96.フレーズ
「うまくいくわけないから」
頭の中で繰り返される言葉は、いつも意地悪そうな「彼女」の顔とともに再現される。
いいかげん忘れたいのに、そう思えば思うほど欠片も忘れる事ができないでいる。
例えば、わたしは猫舌だ。当然、暖かい飲み物を飲むのはすごく苦手。
反対に彼の方は、店員さんが置いてくれたコーヒーを、ためらいもせず一息で飲み干す程度に熱いものは平気。何も入れていないコーヒーが何度かなんて、苦手なわたしは考えたくもない。
そんな彼を尻目に、わたしは砂糖とミルクを入れて、とりあえず小さなティースプーンでかき混ぜる。猫舌うんぬん、ではなくて、色が淡く変化していく瞬間を見ているのも好きだ。やがて、色が完全に落ち着いたころ、わたしのところまでやってきた香りが、再び楽しませてくれる。猫舌なのに熱いコーヒーを頼むのは、こういうプロセスも大好きだからだ。
わたしがようやくそれに口をつけるころ、とっくに飲み終わった彼は手持ち無沙汰だ。
なんとなく、こんなとき二人の相性は悪いのじゃないかって思ってしまう。
くだらないことだと思われるだろうけれど、こういう日常生活の些細な出来事が積もり積もって取り返しのつかないことになるんじゃないのかな。なんて、ネガティブなことを考えてしまう。
これは、たぶん、わたしが暇すぎて余計な事を考えすぎるせいだろうと、そう思うのだけれど。
「そういえば、また同窓会があるらしくてさーー」
飲み物がなければ、後は目の前の人間に話し掛けるぐらいしか時間の潰し様がない場所で、当然彼は私の方へと話し掛けてくる。同時に何かができるほど器用ではないわたしは、慎重にカップをソーサーの上へ置き、彼の方へ視線を向ける。
「そっか、そっちはマメだねぇぇ、こっちはそういうの全くないから」
わたしと彼は大学で出会って、出身地が違う。あたりまえだけど出身高校も違っていて、そういう意味では共通する思い出は、出会ってからこちらのものしかない。別に、思い出話だけで二人の関係が成り立つとは思わないけれど、それでも共通の過去がない、ということに好奇心ではなく僅かな寂しさを感じてしまう。高校時代は、似た言葉、似た風習、の人間たちばかりで、それがあたりまえだと思っていた頃の癖が、まだ抜けていないのかもしれない。
「で、行くの?」
「んーーー、ちょっと遠いからなぁ」
彼の実家と、今二人がいる場所は新幹線ではちょっといけなくて、飛行機と在来線を乗り継いでたどり着くような場所らしい。わたしは一度も訪ねたことはないけれど、すさまじい田舎だと彼は嫌そうな、それでもちょっと懐かしそうな顔をしながらわたしに言ったことがある。
「まあ、まだちょっと時間もあるし、予定が立ったら教えるから」
「彼女も?」
「いや、あいつは学年が違うし。っていっても、地元だから挨拶ぐらいはするかも、だけど」
彼女、という曖昧な代名詞で通じてしまうほど、彼にとっての「彼女」とは、特定のあの子のことを指すことに気づく。ちくり、と痛んだ胸は、思い過ごしだとやりすごす。
受験の参考にといって突然現れた彼女は、わたし達より一つ年下の普通の女の子だった。
学園祭の真っ最中に彼のもとを訪ねてきた彼女は、たぶん予定外に彼の隣にいた異性である私に敵意を隠そうとはしなかった。
憎悪すら感じるほどの強い視線、値踏みをする表情。どれもが、彼女の彼への気持ちが溢れすぎていて、まだ彼女になって間もなかったあのときのわたしは、威圧されてしまった。
大らかといえば聞こえはいいけれど、ドンカンなところがある彼は、全くそういう彼女の態度を読み取ることはできなかった。おかげで、あからさまに意地悪をされたわけではないわたしは、チクチク突き刺さる不快感を言うに言えずに溜め込んでしまった。
そうしてトドメの一言は、彼がいない場所、女性用トイレの中で放たれた。
「うまくいくわけないから」
その言葉が、深く突き刺さって抜けてくれない。
考え事をしていた私とは対照的に、ただの雑談として話題を提供した彼は、あっけなくその話を打ち切る。あちこち飛び跳ねていく他愛もない会話に相槌をうちながら、わたしの頭のなかではマイナスの言葉が飛び散っては蓄積されていく。
一人で笑っている彼の後ろから、わたしはまた彼女の声を聞いたような気がした。
まるで呪文のように絡め取られ、少しの間息さえできない錯覚におちいる。
こんなとき、素直に置いて行かれたら寂しい、と言える性格ならばかわいかったのに、と思う。
世間話を二人で続け、話題が一段落した頃、わたしはようやくコーヒーを飲み終えることができた。
それを見て、彼がここから出て行くことを促す。
もう少しゆっくりしていきたいわたしも、それに無言で習う。きっと、わたしがそんな風に思っているなんて考えてもいないだろうと思いながら。
「これからどうする?」
「うん……」
付き合いも一年を超えれば一通りのイベントは終了する。田舎だからなのか、デートする場所は限られ、数少ない遊び場もすでに制覇している。少し遠出をすればいろいろなところがあるのだけれど、まだ自由に使えるお金が少ない学生の身分では、そういった散財は回数が限られてしまう。
お互い提案するべき考えをもたず、ただ惰性で歩き始めれば、おのずとどちらかの下宿へとたどり着く。
結局その日は、わたしの下宿の方が近かったせいか、いつのまにかたどり着いた部屋で、いつのまにかつけたテレビで笑い合っていた。
「ごはん食べてく?」
「んーーー、そうする」
ゲームで遊び始めた彼が、曖昧な返事をする。
適当に冷蔵庫をながめる。
片隅に居座っている彼の地方の味噌を眺めながら、まるで関係のない鍋にでもするかと思案する。
初めて彼に味噌汁を出した時、彼は少し不思議そうな顔をして、お箸で数回おわんの中をかき混ぜた。
とんでもなく不味い物を作ってしまったと思った私は、慌てて味見をしてやっぱりやけどをしてしまった。だけど、その味に不審なところは見いだせなくて、二人して無言で見詰め合ってしまった。
しばらくして彼は、「味噌が違うのか……」と、つぶやいた。
結局、わたしの味噌と、彼が家庭で馴染んでいた味噌が異なったことから起こる行き違いではあった。だけど、こんな些細な出来事に、彼はわたしとは全く違う文化圏で育ってきた、背景の異なる人間なのだと見せ付けられたような気がして、何に対してかはわからないけれどショックを受けた覚えがある。それを文化の違い、と楽しめる余裕は、今も昔もないことが、問題なのかもしれないけれど。
その後、その味噌を買ってみたはいいけれど、それは一度も封を切られることはなく、味噌とは無縁なメニューしか出していない。
なんとなくそれを使ったらまた、彼女の高笑いが聞こえてきそうな気がしたから。
そんなことを考えた途端、あの声が聞こえた。
慌てて冷蔵庫の扉を閉め、適当な材料で鍋を作り始める。
繰り返させるフレーズはわたしの細胞一つ一つに染み込んでいく。
吐き出してしまえば、きっと楽になれる。
だけど、そんなこと言う子じゃないんだけどな、という彼の言葉がリアルに想像できて、わたしは口を噤む。
私の中に彼の知らない別のわたしがいるように、彼女の中にも彼が知らない彼女がいる。そんな簡単なことも説明できないわたしは、自信がないだけなのかもしれない。
台所に立っているわたしと、ゲームをし続ける彼。
ゲームのBGMと包丁の音が重なりあうのは、かなりシュールだ。
本当は人生においてほとんどを過ごすはずの、こういう日常生活に安らぎを覚えなくてはいけないのに、わずかばかりの労力に心が疲弊していく。
少しずつ少しずつ、何かがずれはじめているような、彼女のことはきっかけにすぎないのかもしれない。
また、彼女の声がする。
「だから、言ったでしょ?」
という言葉に、思わずうなずきそうになりながら。
お題配布元→小説書きさんに100のお題(現在リンク先不明です)





