一年2
ひったくりを捕まえた翌日、高屋は自転車に乗って学校へ向かっていた。
天気がいいと自然と自転車を漕ぐ足が軽快になる。
特にこの日は前日の出来事もあって、一段と足取りが軽い。
前日のことを思い出すと口元が緩んでしまう。
周りが奇妙な目でこちらを見てきたがそんなのはお構いなしだった。
あの後、佐々木が先に帰り、その場に残された高屋もさすがに居心地が悪くなり、帰ろうと思った。
サラリーマンの男は呼吸を整えようと腰に手を当てながら天を仰いでいた。
ひったくりは仰向けの姿勢から上体を起こし、座り込んでいたが逃げ出す気配はなかった。
ここは佐々木の言うとおり、二人に任せるべきだと思った。
「じゃあ、俺も、帰ります」
高屋は居心地の悪さに歯切れが悪くなってしまう。
高屋が背を向けた時、「ちょっと待ってくれ」とサラリーマンが言うのが聞こえた。
「捕まえてもらったのに、そのまま帰られるのはやはり気分が良くない。君の言うとおりね。君たち、あそこの高校の生徒だよな?」
そう言って高屋たちの学校の方を指差した。
気が付けば学校のすぐ近くまで来ていたのだ。
「いや、大丈夫ですって。と言うか捕まえたの、俺じゃないし」
「そういうわけにはいかないよ。大人として、ちゃんとお礼がしたいんだ」
「でも、捕まえたのは佐々木だし、その佐々木が受け取らなかったのに俺が受け取ることは出来ないです」
「なら、その佐々木君も呼んでくれないか?」
「もう帰っちゃったし、あいつは何を言っても受け取るとは思えないんだけどな」
こちらがこんなに辞退しているのに、何でそんなにお礼を渡したがるのだろう。
これこそ、ありがた迷惑というやつじゃないか。
「受け取ってくれないとこっちの気が済まないよ。これもひったくりを捕まえてくれたのと同じ、人助けと思ってくれないか?」
高屋が返事に困っていると、サラリーマンはさらに続けた。
「正直、君たちみたいな高校生は好きじゃないんだ。実は、何年か前に、会社の同僚がいわゆるおやじ狩りというのに遭ってね。怪我を負わされたあげく、財布ごと盗られたんだ。しかも、その中には彼の息子の写真が入っててね。何よりも彼はそのことを悔しがっていた。彼の宝ものみたいなものだったからね」
「写真ぐらいもう一度撮れば済むでしょ?」
高屋には写真一枚よりも怪我やお金を盗られたことの方が重要に思えた。
サラリーマンは哀しげに首を振った。
「そうもいかないんだ。もうその息子とは会えないみたいだからね。離婚したんだ。前の妻が息子と彼が会うのを酷く嫌がっていてね。だから、もうかれこれ十年は会ってないんじゃないかな」
高屋は、えっ、と絶句した。
軽々しく、また撮ればいいと言ってしまったことを後悔した。
それを察したらしく、「君が気にすることじゃないよ」と言ってくれた。
「結局、それはそうなったんですか?」
この、それ、には事件のことと財布のことの両方を含ませていた。
直接、その単語を出して訊くのは憚られたからそうした。
サラリーマンもそれを理解し、「犯人は捕まったよ。だけど、財布は帰って来なかった。盗った財布は中身だけ抜いて全てゴミ箱に捨てられたそうで、既に回収済みだったそうだよ」と言った。
それを聞くと体の内側から沸き上がってくる憤りを感じた。
「そいつら最低だな。知らなかったとはいえ、そんな大事なもの盗って、しかも捨てるなんて。いや、そもそもおやじ狩りなんて卑怯すぎるだろ」
おやじ狩り集団がそこにいるはずもないのだが、叱責せずにはいられなかった。
「そんなことがあったから、若者って言われるだけで避けてきたんだ。だから、今日はまさか君たちみたいな高校生に助けられるなんて思いもしなかった。大人もいっぱいいたのに追いかけてくれたのは君たちだけだった。何か、そんな様子を見ていると今までのことが申し訳なくてね」
思い出してみると、確かにひったくりを追いかけたのは高屋と佐々木だけだった。
家に帰ろうとしていると、サラリーマンの叫び声が聞こえたので、自転車の方向を180度変えて、駆けつけた時には、佐々木だけがひったくりを追いかけていた。
もちろん、それが佐々木だとはその時には分からなかった。
そして、他の人は振りかえりはするものの、決して追いかけようとはしなかった。
改めてそれを指摘されると、誇らしい気持ちになる。
そうだ、と思い、ぱんと手を叩いた。
「じゃあ、これでチャラじゃないですか」
「チャラ?」
「そっちは昨日まで若者に借りがあった。でも今日、俺たちがひったくりを捕まえたことでその借りはなくなった。それでどうですか?」
サラリーマンはふっと息を漏らした。
「君たちはどうしてそこまでお礼を受け取りたがらないんだ? 普通の若者ならこっちから言わなくても、くれくれと言ってきそうなものなのに」
「それは偏見だ。全ての若者がそうじゃない」とサラリーマンの方へ指を向けた。
その時にふと、もしかしたらおやじ狩りに遭った同僚というのはこの人自身かも知れないと思った。
「あの」と口に出したが、やっぱり訊くのは止めた。
もしそれが事実だとしても、わざわざこの人が三人称を使って話してくれたのだから、それを確認するのは間違っている。
「どうした?」
「いや、何でもないです。それよりも、偏見は良くない。そんなんだから、ひったくりに遭うんだ」
サラリーマンは参ったという表情をして、「そうかもしれないな」と呟いた。
「じゃあ、俺は帰ります。後のことは任せます」
サラリーマンは嬉しそうな微笑みを湛えて、「分かった。今日は本当にありがとう。佐々木君にも伝えておいてくれ。あ、そうだ。君の名前をまだ聞いてなかったね。せめてそれだけでも教えてくれないか」と言った。
「高屋です。高屋誠」
そう言って、その場を立ち去った。
背中から、もう一度、ありがとう、という声が聞こえてきた。
教室に入ると、まだ佐々木は到着していないようだった。
その代わり、まだにやけたままの顔を見たクラスメイトが話しかけてきた。
「何かいいことでもあったのか? ずっとにやけっぱなしだけど」
「いや、ちょっとな」
話そうかとも思ったが、それには佐々木の許可が必要なように感じていたのではぐらかせた。
ドアが開く音がした。
そちらを見ると、佐々木は何もなかったように教室に入ってきた。
その様子を見ると、昨日一緒に追いかけたのは本当に佐々木だったのかと疑いたくなる。
だけど、昨日まではどこか周りを見下したような、冷淡なオーラを纏っていたように見えたが、今は全く違って見える。
達観の雰囲気は変わらないが、それは心の中にある溢れんばかりの正義感を押し隠すための鎧のように感じた。
高屋は佐々木と目が合ったが、無視してそのまま自分の席に着こうとしていたので慌てて声をかけに行った。
「よう。昨日は大変だったな」
「まあな」
その言葉に、やはり昨日の人は佐々木だったのだと安堵した。
佐々木が続ける。
「あれからどうなったんだ?」
「あの後、少し話をして、俺もすぐに帰ったよ」
「何だ。朝刊にも載ってなかったから、どうなったのか知りたかったんだけどな。まあ、朝刊に載ってないってことは、警察には届けなかったんだろうな」
佐々木はがっかりしたようでもあったが表情からは読み取れない。
「そうだな。あの感じだと警察には届けないだろうな」
あのサラリーマンには、もはやひったくりへの怒りは感じられなかった。
「すぐ帰ったんじゃなかったのか? あの時、俺にはそんな風には見えなかったけど」
「だから、少し話をしてから帰ったって言ってるだろ」
「お礼を貰って?」
まさか佐々木がそんな風に茶化してくるとは思いもしなかったので、すぐには答えられなかった。
「お前が受け取らなかったのに俺が受け取れるわけないだろ」
「やっぱりお前はお礼が欲しかったのか」
「いや、まあ欲しくなかったとは言わないけどさ、人に感謝されるのって気分がいいだろ。あの人、俺も帰ろうとしたら何回も、ありがとうって言ってくれたんだ。それだけで十分だったよ。助けて良かったって思えるよな。あ、お前にも伝えといてくれって言ってたぜ」
「お前、いい奴だな。今時、ありがとう、だけで十分なんて言えるって。そんな人ばかりだったら、あんなひったくりもいなくなるのにな」
その口調は、ただ思ったことを述べただけという感じで、最初は褒められているとは気付かなかった。
「それでさ、話は変わるが、やっぱり俺たちで委員長やらないか」
高屋が言った。
一瞬、間が空いた。
それから、佐々木はあっ、という表情になった。おそらくそのことを忘れていたのだろう。
「昨日も言ったが、俺はやりたくない。と言うかやらない」
そうは言っているものの、心からの拒絶という感じではなかった。
もうひと押しすれば押し切れる気がした。
「そんなこと言わずにやろうぜ。俺さ、お前のこと、冷めたやつだと思っていたんだけど、昨日はかっこよかったぜ。あんなこと言えるやつはお前以外にいないよ。だから、俺はお前以外とはやりたくない」
高屋はそう強く言い切った。
「じゃあ、俺たち二人ともやらなければいいんじゃないのか?」
「お前、委員長が出来るのに、そんなチャンスをみすみす棒に振っていいのか?」
もはや責める口調になっていた。
「昨日も言ったが、お前は自分の感覚で決めつけすぎてる。誰もが委員長をやりたいわけじゃないんだよ」
高屋は、そんなこともないと思うけどな、とぼそぼそ言ったが、言われてみれば思い当てる節はある。
だけど、今はそんなことはどうでもいい。
すぐに顔の前で両手を合わせた。
「な、頼むよ。俺はお前とやりたいんだって」
人は同じ目的を持って共に行動すると仲間意識が芽生える。
高屋の中には、昨日の出来事で佐々木と強く結ばれた気がしていた。
そして、何より昨日の佐々木の態度に感動した。
自分の信念を持って生きているというのは男から見ても格好いい。
その信念があるからこそ、普通は喜んで受け取るはずのお礼を受け取ろうとしなかったのだ。
こいつと一緒にやりたい。そう強く思った。
佐々木は懇願している高屋に同情したのか、根負けしたというような表情をし、小さく息を吐いた。
「分かったよ。引き受けるよ。だけど、俺は副委員長だからな」
「当たり前だろ。お前、自分が委員長できると思っていたのか。図々しいやつだな」
高屋は真顔で言い返した。
すると、佐々木の顔が鳩が豆鉄砲を食ったようになったので、それが可笑しく、笑ってしまった。
佐々木もそれにつられて照れくさそうな笑みを浮かべた。