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とある摂政秘書官の話



「――失礼いたします」


そう言ってわたしが摂政執務室の扉を開けると、殿下と笑顔で言葉を交わしていた中年男がこちらに目を向ける。その視線がわたしの全身を隅々まで撫で回していることに気付きながらも、それを無視することはそう難しいことではない。


 この仕事に就いてから、同じようなことは何度もあったから、慣れたのかもしれない。


 同僚に聞けば、男女の別なくそういった人種はいるらしく、露骨な態度を見せない限りは放置するのが一番だという。


 どうせ、殿下の部下に手を出すことなど出来はしないのだと、その同僚は鼻を鳴らしていた。


 わたしは二人に一礼すると二人の前に紅茶の入った磁碗を置き、静かに部屋から退出する。

 そのとき殿下が一言、「ご苦労さま」と声を掛けてくれた。

 この摂政殿下は、威厳を感じるよりも親しみを覚える風貌をしていたが、意外にも行動も年相応であることが多い。この間など執務の合間に秘書官室を訪れ、女性を怒らせたときの謝り方を尋ねに来た。


 そのとき秘書官室に詰めていたのは皆若い秘書官たちばかりであったから、ひょっとしたら年嵩の秘書官が居なくなるのを待っていたのかもしれない。


 まあ、そんな訳で殿下の相談を受けることになったのだけど――


 殿下から相談を受けたとき、正直わたしたち秘書官は揃って「ああ、また何かやらかしたんだ」と思いました。


 皇城の外部の人なら知らないかもしれませんが、わたしたちは殿下が後宮の姫様たちを毎日のように怒らせていることを知っていました。


 特にメリエラ様のお付きの方に追い回されているというのは一際有名な話で、最近では殿下とその方が只ならぬ関係であるという噂もちらほらと聞こえてきます。


 実際のところは分かりませんが、このときのわたしたちは噂がそれなりに信用出来るものなのだと変に納得してしまいました。


 だからでしょうか、わたしたちは仕事であるとう感覚もなく、しかし、普段の仕事よりも真剣に相談内容を吟味し、同僚たちと話し合いました。


  結論から申し上げれば、殿下はわたしたちの意見を取り入れてくださいました。


 わたしが休憩中に読もうと思っていた都市情報誌を熟読し、わたしたち秘書官が知る限りの隠れた名店を覚え、さらにわたしたちが話す花言葉や宝石言葉、女子受けの良い伝承、女性に喜ばれる気遣いや仕草を非常に真剣な顔で聞いておられました。


 正直なところ、こうして姫様たちの為に必死になっている姿こそが、一番姫様たちの心に響くのではないか、と思いました。機会があれば、是非とも姫様たちにお話ししたいと思っております。


 そんなことがあってからでしょうか。わたしたち秘書官は仕事が妙に楽しくなりました。


 殿下はそのあとも何度か似たような相談をわたしたちに持ち掛け、わたしたちはまるで学生に戻ったかのようにその答えを探しました。


 そういえば、事前調査と銘打って殿下と食事に行った同僚も居たようです。


 かくいうわたしも、殿下と同僚数名で下町のお酒の美味しい酒場に繰り出したものです。


 実を申せば、わたしたちの上司である首席秘書官や秘書官長は、この集まりに気付いていたようです。


 それでも黙って、ときには仲間で飲めと酒代を渡して下さったのは、上司たちも殿下を主君とは別の存在として見ていたからでしょうか。


 最年少の摂政であることで臣下から軽んじられることも珍しくない殿下が、そんな評価を気にした素振りも見せずに職務を果たしている姿は、殿下の親と同年代の上司たちにはどう映っていたのか、上司たちが真摯に殿下を支えている理由は、きっとそこにあるのだと思います。


 あ、先ほどの不躾なお客様がお帰りになりますね。


 あらあら、良い笑顔ですこと。きっと良い話が出来たのでしょう。


「皆さん、お仕事ご苦労サマです」


 来たときはむっつりと偉そうな態度だったのに、現金なものですね。殿下を若造と侮って、実はその若造の手の平で踊らされていたとも知らずに嬉しそうな顔です。


 まあ、わたしが気にすることでもありませんが、とりあえず頭を下げておきましょう。


 頭を下げた状態でちらりと同僚たちを窺ってみれば、やはりわたしと同じような表情。殿下はわたしたちの弟子でもあるのです。そう簡単に勝たせはしないと分かっているのです。


 わたしたちは意気揚々と帰って行く客の男を見送り、内心ほくそ笑みました。


 半時間ほど意見を交わしましたでしょうか。流石、各分野の玄人が集まっていただけあって、その議論の内容は非常に濃いものになりました。


 心理学的見地からものを言う人も居れば、歴代の皇妃様方の性格を分析した人も居ました。その結果導き出された結論が、


「謝るよりも、喜ばせよう」


 というものでした。


 良き攻撃は良き防御より尚堅い、と古来より言い伝えられております。謝ることは良いとしても、そこでさらに一歩踏み込むべきではないかというのがわたしたち秘書官の総意だったのです。


 お客様が帰られたことで休憩時間に入った殿下の下に、財務庁から出向している同僚の男性と共にお茶とお菓子を届けます。


 止めなければ延々と仕事を続けてしまう殿下には、こうして定期的に休憩を入れて頂いております。


 ノックをすると、扉の向こうから入室を許す殿下の声。わたしと同僚は深々と頭を下げて執務室に入りました。


「殿下、お茶をお持ちしました」


「ああ、お疲れ様。ありがとう」


 そう言いながら、殿下は机の引き出しに閉まってた数枚の写真を取り出しました。


 確か、姫様方の全身が映っている写真だったと記憶しております。


「また、姫様方に贈り物ですか?」


 そう、あの写真は殿下が姫様方に贈り物をするとき、その贈り物の具体像を考える為のものなのです。


 外部に流出したら随分高値が付きそうな写真で、殿下が頼まなければ姫様方も決して撮ることをお許しにならなかったでしょうね。


 しかし、殿下はわたしの問い掛けに首を横に振りました。


 はて、まさか姫様方の写真を見て悦に浸っているとも思えないのですが。


「――いえ、皇府から婚礼の式典でうちのお姫様たちが着る衣裳を考えるよう頼まれましてね」


 迂闊なことは出来ないし、困ったものです――殿下はぶつぶつと呟きながら、写真を矯めつ眇めつ、さらに頭を抱えたりしております。


「――下着なんて、流石に知りませんよ私は」


 そういうことですか。確かに殿下には荷が重いでしょうね。


 わたしの知る限り、殿下はこういったことに一等弱いのです。


 花嫁衣裳といえば、大抵の女性が一度は憧れるもの。わたしも昔は色々と夢想したものです。金銀細工や宝石をあしらった純白の衣裳。隣には愛する人がいて、歴代陛下の前で永遠の愛を誓う――と、そんなことを思ったりしたものです。


 実際には金銀細工なんて高くて手が出せないし、宝石なんて模造品がやっと、愛する人も……居なくはないけど、そこまで甲斐性があるかどうかは怪しいものです。


 その点、姫様方は幸せですよね。わたしが小さな頃から思い描いた理想の結婚式が実現できるんですから。


 金銀どころか魔法銀や稀少合金であるオリハルコニウムも当たり前、宝石だって一つ一つ吟味された超一級品ですし、ああもう、本当に羨ましい。


「下着……何故下着……? ああ、初夜か……というか、何で私がそこまで選ばなくてはならないんだろう」


 わたしと同僚は、下着の見本誌を見て懊悩する殿下を横目に、お茶の準備を整えました。同僚は決裁済みの書類を抱え、一足先に秘書官室に戻ります。色々な部署に書類を送らないといけないので、時間は無駄に出来ません。


「――実際問題として、そこのところどうなんでしょうか」


 悩み続ける殿下がわたしに問い掛けてきます。主語が抜けていますが、多分衣裳に関することなのでしょう。


 わたしは出来る限り冷静に答えました。内心、惚気けられているようでちょっと腹立たしいですけれど。ええ、言葉が冷たくなっていても、それは気のせいなのです。


「花嫁衣裳はそのまま初夜の衣裳になるものですから」


 あ、殿下が崩れ落ちた。


「――だから困ってるんじゃないですか」


 なるほど。


 皇族方の婚礼の儀式とは初夜まで含めて一つの儀式で、これから一緒に歩もうと歴代陛下の前で誓い、更にその誓いを魔法的・呪術的に、より確実で強固なものにするための大切な手順が初夜なのです。性交渉を伴う儀式は数も多いですし、別に珍しいものではないのですが、殿下の故郷は魔法が存在しないそうなので、どうしても気になるのでしょうか。


 まあ、いきなりがっつく人よりはマシですけど……とりあえず、お仕事しましょうか。補佐補佐。


「下手に悩むより、ご自分の好みでお選びになればよろしいかと」


 衣裳そのものは姫様方の好みもあるので何度か意見の交換が必要ですが、流石に、ねぇ……衣裳の下まで注文つけたりはしないと思いますよ、わたしは。


 というか、この殿下は休憩時間を下着の話だけで終わらせるつもりですか。


「ううむ……」


「殿下、お茶が冷めてしまいます。――どうしても気になるなら、女性用の下着専門誌でもお持ちしますが?」


「いえ、結構です」


 うん、きっぱり。


 しかし、そりゃそうでしょうとも。


 うんと言われたらどうしようかと思いましたよ。


 今回の婚礼の儀式は戴冠式と合わせて行われるので、その規模は史上最大のものとなるようです。


 一週間ぶっ通しの大祭で、国内は元より国外の商人も慶事で財布の紐が緩むこのときを狙っているでしょう。


 政府も皇王府もここぞとばかりに予算を投入するつもりのようですし、式典が近づけばわたしたち秘書官は不眠不休を強いられることになりそうです。はぁ……夢の定時上がりが遠ざかる。


 そんなこんなで深い深い溜め息を吐いたわたしですが、殿下の執務机の上にポツンと置かれた封書に気付きました。


 先程回収し忘れてしまったのでしょうか。


「殿下、こちらの書類ですが」

「ああ、適当に処理して構いませんよ」


 適当って、何でしょこの書類――あ、お見合い写真。


 しかし、これは何とも、


「可愛い方、ですね」


「今年五歳だそうですよ。適齢期の娘が居ないから、代わりに孫を、ということらしいですが」


 お相手は大陸有数の商会の代表の孫ですか、ここの化粧水って良いもの揃ってるんですよね、高いけど。


 しかし、何が問題なんでしょうか。


 そんな疑問が表情に出ていたのでしょうか、神妙な顔でお茶の香りを確認していた殿下が、此方に目を向けました。ちょっとびっくり。


「――そのお嬢さんに問題があるわけではないんですよ。十年待ってくれれば」


「では……」


「あなたは確か、産業庁の出でしたね」


「はい、海運を専門に扱っておりましたが」


 今は皇王府所属ですけどね。はて、何やらきな臭いことに巻き込まれたような錯覚が……


「――そちら方面に詳しくて、尚且つ大きな後ろ盾のない議員か貴族に心当たりは?」


 ほら、面倒事だわ。


「何名かおりますが……」


「このお嬢さんと歳の合うような男子の居る家を調べて下さい」


「よろしいのですか?」


 殿下に来た縁談なのに。先方は気分を害さないかしら。


「向こうも分かってますよ。――この忙しい時期に海賊女王とやり合うなんて勘弁してくださいよ、本当に」


 海賊女王!


 南洋の海蛇と恐れられるあの女傑ですか。


「調べたらあっさり分かりましたよ。さっきの商会代表は海賊女王の義理の弟です」


 なるほど、確かにこの商会は南洋諸島を中心に商っているみたい。義理の姉の庇護で他国の私掠船に襲われないから、ここまで大きくなった、と。


 何処の世界にも裏と表がある訳で、この縁談にも裏があるということでしょう。


「海賊女王は殿下と縁続きになる為にこの縁談を?」


「さあ、本当のところは本人に訊かなければ分かりませんが、恐らく、こちらに対して悪感情を持っていないということを示したかったのでしょうね」


 つまり、友好の証ということですか。こんな小さな子どもまで使うなんて……流石海賊の中の海賊、海賊たちに女神と畏れ崇められるだけのことはあります。


「向こうもこの時期にこれ以上私が妃を娶るなどとは思っていないでしょう。ここで話を受けて、噂の女王陛下の鼻を明かすというのも心惹かれる誘惑ですが、ね」


 ついこの間も第六次後宮立て篭もり事件が発生したばかりですものね。最近では、この事実上の夫婦喧嘩に対する緊急時対応指示書が近衛軍に配布されているそうです。廊下を塞ぐ障害物の設営訓練もたまにやっていますし、慣れって怖いですよね。


「向こうとしたら、イズモばかりではなく自分たちとも少し歩み寄ってみないか、という提案の意味もあるのでしょう。女王もいい歳ですし、後継者問題もありますから」


 自国内に睨みを利かせられる勢力として我が国を選ぶということですか、イズモと同じですね。下手に国内の何処かの勢力に肩入れすると、一気に均衡が崩れる可能性もありますから、妥当といえばその通りですけど。


「――そういう訳ですので、後宮の方には……」


 ああ、やっぱりそうなんだ。


 というか、今の殿下すごく情けない顔です。


「分かりました、上手く取り計らいます」


「お願いします」


 切実ですね、流石に二週間続けて立て篭もりは嫌と見えます。家に帰ったら配偶者が立て篭もり……確かに嫌ね。


「あ、お茶美味しかったです」


「ふふ、お粗末さまです」


 執務室から戻ると、秘書官室には秘書官長が戻ってきていました。


 先ほどまでとは違う緊張感が、部屋の中に満ちています。どうにも慣れませんね、この感覚は。


「君」


 あ、秘書官長がお呼びだわ。急ぎの仕事か、もしかして提出した書類に何か問題でもあったかしら。


「何でしょうか」


「殿下はまだ執務の最中かね」


 ああ、わたしではなく殿下に何か用があるのね。ちょっとびくびくしちゃったわ。


「急を要するものは済んでおります。今は内務院から提出された河川改修工事の計画書を確認しておられるかと」


「急ぎの仕事は、もうないんだな?」


 訊かれて、時計を確認するわたし。皇都時間で午後四時前だから、今日は多分大丈夫よね。

 今から来る緊急の仕事なんて、予想出来ない類のものでしょうし。


「おそらくは」


「そうか……」


 秘書官長は何かを考える素振りを見せ、わたしが一礼して席に戻るまでずっとそのままでした。


 そしてしばらく経った頃、おもむろに殿下の執務室に入り、わたしたちが仕事を終えるまで出てくることはありませんでした。


 そして、終業時刻――!


 指示もなく、税金で給料を貰っているわたしたちが残業することは出来ない――なんて言い訳をしてみますが、実際には久し振りの定時上がりにちょっとはしゃいでいるだけです。


「あ、もう帰るの?」


「どうせ、式典が近付けば泊まりになるんだから、今の内にね」


「それもそうかぁ」


 配属時期が近い隣の席の同僚は、そう呟くと無言で帰り支度を始めました。


「帰るの?」


「デート」


「旦那さんと?」


「旦那とおちび二人とだよ。映画でも見ようかな、明日は休みだし」


 どこか誇らしげな同僚の姿に嫉妬しないと言えば嘘になります。学生結婚で、結婚に反対した両親に勘当されたのに、それでも今の彼女は幸せそうですから。


「じゃあ、また来週ね」


「うん、旦那さんたちによろしく」


「はいはーい」


 意気揚々と秘書官室をあとにする同僚。わたしはそれを見送ってから、残った同僚たちに声を掛けて家路につきました。


 皇城から程近い一等地に、わたしの暮らす官舎はあります。厳密には官舎ではなく皇王府の職員宿舎なのですが、まあ、実質的に官舎ですね。官舎より家賃は高いですが。


 わたしは宿舎近くの商店街で夕食の材料と晩酌の酒肴を手に入れ、ふらふらと自分の部屋に戻りました。


 独身者用の部屋は余り広くなく、今朝出て行ったときと変わらない風景でわたしを出迎えてくれます。


「――ふう」


 台所に買い物袋を置き、大きく溜め息。外からは家族用宿舎に暮らす子どもたちの声が聞こえ、彼らを呼ぶ母親たちの声もちらほらと。


 夕陽に照らされた天井を見上げて、わたしは少しだけ何もしない時間を過ごす。


 こんな時間がすごく貴重なものだと知ったのは、あの内乱のあとだったっけ。


 離れて暮らしていた家族の無事を喜んで、でも、学生時代の親友が旦那さんと息子さんを喪い、結局自分もその現実に耐えられなくて自ら命を絶ったと聞いたとき、わたしは自分の周りから何人もの人が消え去っていたことに気付いた。


 皇城に近いこの宿舎周辺はまだ良かった。でも少し街の方に下りれば、馴染みの酒屋は空き店舗になり、友人が住んでいた集合住宅は焼失、よく散歩した遊歩道は砲撃で耕されていた。


 確認してみれば、知人の何名かは連絡が取れなかった。生きてどこかに逃げ延びたのか、それとも命を落としてしまったのか。


 日々殿下のお側で働いて、こんなことは国全体で見れば大して珍しくないことなのだと知りました。


 そろそろ、行方不明者の死亡認定も始まるでしょう。


 行方不明者たちは死者となり、遺族たちは死者たちとの思い出を胸に新たな人生を始める。


 そしていつか、遺族は思い出さえ忘れ、死者は人々の記憶からも去っていく。わたしも、いつか親友のことを忘れる日が――


「――」


 気付けば、わたしは卓上通信機に手を伸ばしていました。晶盤に打ち込んだのは、初等学校の教師をしている恋人の番号。

「あ、ごめん、わたし。家に居るってことは、仕事終わったんだ」


 彼は、わたしの突然の通信にも優しく答えてくれます。


「――ううん、わたしも早く上がったから、晩御飯作りに行こうかと思って」


 独りが怖くて、


「そう、じゃあ今から出るね。迎え? 大丈夫だよ、まだ明るいし」


 でも、彼と一緒なら大丈夫だと思えたのです。


 宿舎を出て街を歩けば、そこはあの内乱も戦争も無かったかのように人々の活気が満ちる世界でした。


 でも、少し下町の方に下れば借主不在ということで持ち主である皇王家に返還され、新たな住人を待つ住居が数十軒ありますし、皇都中で再開発工事が行われているということもわたしは知っています。


 今はもうあんな暗い時代ではないと人々は笑っていますが、わたしたちのような皇王府職員、官僚、軍人は、まだまだ戦いの傷が癒えていないと日々痛感するのです。


 皇城に居れば、明るい話題も暗い話題も同じくらい耳にします。


 殿下と姫様方の痴話喧嘩を肴に休憩時間を過ごしたのに、そのすぐあと戦没者年金と遺族補償に関する諸法案の草案を纏めるなんてこともありました。


「――だめだめ、暗くなっちゃ」


 こんな顔で会いに行ったら、彼は間違い無く心配してしまう。折角明るい話題をたくさん仕入れたのに、無駄になっちゃうわ。


「あ、下着専門誌でも買っていこうかしら」


 書店の横を通り過ぎたとき、ふとそんなことを思いました。


 休み明けに持っていったら、殿下もさぞ喜ぶでしょう。うん。


「そうと決まれば――っと?」


 ぴろぴろと合成音を奏でているのは、内隠しに入れた個人携行用の通信機。都市内でしか使えないですが、すごく便利なんですよ。で、送られれてきたのは通信文書のようです。


「ええと――? は? え? これっとほんと?」


 文書の内容は、後宮で小規模の立て篭もり事件が発生したとのこと、どうやら殿下が何かの記念日を忘れたとかでぶんむくれた某姫様が部屋にお篭りのようです。


 何やってるんですかあの色呆け殿下は。


「出勤命令は出てないみたいだからいいけど……」


 ちょっと考えごとしてたらこれだもの……迂闊に沈んでいられないわ。


「はぁ……転職でもしようかしら」


 まあ、そんなこと言っても明日になれば忘れてる自信があるけどね。


 とりあえず、彼に夕食を作って、べたべたして、一緒にお風呂入って、朝までいちゃいちゃするとしましょうか。


「――でもその前に、と」


 そんな訳で書店で買い求めたのは女性の下着専門誌十冊。これを殿下にお贈りするのだ。


「ふふふ……姫様方にもこういった雑誌は必要だと思うのよ」


 実用性なんて基本設計段階で省かれたと思われるオトナっぽい下着も満載ですからね。これは喜ばれるでしょう。


「さあ、また休み明けから頑張ろう」


 とりあえず、寿退官するまでね。


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