人だったんだ?」
高屋はばつの悪そうな顔になった。
「それが、俺が立ちあがったときには、もういなくなっていたんだ。そのままそいつらを追いかけて行っちゃったからさ。だから俺はどんな人だったかなんて知らない」
「叫びながら近づいてきたんだろ。声に聞き覚えとかもないのか?」
「全く」
高屋は目を閉じて首を振っている。
佐々木は暴力を受けている高校生を助けるような大人とはどんな人物だろうかと興味があったので、高屋の答えにはひどくがっかりした。
そんな佐々木とは対照的に由利は目を輝かせて言った。
「でも、かっこいいよね、そのおじさん。本当に正義のヒーローみたい」
「渋いよな。多分、そのおっさんはピーター・パンだな。ピーター・パン症候群」
高屋がそれに答える。
佐々木はピーター・パン症候群の使い方を間違えているのに気付いたので間違いを指摘することにした。
「ピーター・パン症候群は、大人になることを拒否して、精神的に成長しようとしない大人を揶揄する言葉じゃなかったっけ。この場合は、相応しくないだろ」
佐々木の反論に負けじと高屋も反論する。
「お前は分かってないな。今ではピーター・パン症候群は褒め言葉としても使われるんだぜ。子供心をいつまでも忘れない大人を指すんだ。最初は間違った使い方でも、みんながその使い方をすると、それは正しい用法になることだってあるだろ。確信犯なんてその代表格だ。確信犯を間違えた使い方しても、文句を言うのはどっかの偉い人だけだ」
言い終えた高屋はしてやったりという顔をしている。
その表情は腹立たしいが、高屋の意見もあながち間違いではないので佐々木はそれ以上の反論はしなかった。
「わかったよ。でも試験の時にそう答えたら、間違いにされるから気を付けろよ」
その後、一瞬の沈黙があり、高屋が話を切り出す。
「やっぱりさ、今すぐ行動に移した方がいいんじゃないか? 思い立ったが吉日、というだろ。今日もまた、あいつらがあの公園に現れる可能性はかなり高いと思う。昨日は不意打ちだったからやられたけど、襲われると分かっていれば何とかなると思う。それに今日は二人だしな」
思い立ったが吉日、なんてよく出てくるなと思ったが、おそらく最近、漫画か本で見かけたのだろう。
「急がば回れ、ともいうだろ。相手も昨日と同じ方法で襲ってくるはずがない。出方が変わるのはお互い様だ」
今さっき日本語の正しい使い方を議論したばかりで、すぐに慣用句の言い合いをするのはどこか歯がゆさがある。
「それよりもお前を襲った相手はどんな奴なんだ? まさか、それも分からないってことはないよな」
高屋は最後の言葉に少し機嫌を損ねたようだ。
馬鹿にするなよ、という表情になる。
「三人組のだろ。暗くて顔ははっきり見えなかったけど、たぶん大学生ぐらいじゃないかな。リーダーは長めの茶髪で、身長はお前と同じ、175センチぐらいだと思う」
「他の二人は?」
「あんまり覚えていない。他の二人なんて所詮はわき役だから、どうでもいいんだよ」
不貞腐れた顔で高屋は言い訳とも開き直りともとれることを言ってきた。
これでは情報はないに等しい。
だけどそう言うとその顔がさらに不貞腐れそうだったので、「まあ、それもそうだよな」と言った。
さらに、「でも、もしそいつを見つけたとしても今日は何もするなよ」と続けた。
自分でも何回言うのだと思うのだが、こうでもしないと、高屋は勝手に動く可能性がある。
高屋は思考よりも感情に従って行動するタイプだ。
一方、佐々木はじっくり策を練ってから行動に移す。
こういうところでも対称的だった。
どちらが正しいかは一概には言えないが、少なくとも今は自分がリーダーシップをとることの方がリスクは少ないはずだ。
「わかってるって。しつこいんだよ、お前は」
高屋は未だに不機嫌な顔をしている。
ここで今まで佐々木たちの話を黙って聞いていた由利が口を挟んだ。
「何でそこまで仕返しにこだわるの? もし失敗したら、今度は大怪我しちゃうかもしれないよ」
その口調は心配しているようではなく、ただ疑問に思ったことを口にした、というような雰囲気だ。
佐々木たちを咎める様子はない。
佐々木は答えようとするが、その疑問の答えが分からない。
なぜ仕返しする必要があるのだ。
答えに窮し、しばらく自問自答していると、高屋が得意顔になって答えを示した。
「それは最後の思い出作りって言えばいいのかな。ほら、俺たちが一緒にいれるのもあと半年もないだろ。だから最後に何かしたいんだよ」
常に成績でトップ争いをしていた佐々木は親の期待を一身に背負い東京の大学へ行くつもりだった。
模試の判定などからもそれは既定路線だ。
一方、高屋は入学当初の成績こそまずまずと言えたものの、時間が経つにつれて着実に成績を落としていった。
今となっては、よく留年せずに三年生になれたなと感心されるほどの成績だ。
毎年、留年をギリギリで逃れてきた勝負強さだけは認めるが、成績が発表されるたび、「俺は野球でこの学校に来たようなものだからな」と言って反省の色を見せないのは頂けない。
それにもちろん、この学校にスポーツ推薦なんてあるはずがない。
そんな高屋が佐々木と同じ大学へ行けるわけがなく、よって佐々木たちが一緒にいれるのはこの高校生活で終わりということになる。
高屋の答えを聞いた時、佐々木は頭の中でふっと氷が解けたような感覚があった。
心のどこかでこの日常が終わることを意識していたのだ。
それが高屋の言葉の中で、氷に包まれた感情が雪解け水のように、はっきりとした感覚をもって流れ出した。
「仕返しっていったって、喧嘩しに行くわけじゃない。少し話をしに行くだけだよ。襲った理由を聞いて、人違いだったら謝ってもらう。だから、基本的には怪我の心配はないよ」
「おい、そんなことでいいのか。俺たちの最後の思い出がそんなに地味でいいのかよ」
高屋はこの事件に関して何一つ自分の思い通りに話が進まないことに苛々しているようだった。
「殴られたからって殴り返してもまた殴り返されるだけだろ。それじゃ、何の解決にもならない。それに、俺たちみたいなろくに喧嘩もしたことがない奴が喧嘩を仕掛けていっても返り討ちにあうだけだ」
佐々木はまたしても高屋を宥めた。
「お前は本当にリスクを冒そうとしないな。まあ、いいや。あ、そう言えばさ、小林瑞穂って今どうしてんのかな?」
小林という名前に由利の顔色が変わったように見えた。
「何で今、その名前が出てくるんだよ?」
高屋を襲った犯人よりもこいつを殴りたいと思った。
高屋が言う小林とは、佐々木の中学時代の同級生であり、今は駅から見てこの高校の反対側にある女子高に通っている。
高校一年生の冬に、ちょうど由利と付き合い始めた頃に駅前でたまたま出会った。
そこで少し会話をしたのだが、運の悪いことにそれを高屋に見られた。
高屋は嬉しそうな顔でこっちに近づいてきて、「上本に言ってもいいのか」なんて言ってくるものだからむきになってしまい、「勝手に言えよ。別に言われて困ることなんてない」と応戦した。
本当にやましいことはなかったが、由利に言われるとややこしいことになることは分かっていた。
しかし、高屋はそんなことをわきまえる奴じゃなかった。
翌日、きっちりと由利に報告したのである。
しかも脚色を加えることを忘れずに、だ。
案の定、由利と付き合っていれば誰もがするような喧嘩を初めてすることになった。
そして翌日も出会った小林に、もう話しかけないでほしい、と告げた。その時の彼女の悲しげな表情は印象的だった。
それ以来、小林と出会うことはあっても話をすることはなかった。
「いや、怒るなって。授業中にちょっと昔のことを思い出してたら、気になったんだ。今どうしてるのかなって」
高屋は弁解するように両方の掌をこちらに見せた。
「くだらないことを考えてないでちゃんと授業を聞け。ただでさえ成績が悪いんだから」
言いつつも佐々木は、高屋も自分と同じことをしていたのかと呆れてしまった。
以心伝心とでも言えばいいのか。
それでも高屋みたいに余計なことまで思い出していないのが救いかもしれない。
「でもさ、今の状況ってあの時と似てないか? あのひったくりを捕まえた時だよ」
「いや、全然違うだろ。あの時はたまたま巻き込まれただけだし、こうやって話し合うこともなかった」
「そうじゃなくて、気持ちの問題だよ。細かいことを言えばそりゃ違うけど、気持ちとしては似てるだろ。悪に立ち向かうって感じが」
「悪に立ち向かうのが悪かもしれないけどな」
「何で俺も悪なんだよ?」
「お前が強姦魔の可能性もなくなったわけじゃない」
高屋がむっとした表情になった。
「ありえねえって言ってるだろ」
「どうだろうな」
ぱっと時計を見ると昼休みがあと十分になっていた。
「次、体育だろ。さっさと着替えに行こうぜ」