ふたりの距離は
「奥様! あざみ様! 大変です、旦那様が! 治成様が!」
ひどく狼狽した使用人のツネさんが私の部屋に走り込んできたのは、いつもの、なんてことのない午後のことだった。
私はいつものように、嫁いだばかりでいまだ見慣れぬ百谷家の庭を見ながら、自分の着物を縫っていた。
ツネさんを始めとした使用人達はそれくらいいくらでも私どもがやりますから、遠慮なくおまかせください、と言ってくれていのだけれど、やることもないから、私は自分で縫っている。
せっかく培った裁縫の腕を鈍らせるのもなんだったし、本当にやることがないのだ。
私の実家である風倉家は百谷家とは家格が釣り合うはずもないのだけれど、なぜだかとんとんとん拍子に結婚が決まってしまった。
私と同じく不思議がっていた祖父母が聞いたところによると、私の両親が生きていたころに、治成様のご両親が大層世話になったのだとか。
だとしても、百谷家の若き当主であり、結婚相手など選り取り見取りだろう治成様は、家柄も容姿も決して良いとはいえない私の一体どこを気に入って花嫁にしたのかと、私は首を傾げたものだった。
なにせ、治成様よりも年嵩で、年頃の娘さんたちと比べて私は上背があるし、祖父母を手伝って畑仕事や山仕事をしてきたから肌は日に焼けて手指も荒れていた。私が治成様であればたとえ両親が世話になったとしても嫁にとらないだろう。
お前のような牛女を娶った理由など、跡継ぎがはやく欲しいからだろう、と言われて納得してしまったほどだ。
祝言を挙げた夜、つまりは初夜だが、粗相のないようにしなければ、と通された夫婦の寝室で、私は緊張していた。
他の娘達が花嫁修行に精を出しているだろうときに、私は畑を耕したり、柴を刈ったり、薪を割ったり、水汲みをしたり、魚を獲ったり、鳥を獲ったり、猪を獲ったりとおよそ良家の子女であればしないことをしていたのだ。
もちろん、花嫁のしきたりなんかも学べなかった。そも、両親を早くに亡くし、祖父母に育てられてきたので学ぶ暇がなかったとも言う。
働き手がいなくなって、良家とは名ばかりになってしまった我が家は、奉公人も満足に雇えぬなかで、祖父母が老いた体に鞭打ち、幼い私を懸命に育ててくれたのだ。
そんな祖父母を手伝わぬ理由など、なにがあろう。
祝言の日に泣いて「目出度い」、「幸せにおなり」と言って送り出してくれた祖父母のためには失敗できない、と意気込んでいた私は、遅れてやってきた治成様の言葉に肩透かしをくらった。
湯上がりの治成様は息を飲むほどの色気をまとっていて、こんな月とスッポンもかくや、という私などが果たして治成様にご満足いただけるのかと、胃の痛くなる思いだった。
しかし、治成様は「今日は疲れたでしょう。早くお休みなさい。それでは」とさっさと布団に入って就寝なされた。
残された私は拍子抜けして、はあ、だかへえ、だか間抜けな返事をして、疑問符を浮かべながら治成とは別の布団に入った。
そう。布団が二組ある時点で気付くべきだったのだが、緊張していた私は思い至らなかった。治成様は私と初夜を迎える気などさらさらなかったのである。
翌朝、目覚めれば治成様の姿は既になく、隣は布団もあげられており、見事にもぬけの殻だった。
そうしてて百谷家での生活が始まった。のだが。
私にとってはたいへん過ごしやすく、快適なものであったのだけれど、新婚の花嫁としては惨憺たるものだった。
奉公人達はみな良くしてくれたが、肝心の旦那様とはめったに顔を合わせることがなかった。寝室が同じであるにも関わらず、である。
食事を共にすることも稀で、会話はほとんどなく、話しかけるのはいつも私からで、治成様は相槌を打つのみ、談笑など夢のまた夢という有様だった。治成の休日も一緒に過ごすことなどない。
そして、視線がちっとも合わなかった。
ときおり合うこともあるのだが、すぐにそらされる。
ここまでされればいくら鈍い私でも嫌われていると気付く。
治成様はご両親が昔世話になった家が困っているのだから助けてやるよう言われたから私を娶っただけで、別に花嫁として私を迎えたかったわけではないのだ。
それならなにも結婚などしなくても……と思うのだが、没落した我が家に来てくれる婿などさがすのはいかにも困難に思われた。
しかし、嫌われてるうえ、我が家の窮状に援助をいただき、祖父母の世話をしてくださっている恩人の治成様にこれ以上の負担をかけるわけにもいくまい。
今からでも離縁していただき、奉公人として雇い直してもらうべきだろう、と考えていた矢先に治成様が事故に合われた。
それで冒頭のツネさんの慌てようだったのである。
なんでも、お仕えなさっている藩主様を庇ってお怪我をなされたのだとか。
百谷家へ運び込まれた治成様は頭を強く打ってはいるが、命に別状はないという。
周囲からは藩主様のためにその身を盾にするとは実に天晴、さすがは百谷家よ、ともともと高かった評価が鰻登りになったらしい。
治成様の怪我は命の危険のないもので、藩主の覚えもめでたく、百谷家に取っては良いことなのだろうけれど、治成様がお怪我をなさるくらいなら、評判など上がらなくてもいい、と思ってしまった私はやはり百谷家の嫁としてふさわしくないのだろう。
床についている治成様は頭に包帯を巻かれていることを除けば、ただ眠っているだけのように見える。
初めて見る治成様の寝顔がこんな時になってしまうとは。もっとなんでもないような日に見られれば、喜びようもあったのだけれど。
「治成様の側に私がいたとてなんの力になれませんでしょうから、部屋に戻りますね」
目覚めたときに仕方なく娶った女がいるのもご不快であろう、と自室に戻った。
そんなことなどありませんよ、と口を揃えて言ってくれる奉公人達はやはりやさしい。
やはり主人がやさしいと奉公人達も自然、やさしくなるのだろう。
今までの私の話を聞いた人は花嫁を嫌う男のいったいどこが、と思うだろうが、治成様はやさしい方なのだ。
私の食事は日に三度、おやつ付きで、好きだけ食べて構わないと言ってくださったし、日中も好きなことをして過ごすよう言ってくださった。必要な物があればなんでも揃えるとも言ってくださった。
このように、嫌いな花嫁に対して大盤振る舞いをしてくださる方なのである。なんと慈悲深い方であろうか。
私が今縫っている着物の反物も治成様からいただいたものだ。
母の形見の一張羅くらしか外出着のない私に気を遣ってくださったのだろう。
普段は実家で着ていたつぎはぎだらけの着物を着ているからみっともない、ということかもしれないけれど。
もうすぐ出来上がるので、そのときにはきちんと治成様にお礼を言わなければ。あなたにいただいた反物をこのように縫い上げましたと報告しなければ。
と、そう思っていた私を昼間以上に動揺したツネさんが呼びに来たのは夕餉のあと、湯浴みをしたあとのことだった。
***
私は初めて踏み入れる治成様の部屋に向かいながら、初夜以来の、否、それ以上の緊張に体を強張らせていた。
湯浴みをしたばかりだというのに、指先が冷たくなっていくのが分かる。
浅くなってしまう呼吸を努めて深くしながら、歩みを進めた。
ツネさんに聞いたところによると、治成様は記憶を失くしてしまわれたのだそうだ。
目覚めた治成様を見て、医師や奉公人達は喜んだ。しかし、治成様の様子がどうにもおかしい。
ご自身がなぜ寝室にいるのかも、どうして怪我をしているのかも、まるで分からないと言う。
医師が確認したところ、どうやらここ半年程の記憶がないとのことだった。
私が嫁いできたのはほんの二ヶ月前のことだ。もうすぐ三ヶ月になるが、変わりはあるまい。
我が家の事情を分かったうえで、嫌いつつも厚遇してくださったが、今の治成様にとって私はつまり、私は知らぬ間に嫁いできた花嫁なのである。
そんな状態で私に会った治成様は果たしてなんと思うのだろうか。
見るのも嫌な私を見ればすぐさま離縁ということになるかもしれない。
それは仕方のないことだが、庭の畑で育てている茄子をもらってから出ていくことは可能だろうか。せめて祖父母にお土産を持って帰りたい。
それがだめならもらいに来るのは許されるだろうか。もう少しで食べ頃になるので、取れたらぬか漬けにしようと思っていたのに。
「治成様、失礼いたします。あざみ様が到着なされました」
ツネさんが開けてくれる障子に合わせて頭を下げた。
「あざみでございます、治成様」
お初にお目にかかります、と言うべきだったかもしれない。
知らぬ内に娶っていた嫁が私のような者で申し訳ないな、と思いながら顔を上げた。
「…………」
「……? 治成様?」
治成様は今まで見たことのない表情をしていた。
ぽかんと口を開けて、丸々と眼を見開いている。鳩が豆鉄砲を食らったような顔、というのはまさしく今の治成様のことを言うのだろう。
いったいどうなさったのかと様子を伺っていると、急に治成様の顔が朱に染まった。
すわ、怪我からくる発熱か、と腰を浮かせかけた私の耳に信じられない言葉が飛び込んでくる。
「ぼくのおよめさんちょうかわいいんだけど!」
「……はい?」
私は耳がおかしくなったのだろうか。
治成様の口から、お嫁さんが、ちょうかわいい……?
はて、かわいいとはどんな意味だったか。罵倒の言葉であっただろうか。それとも可哀想の言い間違いだろうか。
「え、ちょっと待って、ほんとに? ほんとにこの子がぼくのお嫁さん? うそ、まじ?」
「大マジでございます、坊ちゃん」
「えっ、うそっ、まってまって、ほんと? マジ? やったー――! こんなかわいい子をお嫁さんにできるとか、ぼくってすげえ幸運じゃん! 神仏に百遍お礼参りするべきじゃん! ありがとう神様! 仏様! 記憶を失う前のぼく!」
「落ち着いてください、坊ちゃま。記憶を失う前の坊ちゃまが『お嫁さんに落ち着いていて大人っぽいと思ってもらいたい』と培ってきた印象がわりと台無しになっております」
「しっ! ばか! あざみ様の前でそれを言うほうが台無しだろ!」
「いてっ」
治成様は立ち上がって万歳をし始め、口を滑らした奉公人はツネさんに頭をひっぱたかれた。
私はちょっと理解が追いつかず、ほとんど呆けるようにして座っていた。
「あのう、あざみ様、今の話はどうか聞かなかったことに……。あざみ様に一目惚れなさった坊ちゃまは、どうにか好印象を持っていただきたいとご自身なりにおもしろごふんごふん、血の滲むような努力を……」
今おもしろいって言ったなあ。ハチさんはツネさんにまた頭を叩かれた。
「いやでもこんなかわいいお嫁さんとひ、ひとつ屋根の下って、落ち着かなくない?! まともに顔見られなくない?! 今も動悸息切れすごいんだけど?!」
なんと。視線が合わなかったのは私の顔も見たくないから、ではない可能性が。
動悸息切れを自己申告した治成様を粛々と医師が診察した。
「ちょっとはしゃぎすぎですねー。落ち着きましょう、若様。深呼吸してー」
「落ち着けるわけがなくないか?! こんなかわいいお嫁さんがぼくのお嫁さんなんだぞ?! え? 夢? いたいっ、夢じゃない、やったー!」
自分の頬を抓った治成様はまだ興奮した様子で布団の上をぐるぐると走り回っている。その様子はともすれば踊っているようにも見えた。
「落ち着かないとあざみ様に呆れられるかもしれませんよ」
医師の言葉に治成様はすぐさまお行儀よく正座をした。
けれど、赤らんだ顔や耳はそのままだし、体もわずかに震えていて、興奮を現していた。
「あのう、治成様」
「は、はい! なんでしょうか、あざみさん!」
あざみさん、だなんて。初めて名前を呼ばれてしまった。
なんだか昨日までの、冷たい印象のある、やさしいけれど、私を嫌っているとばかり思っていた治成様とはずいぶんと違って見える。
「私の両親と治成様のご両親の縁で仕方なく妻にしていただいたとばかり思っておりましたが、……その、もしや、私は治成様に嫌われているわけではない、ということで……」
しょうか、と最後まで音にすることができなかった。
治成様は顔面蒼白になり、ハチさんは吹き出し、ツネさんが腕をまくって治成様をはたいたからである。それも頭を。頭はやめてあげください、ツネさん。傷が開いてしまいます。
医師がツネさんを羽交い締めてなだめたが、ツネさんは止まらない。布団に倒れ込んだ治成様にさらに追い打ちをかけようとする。私も慌ててツネさんをなだめる側に回った。
「ツネさん、落ち着いてください……!」
「怪我人! 怪我人相手ですから! 頭はヤバイですって!」
「こんの馬鹿! どこをどうしたら一目惚れした恋女房に嫌われてると思われるようになるんだい! あざみ様に反物を贈ったときは見直したのに、情けないよあたしゃ! このヘタレ! そんな子に育てた覚えはないよ!
ハチも笑ってンじゃないよ、この大馬鹿者が! なんでこんなんになるまで放っておいたいんだい! アンタおもしろがってンだろ!」
「だっていつも澄まし顔だった坊っちゃんがアタフタしてるのを見るのが楽……おもしろ……坊ちゃんのいい経験になるかなって」
「こんの馬鹿ー!!」
今楽しいとかおもしろいとか言ったなあ。
もしや治成様はハチさんにおちょくられているのだろうか。心配になってきた。
しかし、ツネさんの拳の行先がハチさんになったので良かったのかも知れない。治成様は怪我をしたばかりなのだし。
そんなすったもんだがありつつ、けっきょく、私は離縁されずに今も百谷家の嫁として日々を過ごしている。
ツネさんに頭をはたかれた治成様は気絶したのち記憶を取り戻し、またいつもの日常が戻ってくるかと思われた。
視線が合えばそらされてしまうし、二人きりになっても会話は続かない。
変わったところといえば、治成様は私の隣からいなくなったりしないし、赤く染まった治成様の顔を見つめる余裕が私にできたことだろうか。
今日は治成様にもらった反物を無事に着物に縫い上げることができたので、そのお披露目も兼ねて二人で庭を散歩していた。
初心な治成様に負けず劣らず男女のいろはなど分からない私にできるのは治成様の手を握ることくらいだが――
「ぎにゃっ!」
「おいやでしたか?」
「いえ! ぜんぜん! いやじゃないよっ! き、きんちょうしちゃうけど! ぼ、ぼくらふ、ふうふだしっ! ねっ! これくらい、ふつー! ふつー!
……て、てあせすごくて、ご、ごめんね」
「それなら私も負けていませんから、お気になさらず」
今の私達にはこれくらいがちょうどよいのだろう。
評価、ブクマ、感想に誤字報告ありがとうございます。
とても嬉しいです。励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします!
治成は風倉家の近くの山で遭難しかけていたところをあざみに助けられて、ぜったいお嫁さんにする!と決めた。
なお、人助けはあざみにとって日常であり呼吸のようなものなので、あざみはいちいち助けた人を覚えていない。




