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二章四話 「恐怖」

イヴァンはナイフについた僕の血を、ゆっくりと舐め取った。


そして。


恍惚とした顔で叫ぶ。


「美味い……!」


「美味い美味い美味い!!」


鳥肌が立った。


スタジアムが歓声に包まれる。


なんで盛り上がってるんだ。


頭がおかしい。


こいつも。


観客も。



イヴァンは笑いながらこちらを見る。


目が完全に狂っていた。


「人殺しほど楽しいことはないねぇ」


「最高だよ」


「人間が壊れる瞬間ってのは本当に美しい」


ゾッとした。



「君はどんな声を聞かせてくれるのかねぇ?」


イヴァンは恋人に話しかけるみたいな優しい声で言った。


余計に怖い。



僕は重い体を引きずりながら後退した。


イヴァンはゆっくり歩いてくる。


急がない。


獲物が逃げられないとわかってる捕食者みたいだった。


「逃げるなよぉ」


ナイフをクルクル回しながら笑う。


怖い。


本当に怖い。



能力のクールタイムが終わる。


今しかない。


僕は再び拍手した。


 パン。


 パン。


 パン。


全身が熱を持つ。


身体能力が跳ね上がる。


地面を蹴った。



高速で接近。


拳を叩き込む。


イヴァンの顔面が揺れる。


 蹴り。


 肘。


 連撃。


だが。


「無駄無駄」


イヴァンは笑っていた。



「俺の能力、聖域は“無敵化”だもの」


 殴っても。


 蹴っても。


効かない。


手応えがあるのに壊れない。


気持ち悪い。



「まあ、くそったれ神に祈らなきゃならんけどなぁ」


「でも、それに見合った力は貰えてる」


「感謝してるよ、神様には」


その言葉に信仰心は感じなかった。


ただ力を利用してるだけだ。



「大人しく殺されなぁ」


ナイフが飛ぶ。


「っ!?」


頬を掠める。


熱い。


血が飛ぶ。



さらにイヴァンは距離を詰めてきた。


ナイフを振る。


 避ける。


 また振る。


 避ける。


ギリギリ。


ほんの少しでも反応が遅れたら死ぬ。



観客席は大盛り上がりだった。


『ロシアンヌ代表優勢!!』


『ジャポニカ代表、防戦一方!!』


実況の声が響く。


うるさい。


黙れ。



僕は逃げた。


情けなくてもいい。


死にたくない。



イヴァンはそんな僕を楽しそうに追いかけてくる。


「いいねぇ」


「そういう顔」


「怯えた顔って最高だ」


笑いながら語り始める。



「俺さぁ、昔から何かを殺すのが好きだったんだよね」


まるで雑談だった。


「最初は猫だったかなぁ」


「次はホームレス」


「女」


「警官」


吐き気がした。



「でもさ、ある日ついに捕まりそうになったんだ」


イヴァンは笑う。


「警察に囲まれてさぁ」


「死ぬかと思った」


「だから初めて祈ったんだよ」


その時。


イヴァンは両手を広げた。


「そしたら神様が応えてくれた」



「撃たれても痛くない」


「刺されても死なない」


「最高だったよ」


狂ってる。


本当に。



「能力者だと判明してからはもっと最高だった」


「国が殺人を黙認してくれたからなぁ」


「能力向上のためって理由で」


観客席から歓声が上がる。


頭がおかしい。


なんでこんな奴を応援できる。



その途中。


イヴァンは腰のボトルを取り出した。


ウォッカみたいに煽る。


ゴクゴクと。



その瞬間。


僕の頭に違和感が引っかかった。


なんで戦闘中に飲む?


酒?



イヴァンが再びボトルを口に運ぼうとした瞬間。


僕は飛び込んだ。


「なっ!?」


奪う。


そのまま一気に飲み干した。



 ……水?


 普通の水にしか感じない。



だが。


イヴァンの顔色が変わった。


「てめぇ……」


笑顔が消える。


「聖水を……」


殺気。


空気が変わる。



「よくも飲み干しやがったなぁ!!」


ブチ切れていた。


初めて余裕が消えた。



でも。


すぐに笑う。


「まあいい」


「なら早く終わらせようか」


次の瞬間。


今までより速い。


ナイフが暴風みたいに迫る。



 避ける。


 避ける。


 避ける。


だが逃げ場が減っていく。


壁際。


終わった。



イヴァンが笑う。


「じゃあな」


ナイフが振り下ろされる。



その瞬間。


僕は両手を構えた。


そして、叩く。



 パンパンパンパンパンパンパンパンパンパン――!!


 高速拍手。


 日本にいた頃、一時期流行ってた遊び。


 この大会開始ギリギリまで思い出して練習した。


 僕の最高記録。


 一秒間十回。



 全身が爆発しそうだった。


 筋肉が悲鳴を上げる。


 視界がブレる。


 だが。


 今の僕なら。



 身体能力100倍。



 地面が砕ける。


 一瞬でイヴァンの背後へ回った。


「――っ!?」


 渾身の拳を叩き込む。



 轟音。


 イヴァンが壁に叩きつけられる。


 スタジアムが揺れる。



 だが。


 イヴァンは立ち上がった。


 無傷で。


能力が切れるまで僕は泣きそうになりながらイヴァンに攻撃を叩き込んだ。


イヴァンの体は宙を舞って吹き飛んで行く。


「あ」


能力が切れた。


終わった。


そう思った。



 能力の反動が来る。


 全身が激痛に包まれる。


 動けない。


 イヴァンが走りながら向かってくる。


 笑いながら。


「怖いか?」


 怖い。


 当たり前だ。



 ナイフが持ち上がる。


 死ぬ。


 そう思った瞬間。



 イヴァンが吐血した。


「……は?」


 膝をつく。


 腕が砕ける音。


 骨が軋む。


 皮膚が裂ける。



 まるで。


今まで受けたダメージが、一気に返ってきたみたいだった。



イヴァンは僕を見て笑った。


「あぁ……」


「そういうことか」


 足元には空になったボトル。



 イヴァンが聖水と呼んでいたもの。


 あれは無敵中のダメージを相殺するためのものだった様だ。


 僕が飲み干したせいで。


 回復できなかった。



 イヴァンは血を吐きながら僕を見る。


「もっと殺したかったなあ」


 そして。


 倒れた。



『勝者――!!』


『ジャポニカ代表!!』


 歓声が響く。


 スタジアムが揺れる。



 でも。


 僕は立ち尽くしていた。


 手が震える。


 呼吸がうまくできない。



 僕は。


 今。


 人を殺したのかもしれない。



 そして理解した。


 この大会は。


 本当に。


 命の奪い合いなんだと。



 怖い。


 怖い怖い怖い。


 なんで。


 なんでこんなことをしなきゃいけない。


この大会が始まる前に湧き上がった感じたことのない感情を消し去るには十分な恐怖だった。



 歓声の中。


 僕だけが。


 壊れそうになっていた。



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