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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

雨音と青空と

作者: 渡夢猿海
掲載日:2025/12/19

AI習作

降り続く雨は、世界から「不純物」を洗い流そうとしているようだった。

その雨は、木々を枯らすことはなく、土を穿つこともない。ただ、人間という生き物と、その毛穴から溢れ出た欲望の産物――アスファルト、コンクリート、プラスチック、合成繊維――だけを、静かに、しかし確実に泥のように溶かしていく。

一ヶ月前、奇跡が起きた。

降り始めてから数年も続いた灰色の雲が割れ、そこには吸い込まれるような、残酷なまでに綺麗な青空が広がったのだ。

人々は泣きながら外へ飛び出した。溶け残ったビルの残骸の上で、あるいは泥にまみれた大地の上で、太陽の光を全身に浴びて歓喜した。もはや雨は降らないのだと、誰もが信じた。

だが、それはただの「呼吸」に過ぎなかった。

数時間後、雲一つない青空から、再び滴が零れ落ちた。逃げ場のない平原で、あるいはシェルターに戻る途中の道で、多くの人間がその雨に触れ、音もなく崩れ去った。

それから、一ヶ月。

レンは、深い森の中にある天然の岩洞窟の奥で、たった一人で石を削っていた。

彼が身にまとっているのは、動物の皮をなめし、植物の蔓で繋ぎ合わせた粗末な服だ。かつて愛用していた防水加工のパーカーは、あの日、雨に触れた瞬間にレンの肩の上でドロドロと溶け落ちた。

「……あと、少し」

削り出しているのは、石のナイフだ。金属製の道具はもう手に入らない。鉄もアルミも、人間が加工し、形を与えた瞬間から、この雨の捕食対象になるからだ。

洞窟の入り口からは、絶え間ない雨音が聞こえてくる。

シュアアア、というその音は、かつての都会の喧騒よりもずっと優しく、そして冷酷だ。

レンは立ち上がり、洞窟の縁まで歩いた。

目の前に広がるのは、かつて大都市と呼ばれた場所だ。しかし今、そこには高層ビルの一角すら残っていない。コンクリートは溶けて灰色の泥となり、鉄骨は錆びる暇もなく形を失った。

その代わりに、そこには圧倒的な「緑」があった。

人間が消え、人間が作った道が消えた場所を、シダ植物や巨木が猛烈な勢いで侵食している。雨は植物にとってはただの恵みでしかない。皮肉なことに、地球は今、かつてないほど生命力に満ち溢れていた。

「……綺麗なもんだな」

レンは自嘲気味に呟いた。

一ヶ月前、あの青空の下で隣にいた少女の姿を思い出す。彼女は空を見上げ、「神様が許してくれたんだね」と笑った。その直後、青空から降ってきた一滴が彼女の額に当たった。彼女の体は、まるで熱い湯に落とした角砂糖のように、ふわりと地面に溶けて混ざり合った。

彼女が着ていた服も、大切にしていたペンダントも、彼女自身の体も、今はもうどこにもない。ただの濁った水となって、森を潤しているだろう。

この世界で生き残るためのルールは単純だ。

「人間」であることを捨て、「自然の一部」になりきること。

人工物に頼らず、石を使い、皮を剥ぎ、火を熾す。雨を遮るのは、人間が作った屋根ではなく、太古からそこにある岩肌でなければならない。

レンは、洞窟の隅に溜まった「真水」を掬って飲んだ。

空から降る雨は猛毒だが、一度土に濾過され、岩肌を伝ってきた水は、ただの冷たい水に戻る。この世界の雨は、人間という概念そのものを拒絶しているのだ。

ふと、雨足が弱まった。

雲の切れ間から、またあの青空が覗こうとしている。

レンはそれを見て、喜びではなく、深い恐怖を感じた。

「また、誘い出そうとしているのか」

あの青空は、希望ではない。

獲物を誘い出すための、世界の「罠」だ。

外に出れば、また誰かが溶ける。その美しさに目を奪われた瞬間に、足元から消えていく。

レンは青空に背を向け、洞窟の奥深くへと戻った。

手には、削りかけの石のナイフ。

外では、世界が美しく、残酷に、人間を消し去ろうとしている。

流れる水の音だけが、絶え間なく、世界の再生を歌っていた。

レンは、完成したばかりの石のナイフを腰の皮帯に差し込んだ。

胃袋が、焼けるような不快な感覚を発している。最後にまともな食事をしたのは二日前だ。

洞窟の外は、まだ雨が降っている。

しかし、この世界の「捕食者」である雨を恐れていては、飢え死にするのを待つだけだ。レンは大きなフキに似た植物の葉を数枚重ね、それを蔓で頭と肩に固定した。即席の「天然の雨具」だ。これなら溶けない。直接浴びたてはいけないが、木々の隙間から降る雨ならば十分に防げる。

彼は岩壁に沿って、慎重に外へと踏み出した。

「……森が、また深くなったな」

かつてここには国道へと続くアスファルトの道があった。だが今は、雨に溶けたアスファルトが養分になったのか、見たこともないほど巨大なシダ植物と、太い蔓が地面を完全に覆い尽くしている。

レンの狙いは、数日前に仕掛けた罠だった。

人間が作った金属製のトラップや釣り糸は使えない。彼は丈夫な木の枝を曲げ、弾力を利用した跳ね上げ式の罠を、動物の通り道に設置していた。紐の代わりに使ったのは、水に強い木の皮を叩いて編み込んだものだ。

森の中は、命の匂いで充満していた。

濡れた土の匂い、植物が吐き出す濃密な酸素、そして――。

「……かかってる」

視線の先、低木の茂みの中で何かが暴れていた。

罠にかかっていたのは、灰色の毛並みをした野ウサギだった。かつての世界にいたものより一回り大きく、瞳は雨の色に似た淡い青色をしている。

レンは音を立てずに近づき、腰の石ナイフを抜いた。

ウサギはレンの姿を見ると、怯えたように鼻を鳴らした。その目は「なぜ同じ生き物が自分を殺そうとするのか」と問いかけているようだった。

かつてのレンなら、躊躇しただろう。だが、今のレンにとって、目の前の命は「肉」であり、「明日を生きるための燃料」でしかない。

「済まないな。……お前は溶けないが、俺は放っておくと溶けて消えるんだ」

レンは素早くウサギの首を抑え、石の刃を突き立てた。

鉄のナイフのような鋭さはない。力任せに引き切り、命の灯火が消えるのを手のひらで感じ取る。温かい血がレンの指を濡らした。

悠長にしている時間はない。運悪く雨が一滴でも体に当たればおしまいだ。たった一人で生きるレンは、体が動かなくなれば死ぬしかない。

レンは急いで獲物を抱え、拠点としている洞窟へと移動した。

移動中。ふと、木の根元に「不自然な塊」があるのが目に入った。木が防ぎ、僅かな雨にしか触れなかった

それは、かつて誰かが持っていたであろう、ナイロン製のリュックサックの成れの果てだった。プラスチックのバックルだけが原形を留めず、黒い飴細工のように地面にこびりついている。そのすぐ横には、持ち主だったはずの人間が溶けた痕跡が、わずかに土の色を変えて残っていた。

「……俺も、いつかこうなる」

彼は洞窟に帰ると、手際よくウサギを捌き始めた。

石の刃を使い、皮を剥ぎ、内臓を取り出す。かつてスーパーマーケットでパック詰めの肉を買っていた頃には想像もできなかった、生々しい作業だ。

レンは剥ぎ取ったばかりの生肉を口に運んだ。

火を熾すのは今回はやめた。雨が止まない今では、薪は酷く貴重な物だからだ。

獣の脂の味が口の中に広がる。それはひどく野蛮で、しかし、自分がまだ「物質」ではなく「生命」であることを実感させる確かな味だった。

雨音は、依然として止まない。

レンはウサギの毛皮を大切に丸めた。これを乾かせば、新しい防寒具になる。

人間が作った文明を一つ失うたびに、彼はこうして獣の皮を纏い、石を研ぎ、原始へと退化していく。

そうしなければ、この美しすぎる雨の世界では、一秒も生き残れないのだ。

レンは血のついた手を、岩壁から滴る「濾過された水」で洗った。


その日の青空は、これまでのものとは明らかに違っていた。

数時間で終わるはずの「呼吸」のような晴天ではない。朝に雲が切れてから、昼を過ぎ、夕刻が迫っても、空はどこまでも高く、透き通った青を維持していた。

レンは洞窟の入り口で、研ぎ澄まされた警戒心と共に空を睨んでいた。

「……長すぎる」

一ヶ月前、あの青空に騙されて多くの命が消えた。この静寂は、次の大量殺戮のための残酷な準備期間にしか思えなかった。

だが、空腹と喉の渇きは待ってくれない。レンは恐怖を押し殺し、森のさらに深奥へと足を踏み入れた。

そこで、彼女に出会った。

かつて広場だったと思われる、今は巨大な白い花々が咲き乱れる草原の真ん中に、彼女は立っていた。

人間が作った衣服は一切身に着けていない。代わりに、大きな白い花のまわりを漂う薄い絹のような、植物の繊維で編まれた不思議な布を纏っていた。

彼女は、あまりにも無防備に空を見上げていた。

「おい……! 隠れろ!」

レンは思わず声を荒らげ、茂みから飛び出した。

彼女は驚いたように振り向いた。その瞳は、空の青をそのまま映し込んだかのように澄んでいた。

「隠れる? なぜ?」

彼女の声には、怯えも、この世界を生き抜く者特有の硬さもなかった。

「なぜって……雨が降る。空があんなに青いんだ、次に降る雨は、お前を跡形もなく溶かすぞ」

レンは彼女の腕を掴もうとして、その白く瑞々しい肌に触れるのを躊躇った。自分の手は泥と獣の血で汚れている。

「雨……? 溶かす……?」

彼女は首を傾げた。その仕草、その無垢な表情。

レンの脳裏に、一ヶ月前に溶けて消えた「あの子」の笑顔が重なった。

『神様が、許してくれたんだね』

あの子も、最期にそう言った。その直後、空から降ってきた一滴があの子の形を奪ったのだ。

「名前は? どこのシェルターから来た?」

レンが畳みかけるように問うと、彼女は困ったように笑った。

「名前……わからない。私は、ずっとここにいたような気がするの。あたたかい光が気持ちよくて、ただ、見ていたの」

レンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

自分の名前を知らず、雨の恐怖も知らない。そんな人間がこの世界を生き延びられるはずがない。彼女は、この狂った世界が生み出した幻覚なのか。

その時、風が変わった。

湿り気を帯びた、重い風。遠くの空の端に、墨をこぼしたような黒い雲が急速に広がり始めた。

「……っ、来るぞ!」

レンは迷いを捨てた。彼女の細い手首を掴み、強引に走り出す。

「痛い、離して!」

「黙ってろ! 死にたくなかったら走れ!」

彼女は抵抗したが、レンの必死な形相に気圧されたのか、ぎこちない足取りでついてきた。

森を駆け抜け、棘のある蔓に肌を裂かれながら、レンはひたすら洞窟を目指した。

背後から、あの音が聞こえてくる。

シュアアア……という、世界を洗い流す死の足音。

「早く!」

洞窟の入り口に滑り込んだのと同時だった。

背後の世界が、一瞬にして真っ白な雨のカーテンに覆われた。それは、これまで見たどの雨よりも強かった。

植物を潤し、土を固めるその雨は、木の根元に残っていた「リュックサック」に触れた瞬間、それをドロドロの黒い汁へと変えた。

「はぁ、はぁ……っ」

レンは洞窟の壁に背を預け、激しく肩を上下させた。

隣では、彼女が不思議そうに外の景色を眺めていた。

「あれが、雨……? 綺麗……」

「綺麗なんて言うな。あれは俺たちを殺すための毒だ」

レンは吐き捨てるように言い、彼女の方を見た。

雨に濡れた彼女の肩から、一滴の水が滴り落ちた。

レンは息を呑んだ。

溶けない。

彼女の肌は、雨に触れても崩れることなく、ただの水を弾くように輝いている。

彼女が纏っている植物の布も、溶ける気配がない。

「お前……何者だ?」

レンの問いに、彼女は答えなかった。ただ、雨音に耳を澄ませ、歌うような声で呟いた。

「空が、泣いているみたい。……ねえ、あなたは、私の名前を教えてくれる?」

外では、一ヶ月前よりもさらに激しい雨が降り始めていた。

人間を拒絶する世界の中で、レンは、震える手で石のナイフを握りしめたまま、名前を持たない少女と二人、暗い洞窟の中で静止していた。

あの子に似た面影を持つ、この「雨に溶けない少女」を救ったことが、希望なのか、あるいはさらなる絶望の始まりなのか。レンにはまだ、分からなかった。

洞窟を叩く雨音は、どこか遠い太古の鼓動のように響いていた。

岩肌に置かれた小さな焚き火が、爆ぜる音を立ててオレンジ色の光を投げかける。

少女は、火を不思議そうに見つめていた。熱いという概念すら知らないのか、指先を炎に近づけようとするので、レンは慌ててその手を引いた。

「危ない、火傷するぞ」

「やけど……? これ、お花みたい」

「花じゃない。お前を焼く熱だ」

レンはため息をつき、捌き終えたウサギの肉を枝に刺して火に翳した。脂の焼ける匂いが立ち込める。

「……名前がないのは不便だ。お前をどう呼べばいい?」

「名前。私を呼ぶための、おまじない?」

「ああ、そうだ。お前が『お前』であることを決める言葉だ」

レンは少し考え、外の止まない雨と、あの残酷なまでに澄んでいた空を思い出した。

「……『ソラ』はどうだ。あの異常な晴れ間に現れたからな」

「ソラ……ソラ」

彼女は自分の胸に手を当てて、その響きを確かめるように繰り返した。

「ソラ。私、ソラ。嬉しい……なんだか、心が温かくなるみたい」

「それは、お前が今、生きているからだ」

レンは焼き上がった肉を、木の葉に載せて彼女に差し出した。

「食え。生きるには食べなきゃいけない」

ソラは肉をじっと見つめ、恐る恐る口に運んだ。

「……美味しい。でも、悲しい味がする。これ、さっきのふわふわした子?」

「そうだ。何かを殺して食べなきゃ、人間は形を保てない」

ソラは咀嚼しながら、首を傾げた。

「ねえ、レン。人間って、なあに?」

そのあまりに根本的な問いに、レンは言葉に詰まった。

「人間は……雨に溶ける生き物だ。神様に嫌われたのか、あるいは世界に拒絶されたのか。とにかく、脆くて、すぐに消えちまう弱点だらけの存在だよ」

「レンも、溶けるの?」

「ああ。あの一滴でも肌に触れれば、俺は泥になって、お前が今食べているウサギの餌になるだろうな」

ソラは悲しそうに目を伏せた。

「溶けるのは、いけないこと?」

「いけないことじゃない。ただ、怖すぎるんだ。消えてなくなるのが、自分という存在が水に混ざって、誰にも思い出されなくなるのが……」

レンの脳裏に、あの子の最後が浮かぶ。

溶けていく瞬間、彼女は苦しそうではなかった。ただ、驚いたような顔をして、水になっていった。それがレンには、たまらなく恐ろしかった。

「私は、溶けない」

ソラが静かに言った。

「雨は私に優しくしてくれる。歌を歌ってくれるの。……ねえ、レン。怖がらないで。もしあなたが溶けても、私がその水を全部集めて、ずっとずっと覚えておくから」

「……馬鹿なことを言うな。俺が溶けたら、お前は一人になるんだぞ。こんな何もない世界で」

「一人じゃないよ。雨も、草も、さっきのふわふわの子も、全部ここにいるもの。……ただ、レンとお話しできなくなるのは、少しだけ、胸が痛いかもしれない」

ソラはそう言って、初めてレンに微笑みかけた。

その笑顔は、かつてレンが守れなかった少女に、残酷なほど似ていた。

レンは視線を逸らし、石のナイフを強く握りしめた。

彼女は人間ではないのかもしれない。この雨が、人間の代わりに地上へ送り込んだ「新しい住人」なのかもしれない。

だとしたら、自分はとっくに滅びるべき旧世界の残骸だ。

それでも、レンはソラの無垢な瞳を見ていると、もう少しだけ、この泥臭い命を繋ぎ止めていたいと思ってしまった。

「……ソラ。雨が上がるまで、ここにいろ。外には絶対に出るなよ」

「うん。レンがそう言うなら、そうする」

雨は激しさを増していく。

溶ける者と、溶けない者。

奇妙な共同生活が、灰色のカーテンに閉ざされた洞窟の中で始まった。

ソラとの生活が数日過ぎた頃、レンは言いようのない不気味さと、やり場のない苛立ちを抱えるようになっていた。

彼女は、あまりにも「空っぽ」だった。

「レン、それはなあに?」

ソラは、レンが石で毛皮を削り、脂を落としている様子をじっと見つめていた。その瞳には、溢れんばかりの好奇心がある。しかし、彼女は自分から手を伸ばそうとはしない。教えれば「ふうん」と頷くだけで、自らそれを試そうとも、もっと深く知ろうともしなかった。

ただ、レンが「ここに座っていろ」と言えば、何時間でも石の上に座っている。「火を見るな」と言えば、たとえ背後で何かが爆ぜても決して振り返らない。その従順さは、意志の欠如というよりも、この世界のルールそのものを持ち合わせていない者の振る舞いだった。

何より、レンを苛立たせたのは、彼女に「必要」という概念が存在しないことだった。

「……おい、それを敷け。床は硬いだろ」

レンは自分が使っていた予備の毛皮を彼女に放り投げた。しかし、ソラはそれを膝の上に乗せたまま、不思議そうに首を傾げた。

「固いと、どうなるの?」

「……体が痛くなる。朝起きたときに、節々が重くなるんだ」

「痛い……。重い……」

彼女は言葉の意味を咀嚼するように呟いたが、結局その夜、彼女は毛皮を敷くこともなく、冷たい岩肌の上に直接座り、ただ瞬きを繰り返して朝を迎えた。

彼女の肌は、鋭い岩の角にぶつかっても赤くなることさえなかった。レンの足が泥と傷でボロボロになっているというのに、彼女の足裏は赤ん坊のように白く、滑らかなままだ。服も、靴も、眠るための場所も。生存のためにレンが必死で積み上げてきた「防壁」のすべてを、彼女は必要としていなかった。

そして、食事だ。

「……食わないのか」

レンが差し出した干し肉を、彼女は一度は口にしたが、二度目からは静かに首を振った。

「いらないの。お腹が空く、という感覚が、私にはやってこないみたい」

「水は?」

「雨の音が聞こえるから、それで足りているわ」

レンは手に持っていた肉を地面に叩きつけそうになった。

自分は、泥を啜り、獣の返り血を浴び、雨から逃げ惑いながら、必死で「人間」を維持している。だというのに、目の前の少女は呼吸をするだけで、その純白の存在を維持し続けている。

「……お前、本当に人間か?」

思わず漏れた問いに、ソラはいつもの無垢な笑顔を返した。

「わからないわ。でも、レンが私を助けてくれたとき、あなたの手はとても熱かった。……それは覚えているわ」

その言葉に、レンは毒気を抜かれた。

あの日、溶けてしまったあの子の手も、確かに熱かった。最期の瞬間まで、必死にレンの指を握り返していた。

だが、ソラにはその「熱」がない。

彼女の肌に触れても、そこにあるのは体温ではなく、ただの物質としての冷たさか、あるいは大気そのものの温度だった。

ソラは、何も欲しがらない。

空腹も、疲労も、苦痛も知らない。

彼女は、この「人間を拒絶する世界」に、最初から最適化されているのだ。

「……勝手にしろ。寝るぞ」

レンはぶっきらぼうに言い捨て、焚き火のそばに横たわった。

目を閉じても、雨音が耳にこびりついて離れない。

暗闇の中で、ソラだけが目を開けて座っているのを感じる。

彼女は眠る必要さえないのだ。

暗い洞窟の中で、ただ一点を見つめ、雨音を聴き続けている存在。

レンは、自分が「救った」はずのものが、実は自分をあざ笑う世界の象徴ではないかという疑念に、じわじわと蝕まれていった。それでも、時折彼女が漏らす「レン」という自分の名前を呼ぶ声だけが、彼を正気の世界に繋ぎ止めていた。

不運は、あまりにも静かに、そして唐突に訪れた。

食料調達の帰り道、かつて「住宅街」だった場所を飲み込んだ深い森を通り抜けていた時のことだ。急激な植物の成長によって地盤が緩んでいたのか、あるいは地下にあった古い下水道の跡が朽ちて陥没したのか。

レンが踏み出した一歩の下で、地面が音もなく崩れた。

「……っ!?」

咄嗟に手を伸ばしたが、掴んだ蔓はレンの重みに耐えきれず千切れた。斜面を数メートル滑り落ち、勢いよく倒れてきた巨木の根と、崩落した岩の隙間に右足が深く挟まった。

凄まじい衝撃と、それに続く熱い痛み。

レンは顔を歪め、呻き声を上げた。

「……はぁ、はぁ……くそ、動け……!」

岩を退かそうと両手に力を込めるが、数トンはあろうかという自然の重量は、人間の腕力ではびくともしない。石のナイフで根を削ろうとしたが、水分を吸って鉄のように硬くなった巨木を削るには、何日かかるか分からなかった。

幸い、ここは巨大なシダの葉が幾重にも重なり、天然の屋根になっている。

だが、それだけだ。

一度雨が本降りになれば、葉の隙間から漏れ出す滴が、動けないレンの体を少しずつ、確実に溶かしていく。それは拷問のような、緩やかな死の宣告だった。

「……レン?」

頭上から、場違いなほど穏やかな声が降ってきた。

ソラだ。彼女は何の傷もなく、崩れた斜面の上に立ち、不思議そうにレンを見下ろしている。

「ソラ……っ、来るな。そこは足場が悪い」

「レン、そこで何をしているの? 下で寝ることに決めたの?」

彼女の瞳には、やはり「危機感」という色がない。

仲間が窮地に陥り、死に瀕しているという状況を、彼女の脳は理解できないのだ。

「いいか、よく聞け。俺は……怪我をした。ここから動けない」

レンは荒い息をつきながら、必死に言葉を紡いだ。

「雨が降れば、俺は溶ける。……お前は溶けないが、俺はここで終わりだ。お前は……一人で洞窟に帰れ。わかるか? 帰るんだ」

ソラは首を傾げ、ゆっくりと斜面を降りてきた。

彼女の足取りは危なげなく、まるで平坦な道を歩いているかのようだ。彼女はレンのすぐそばに座り込み、岩に挟まった彼の足を見つめた。

「帰らないわ。レンがここにいるもの」

「馬鹿を言うな! 俺が溶けるところを見たいのか!? ……ドロドロの、ただの汚れになるんだぞ。あいつみたいに……!」

一ヶ月前、目の前で溶けていった少女の残像がフラッシュバックする。

あの時も、自分は何もできなかった。ただ、彼女が液体になって地面に吸い込まれていくのを、悲鳴を上げながら見ていることしかできなかった。

今度は、自分がその番なのだ。

「ねえ、レン」

ソラは、レンの泥にまみれた頬に、そっと手を触れた。

その手はやはり冷たく、何の感情も伝わってこない。

「溶けるのが怖いなら、私が隠してあげる。雨があなたを見つけられないように。……どうすればいい? 教えて。あなたが言うことなら、私、なんでもするわ」

彼女には、自ら状況を判断して動く力はない。

だが、レンが「命じれば」、彼女はこの理不尽な世界で唯一の、雨に耐えうる「盾」になり得る。

遠くで、雷鳴が轟いた。

シュアアア……という、あの死の足音が近づいてくる。

レンは絶望に目を閉じた。

自分の命を繋ぐために、また誰かを使うのか。あるいは、彼女を追い払い、独りで無様に溶けていく道を選ぶのか。

木の葉を叩く、最初の一滴の音が聞こえた。

世界が、レンを「不純物」として処理し始める時間がやってきた。

シダの葉を透過した雨の雫が、レンの右腕に落ちた。

「あ……っ」

熱い。火を押し当てられたような痛みが走り、皮膚がわずかに白く濁り始める。溶け始めているのだ。一滴、また一滴と、死の抱擁が彼を侵食しようと落ちてくる。

逃げ場はない。足は岩と巨木に阻まれ、感覚を失いつつある。

目の前には、ただ無垢な瞳で自分を見つめるソラがいる。

かつて、あの子が溶けていくのをただ見ていた。あの時、もし自分がもっと強く彼女の手を引いていたら。もし、身代わりになれる術があったなら。

後悔が、恐怖が、そして生きることへの浅ましい執着が、レンの喉を突き破った。

「ソラ……っ! 命令だ、俺を助けろ!」

ソラは瞬きをした。

「どうすればいいの、レン」

「俺を隠せ! 一滴も、この雨を俺に当てるな! お前の体で、俺を覆え!」

それは、少女の形をした存在に対する、あまりにも非道な命令だった。彼女をただの「傘」として、肉体の盾として、そして物として使うということなのだから。

「わかったわ、レン。あなたの命令なら」

ソラは躊躇なく動いた。

彼女はレンの上に跨るようにして、その小さな体で彼を覆い隠した。彼女の細い腕が、レンの首の後ろに回される。彼女の胸が、レンの顔を雨から遮る。

直後、激しい雨の奔流が二人を襲った。

シュアアアアア! と、世界を削り取るような轟音。

ソラの背中に、肩に、髪に、無数の雨粒が叩きつけられる。人間であれば、数秒で形を失い、泥水となって流れ去るほどの雨量。

だが、ソラは微動だにしなかった。

雨粒は彼女の白い肌に触れた瞬間、心地よい調べを奏でるかのように、ただの冷たい水となって弾け、滑り落ちていく。

「レン、痛い?」

至近距離で、彼女の声が聞こえる。雨音にかき消されそうな、静かな声。

「……痛くない。お前が、遮っているから」

レンは彼女の体温のない胸に顔を埋めたまま、震える声で答えた。

彼女の体からは、何の匂いもしない。血の匂いも、汗の匂いも、生命の躍動も感じられない。ただ、岩のように硬く、そして絶対的な「不変」がそこにあった。

自分を守っているのは、かつて愛した少女と同じ顔をした、人間ではない何か。

その事実に、レンは救いと同時に、底知れない吐き気を覚えた。

自分は今、人間であることを捨てたのかもしれない。

自分を拒絶する世界の中で、世界の一部である彼女に縋り、命を乞うている。

「ねえ、レン。不思議ね」

ソラが、雨に打たれながら囁いた。

「あなたの心臓の音が、私の体に響いているわ。ドク、ドクって。……これが『生きてる』っていうことなの?」

「……ああ、そうだ。お前が持ってない、醜くて、うるさい音だ」

「綺麗よ。この音、雨の音よりずっと好きかもしれない」

雨は激しさを増し、僅かに残ったものすら溶かし、作り替えていく。

倒木の下、暗い隙間で、二人は重なり合っていた。

溶けていく男と、決して溶けない少女。

レンは、自分を抱きしめる彼女の腕の冷たさに、皮肉な安らぎを感じていた。

あの日、救えなかったあの子の代わりに、自分はこの「偽物の少女」に生かされている。

雨音が止むまで、まだ長い時間がかかるだろう。

レンは目を閉じ、ソラの体越しに伝わる、世界が崩壊していく振動を感じ続けていた。

彼女という「盾」の内側で、レンはかろうじて、まだ「人間」の形を保っていた。

一滴の雨に触れた右手の甲は、ひどい火傷の痕のように、生々しく赤く、そして一部が飴細工のように滑らかに溶け崩れていた。指の関節は不自然に癒着し、もはや石を握ることも、土を掘ることもままならない。

レンの中から、「彼女を人間として扱う」という甘い倫理観は消え失せた。

「ソラ、その岩をどかせ。左側に力を入れろ」

「……こう?」

「違う、もっと下だ。お前の体なら壊れない。もっと全力で押せ!」

レンは冷酷に命じ続けた。ソラは言われるがまま、細い腕を泥まみれの岩にかけ、人間なら骨が砕けるような圧力を平然と受け流しながら、レンの足を押し潰していた巨木と岩を動かした。

ようやく自由になった右足は、赤黒く腫れ上がり、嫌な角度に曲がっている。自力で歩くことはおろか、立ち上がることさえ不可能だった。

「……次は、あっちの木の実を拾ってこい。紫色のやつだ。それから、その横に生えている平たい葉もだ」

ソラは、レンの指示がなければ、目の前に食べ物があっても拾おうとはしない。レンは痛みで朦朧とする意識の中、彼女を指先一つで操る人形のように扱い始めた。

「レン、持ってきたわ。これでいいの?」

「ああ……その葉を噛み潰せ。お前の唾液に毒はないはずだ。それを、俺の手に塗れ」

ソラは無感情に葉を口に入れ、咀嚼し、それをレンの溶けかかった傷口に塗りつけた。彼女の指先が触れても、レンの心はもう動かない。

「次は、俺を担げ。洞窟に戻る。……いいか、一滴でも雨に触れさせるな。お前の髪で、服で、俺を完全に覆い隠せ」

「わかったわ。……レン、あなたは、前よりもずっと私を呼んでくれるのね。嬉しい」

ソラは、レンを背負うというよりは、壊れやすい荷物を守るように胸に抱え込んだ。彼女の肌は相変わらず冷たいが、その頑強さは今のレンにとって、神の救いよりも確かなものだった。

道中、レンは彼女の肩越しに、溶けかけた自分の右手を見つめていた。

五本の指のうち、二本はすでに原型を留めていない。人間としての機能が失われるたびに、彼はソラへの依存を深めていく。

「……ソラ」

「なあに?」

「お前は、疲れないんだな」

「ええ、平気よ。どこまでも行ける気がするわ」

かつて愛したあの子なら、こんなに重い自分を背負えばすぐに息を切らして笑っただろう。転べば血を流し、雨に打たれれば泣きながら消えていっだろう。

だが、今自分を運んでいるこの「モノ」は、どれほど過酷な命を投げつけても、傷一つ負わずにそれを受け入れる。

レンは、彼女の首筋に顔を埋めた。

雨を避けるため。ただ、それだけのために。

「そうだ……お前は、俺の道具だ。俺が生き残るための、ただの盾だ」

自分に言い聞かせるように呟いた言葉に、ソラは「ええ、そうね」と、鈴を転がすような声で答えた。

彼女には自尊心も、苦痛も、拒絶もない。

レンが命じれば、彼女は雨の中をどこまでも歩き、レンが望めば、その身を削ってでも彼を生かし続けるだろう。

レンは、自分がどんどん醜い化け物になっていくような感覚に陥った。

肉体は雨に溶け、精神は生き残るための醜悪な独裁へと溶けていく。

それでも、彼は死にたくなかった。

雨の降りしきる森の中、不自由な体を引きずる人間と、その人間を「絶対の守護」として抱く異形の少女。

二人の奇妙な共生関係は、もはや「救済」と呼べるものではなくなっていた。

それは、滅びゆく種族が、新世界の住人に寄生して生きながらえようとする、無惨で執拗な「執着」の光景だった。

洞窟の中に、肉が焦げる嫌な匂いが立ち込めた。

レンは、溶けかかった右手で無理やり石のナイフを握ろうとしていた。指の関節が癒着し、思い通りに力が伝わらない。無理に力を込めれば、薄くなった皮膚が裂け、透明に近い組織がにじみ出す。

「くそっ……あ……っ!」

乾いた音を立てて、石のナイフが地面に転がった。切り損ねたウサギの肉は、焚き火の灰の中に落ち、無惨に汚れ、一部が炭のように黒ずんでいる。

かつては当たり前のようにできていた「食事の支度」さえ、今のレンには至難の業だった。火を熾し、肉を捌き、焼く。その人間としての最低限の営みが、指先からこぼれ落ちていく。

「レン、失敗したの?」

背後から、ソラの静かな声がした。彼女はいつものように、感情の読めない澄んだ瞳でレンの手元を見つめていた。彼女にとって、肉が灰にまみれることも、レンが苦痛に顔を歪めることも、ただの「現象」に過ぎない。

「……黙ってろ。やり直すだけだ」

レンは左手でナイフを拾い上げたが、慣れない手つきでは、肉の繊維を断つことすらできなかった。苛立ちと情けなさが混ざり合い、視界が熱くなる。自分はもう、誰かの助けなしには食うことさえできないのか。

ソラは、膝をついてレンの顔を覗き込んだ。

「ねえ、レン。私に、命令をちょうだい」

その言葉は、優しさではなく、ただ純粋な「機能の提供」だった。

「命令……?」

「そう。あなたの手は、もううまく動かないのでしょう? だから、私を動かして。あなたが頭の中で思っていることを、私の体に命じて」

ソラは、自分の白く完璧な両手を差し出した。

傷一つなく、雨に打たれても決して損なわれることのない、新世界の部品。

「お前に……料理なんてできるのか。お前は食べる必要さえないのに」

「できないわ。でも、あなたが『切れ』と言えば切るし、『焼け』と言えば焼くわ。私の手を使って、あなたが作るの。……それなら、できるでしょう?」

レンは、差し出されたその美しい手を見つめた。

これを受け入れることは、自分の「生存」を完全に彼女に明け渡すことだ。自分で肉を焼く自由さえ捨て、彼女という道具を介してしか世界に触れられなくなる。

「……肉を拾え」

絞り出すような声で、レンは命じた。

「はい、レン」

ソラは灰の中から肉を拾い上げた。汚れなど気にする様子もない。

「石のナイフを持て。……左側から、骨に沿って刃を入れろ。ゆっくりだ」

ソラの手は、驚くほど正確だった。レンの言葉を寸分違わず実行に移していく。彼女には躊躇も、雑念もない。レンの思考が、そのまま彼女の指先に流れ込んでいるかのようだった。

「……そうだ。次は火にかざせ。遠火でいい。脂が浮いてくるまでだ」

レンの指示に従い、ソラは火の粉が舞う中に手を差し入れた。熱を恐れる素振りさえない。

やがて、香ばしい匂いが漂い始めた。完璧に焼き上がった肉を、ソラはレンの口元へと運んだ。

「食べて、レン。あなたの体を作るための、燃料でしょう?」

レンは、彼女の手から肉を食らった。

自分ではもう、この味を作ることはできない。ソラというフィルターを通さなければ、自分は飢えて死ぬだけだ。

肉を咀嚼しながら、レンは言いようのない孤独を感じていた。

腹は満たされていくが、魂が少しずつ削り取られていくような感覚。

「美味しい?」

ソラが首を傾げて尋ねる。

「……ああ。皮肉なほど、完璧だ」

レンは、溶けた右手を隠すように、ボロボロの毛皮に深く潜り込ませた。

外では、依然として雨が降り続いている。

世界から人間を消し去ろうとする雨の音の中で、レンは自分の意志を「命令」という形に変えて、目の前の異形な少女に託し続けるしかなかった。

「もっと命令して、レン。私、あなたが望む形になりたいの」

ソラの微笑みは、暗い洞窟の中で、消えかけた焚き火よりもずっと明るく、そして恐ろしかった。

一ヶ月前まで、レンにとって「生きる」とは、雨から逃げ、獲物を狩り、自らの足で大地を踏みしめる能動的な行為だった。

だが今、彼の世界は、数メートル四方の洞窟の中と、ソラという「外部端末」を介した間接的な体験へと変貌していた。

「ソラ、右だ。もう少し右の岩を削れ。そこに水が溜まると湿気で傷が疼く」

レンは洞窟の奥、毛皮を何枚も重ねた即席の寝床に座り込み、指示を出す。

右足の骨折は歪んだまま固まりつつあり、自力で立つことすらままならない。溶けかかった右手は、今や包帯代わりの皮の下で、感覚の失われた肉の塊と化していた。

「こう? レン」

ソラは、鋭い石の破片を素手で握り、硬い岩盤をガリガリと削り取っていく。人間なら指の皮が破れ、爪が剥がれるような重労働だ。だが彼女の手は、まるで鋼鉄でできているかのように、傷一つ負わずに岩を削り、完璧な排水溝を作り上げていく。

「……ああ、それでいい。次は、俺の体を拭け。……濾過した水を使えよ。直接の雨水が混じってないか、三回確認しろ」

「わかったわ、レン」

ソラは立ち上がり、岩肌を伝って落ちてくる「安全な水」を木の器に汲んだ。そして、レンのそばに跪く。

彼女はレンのボロボロになった服――もはや布切れに近い皮――を脱がせ、その痩せ細り、一部がただれた肌を湿った布で拭い始めた。

かつてのレンなら、年若き少女に裸を晒し、体を拭かれることに猛烈な羞恥心を感じたはずだ。だが今の彼にあるのは、ただ「清潔を保たなければ、この傷から腐っていく」という生存本能だけだった。

ソラの指先が、溶けかかった右手の境界線に触れる。

「ここは、柔らかいのね。レンが少しずつ、水になっていっているみたい」

「……余計なことを言うな。ただ拭け」

「ええ。命令どおりに」

ソラは、レンが排泄をする時でさえ、無表情にその体を支えた。彼が泥の中で惨めに這いつくばるのを防ぐために、彼女の強靭な腕はレンの腰をがっしりと抱え込む。

レンは彼女の肩に顔を埋め、自分の尊厳が音を立てて崩れていくのを感じながら、同時にその「絶対的な安定感」に安堵している自分を呪った。

彼女がいなければ、自分は今ごろ自分の排泄物と泥にまみれ、傷口から感染症を起こして死んでいただろう。あるいは、喉の渇きに耐えかねて洞窟の外へ這い出し、雨に打たれて溶けていたはずだ。

「ソラ、喉が渇いた。……ここまで持ってこい。こぼすなよ」

「はい、レン」

ソラは水を汲み、レンに器を渡す。レンは左手で水を飲んだ。そんな微かな抵抗をしている自分にすら腹が立つ。レンは赤ん坊のように、彼女に生かされている。その事実は変わらないというのに。

食事、排泄、移動、そして睡眠中の守衛。

レンの意志はすべてソラへの「命令」へと変換され、ソラの肉体を通して現実のものとなる。

いつしかレンは、ソラを鏡のように見るようになっていた。

彼女が動くのは、自分が命じた時だけだ。彼女が何かを拾うのは、自分がそれを欲した時だけだ。

彼女はレンの失われた手足であり、欠けた臓器だった。

「レン、外の雨がまた少し強くなったわ」

水を飲ませ終えたソラが、洞窟の入り口を見つめて言った。

「……そうか。なら、入り口の近くに置いてある俺の靴(皮の端切れ)を奥に下げろ。湿気でカビる」

「わかったわ。……ねえ、レン。私はあなたの代わりに何でもできるけれど、あなたはどうして、私に『笑って』とは命令しないの?」

不意の問いに、レンは言葉を失った。

「……笑う? そんなもの、生存に必要ない。命令するまでもないことだ」

「そう。……あの子は、笑っていたのでしょう? あなたが大切にしていた、水になったあの子は」

レンの胸の奥で、鋭い痛みが走った。怪我の痛みよりもずっと深く、えぐるような痛み。

いつからかソラは、あの子の記憶をレンから引き出し、それを「知識」として蓄積している。だが、彼女にはその感情が伴わない。

「お前は……あいつじゃない。俺を生かすための、ただの装置だ。余計なことを考えるな。……俺の足を揉め。血が止まらないように、ゆっくり、力を込めろ」

「ええ、レン。私はあなたの装置。あなたの命を、一番長く引き伸ばすための形」

ソラは再びレンの足元に座り込み、冷たい、しかし力強い手で、彼の萎えかけた足を揉み始めた。

雨音は絶え間なく続く。

レンは、自分を維持するために、少女の形をした「虚無」にすべてを預けていた。

彼女の手が動くたびに、レンは自分が「人間」から「生かされているだけの肉塊」へと作り替えられていくような、薄暗い感覚に沈んでいった。

ソラが罠の確認に出かけてから、一時間が過ぎようとしていた。

彼女がいなくなると、洞窟の中は静寂という名の重圧に包まれる。聞こえるのは岩肌を伝う水の音と、自分の浅い呼吸音だけだ。

レンは毛皮の上で、動かなくなった右手をじっと見つめていた。

包帯代わりの皮の下で、肉は硬く、冷たくなっている。もはや自分の体の一部というよりは、別の何かがこびりついているような感覚だった。

「……あいつは、何なんだ」

何度繰り返したか分からない問いが、また口をついて出た。

ソラ。雨に溶けず、傷つかず、疲れも空腹も知らない存在。

彼女は、かつてレンが守れなかった少女の顔をしている。声も、背格好も、驚くほど似ている。

偶然にしては出来すぎている。まるでこの世界が、レンの記憶の底から一番痛む部分を掬い上げ、それを「器」にして送り込んできたかのようだ。

だが、中身は別物だ。

あの子は、よく笑い、よく泣き、熱い体温を持っていた。

ソラは、命令されなければ何もせず、喜びも悲しみも反射的な知識としてしか出力しない。

自分にとって、ソラは何なのか。

道具か。手足か。それとも、罪悪感をなだめるための動く彫像か。

(……いや、考えるのはよそう)

レンは思考を遮断するように目を閉じた。

この世界で深追いする思考は、往々にして絶望へと繋がる。彼女が何者であれ、今彼女がいなければ自分は死ぬ。それがすべてだ。彼女の正体を知ったところで、この足が治るわけでも、雨が止むわけでもない。

ただ、一つだけ、どうしても喉の奥に引っかかっている記憶があった。

あの日、料理に失敗し、惨めに肉を灰にまみれさせた自分に、彼女は言ったのだ。

『命令をちょうだい』と。

それ以来、彼女が自らそんなことを口にしたことは一度もない。

今の彼女は、レンが「肉を焼け」「足を揉め」「水を汲め」と命じれば、ただ淡々と、精巧な機械のようにそれをこなすだけだ。

なぜ、あの時だけ、彼女は自分から「命令」を求めたのか。

まるで、レンが「人間としての誇り」を捨て、彼女という「道具」に魂を売り渡す瞬間を、手招きして待っていたかのように。

あの一言が、レンの堰を壊した。

あの一言があったから、レンは彼女を便利に使い潰すことに躊躇しなくなったのだ。

彼女がレンをそう仕向けたのか。それとも、絶望していたレンが、彼女にそう言わせたという幻想を見たのか。

「……考えても、いいことはない」

レンは自分に言い聞かせ、重い瞼を開けた。

ああ、そうだ。そうじゃない。彼女が命令を初めて求めたのは。あれはそうだ、自分を助けるために……

雨を弾き、銀色の光を纏ったようなシルエットが、音もなく入ってくる。

ソラだった。

その腕には、仕留めたばかりの獲物が抱えられ、彼女の真っ白な肌には泥一つついていない。

「レン、ただいま。罠に、新しい命がかかっていたわ」

彼女はレンのそばに歩み寄り、当然のようにその隣に腰を下ろした。

その瞳に宿る澄んだ青色は、さっきまでレンが抱いていたドロドロとした思考を、あざ笑うかのように清らかだった。

「……そうか。解体しろ。すぐだ」

「はい、レン。あなたの命令どおりに」

思考はそこで強制的に区切られた。

レンは再び、彼女という「手足」を使って生きる、安楽で醜悪な日常へと戻っていく。

ソラが時折見せる、あの得体の知れない「意志」のようなものが、二度と現れないことを願いながら。

雨は、もはや「降る」というより、空そのものが崩落してくるような暴力的な質量を持っていた。

かつて見せたあの残酷なまでの青空は、とうの昔に分厚い灰色の雲に飲み込まれ、世界は再び永遠の黄昏へと引き戻されていた。ノアの方舟でもなければ、この「人間だけを拒絶する氾濫」の中で、レンのような不純物は溺れ、溶け、消え去るしかない。

レンは洞窟の奥、冷たい岩肌に体を預けながら、絶え間なく続く重低音を聞いていた。

シュアアア、という雨音に混じって、地鳴りのような「ゴゴゴ……」という低い響きが、地面から伝わってくる。

最初は気のせいだと思いたかった。だが、その音は刻一刻と、確実に大きくなっている。

(……まずいな)

レンの顔から血の気が引いた。

この洞窟の近傍には、かつて「清流」と呼ばれた川が流れている。今は人間が作った堤防も、護岸工事のコンクリートもすべて雨に溶かされ、ただの荒れ狂う水の道と化しているはずだ。

これだけの豪雨が続けば、川が氾濫するのは時間の問題だ。

そして、この世界の氾濫は、ただの「水害」ではない。

溢れ出すのは、人間を溶かす猛毒の奔流だ。一度この洞窟に水が流れ込めば、逃げ場の失われたこの空間は、レンにとっての「巨大な攪拌機ミキサー」へと変わる。

「ソラ! 外の様子を見てこい!」

レンの声が、雨音に掻き消されそうになる。

入り口付近に立っていたソラが、静かに振り返った。彼女は雨の飛沫を浴びながらも、まるで陽だまりの中にいるかのように穏やかだった。

「レン、川が大きくなっているわ。地面が、水で見えなくなってきているの」

「……どこまで来ている?」

「すぐそこよ。あと少しで、この入り口の段差を越えてくるわ。……とても綺麗な茶色い水ね」

ソラの言葉に、レンは全身の毛穴が逆立つような恐怖を感じた。

足は動かない。手も、半分は死んでいる。

自分の力では、この洞窟から数メートル這い出すことさえできない。

水が来れば、終わりだ。

水位が床を舐めるように上がってきた瞬間、レンの肉体は足元からドロドロと崩れ始め、自分の排泄物や泥と一緒に川へと流れ出すだろう。

「ソラ……っ、俺を、俺をここから出せ! もっと高いところへ……山の上だ! 木の上でもいい、とにかく水が来ない場所へ運べ!」

レンは必死に叫んだ。剥き出しの生存本能が、彼を「道具」への依存へと駆り立てる。

「命令ね、レン」

ソラは、ゆっくりと歩み寄ってきた。

彼女の足元、洞窟の入り口から、ついに濁った水が「指先」のように侵入してきた。それはレンの寝床へと、音もなく這い寄ってくる。

「そうだ、命令だ! 早くしろ、死にたくない……っ、溶けたくないんだ!」

レンはソラの細い腕を、唯一動く左手で掴んだ。

彼女の肌は、外の雨を含んで驚くほど冷たかった。だがその腕は、絶望に震えるレンをひょいと、羽毛のように軽く抱え上げた。

「わかったわ。高いところへ。……雨があなたを、見つけられない場所へ」

ソラはレンを背負うのではなく、赤ん坊を抱くように胸に抱いた。

その瞬間、洞窟の中にドォ……と、濁流が流れ込んできた。レンがさっきまでいた寝床は、一瞬にして茶褐色の泥水に飲み込まれた。

「ひ……っ!」

レンはソラの首に必死にしがみついた。

ソラは、膝まで水に浸かりながら、濁流に逆らって洞窟の外へと踏み出した。

彼女の足は、荒れ狂う水の流れに煽られても、まるで岩に根を張っているかのように微動だにしない。

外は、地獄だった。

かつての森は、巨大な泥の海へと沈みつつあった。溶けたアスファルトやプラスチックの残骸が、黒い油のような膜となって水面に浮かんでいる。

ソラは、濁流の中を迷うことなく進んでいく。

彼女にとっては、この世界の崩壊さえも、散歩道の景色の一つでしかないようだった。

「……ソラ、どこへ行く」

レンは彼女の胸の中で、震える声で尋ねた。

視界の限り、安全な場所などどこにも見えなかった。世界は今、人間という「汚れ」を完全に洗い流そうとしている。

「あそこなら、届かないわ」

ソラが指差したのは、かつて「鉄塔」があった場所だった。

鉄骨は溶けて失われたが、その土台となっていた巨大な自然の岩山だけが、牙のように空を突いて残っていた。

ソラは、その垂直に近い岩肌に、素手で指を突き立てて登り始めた。

レンという重荷を抱えたまま、重力を無視するかのような足取りで。

雨音はますます激しくなり、レンの意識は恐怖と寒さで遠のいていく。

自分を抱きかかえるこの少女が、自分を救っているのか、それとも最後の一片まで世界に捧げようとしているのか。

レンにはもう、判断がつかなかった。

ただ、彼女の腕の中で、死の間際の「方舟」に揺られるように、激しい雨に打たれ続けていた。

ソラが最後の一歩を踏み出し、平坦な岩の頂に降り立った瞬間。

それまでレンの鼓膜を狂わせるほど叩いていた「シュアアア」という轟音が、嘘のように消えた。

「……え?」

レンは、ソラの胸に押しつけていた顔をゆっくりと上げた。

視界を遮っていた水飛沫がない。肌を刺すような熱い痛みも、絶え間なく体温を奪っていく冷たさもない。

そこは、直径数メートルほどの、剥き出しの岩の天辺だった。

見上げれば、依然として空は重苦しい灰色の雲に覆われている。しかし、そこからは一滴の雨も降ってこなかった。まるで目に見えない巨大な傘が、この場所だけを世界から切り取って守っているかのようだった。

「なんでだ……」

不意に溢れたその言葉が、レンの心情のすべてだった。

彼はソラの腕から降ろされ、乾いた岩の上に横たわった。

久しぶりに触れる「乾いた地面」の感触に、レンは眩暈を覚えた。

恐る恐る、岩の端へと這いずり、下を見下ろす。

そこには、絶望的な光景が広がっていた。

わずか数メートル下では、今も猛烈な雨が降り続いている。

雨は透明な壁のように、この岩山の周囲をぐるりと囲んでいた。下界では濁流が荒れ狂い、木々をなぎ倒し、かつて人間がいた痕跡をすべて泥の中へと引きずり込んでいる。

そこは死と再生が入り混じる地獄だ。だが、自分たちがいるこの場所だけは、時が止まったように静寂に包まれている。

「なんで……ここだけ降ってないんだ。ソラ、お前、これを知ってたのか?」

レンは震える声で尋ねた。

ソラは答えず、ただ静かに岩の縁に立ち、雨の降る下界を見つめていた。

彼女の白い肌は、雨に濡れることをやめた途端、真珠のような静かな輝きを取り戻している。

「ここは、空が息を止めている場所」

ソラが、独り言のように呟いた。

「雨は、すべてを消したいわけじゃないの。……ただ、新しくなりたいだけ」

「新しく……? 俺たち人間を溶かして消すことが、新しいっていうのか」

レンは、自分の溶けかかった右手を突き出した。醜く変形し、機能を失った肉。

「あの子も、街も、俺の仲間もみんな消えた! なのに、どうして俺だけが、こんなところで生かされているんだ! どうしてだ!どうしてこんな、こんな……」

叫びは、雨音に吸い込まれることもなく、静かな山頂に虚しく響いた。

あの日、あの青空の下で溶けていったあの子。

彼女が死に、自分が生き残った理由。

ソラという異形に出会い、道具のように使い、尊厳を捨ててまでしがみついている命。

そのすべての「理由」が欲しかった。

だが、世界は何も答えない。ただ、この場所だけを「聖域」として残し、もうしばし、レンに生きろと強いている。

「ねえ、レン」

ソラが振り返った。

その表情には、初めて見るような、深い慈しみのようなものが浮かんでいた。

「あなたは、まだ『人間』のままでいたい?」

その問いに、レンは息を呑んだ。

下界の雨は、不純物を溶かし、世界を一つの純粋な流れへと還元しようとしている。

この岩山を下りれば、レンもまた、その流れの一部になれるだろう。苦痛も、後悔も、孤独もない、水の記憶へと。

レンは自分の傷ついた体を見つめ、それから、自分をここまで運んできた「溶けない少女」を見上げた。

「……分からない。だが、俺はまだ、お前に命令を下さなきゃならないんだ」

レンは絞り出すように言った。

「飯を持ってこい、火を熾せ、俺を守れ……。そう言わなきゃ、俺は死ぬ。……それがどれほど醜くても、俺はまだ、答えが出るまで消えたくないんだ」

ソラは、レンの言葉を咀嚼するように少しだけ目を伏せ、それから小さく頷いた。

「わかったわ、レン。……あなたの命が、この雨より長く続くように」

雨の檻に閉じ込められた、乾燥した孤島。

レンは、雨の降らない不思議な空の下で、乾いた岩を枕に横たわった。

下界からは、依然として世界が作り変えられていく轟音が響いてくる。

なぜ自分なのか。なぜここなのか。

問いは消えない。

しかし、レンはソラの冷たい指が自分の髪に触れるのを感じながら、皮肉にもこの地獄のような世界で、かつてないほどの深い眠りに落ちていった。

岩山の頂上は、あまりにも静かだった。

下界を叩きつける雨の轟音は、ここではまるで遠い海の鳴動のようにしか聞こえない。

ソラは、膝を抱えて座るレンの横顔を、瞬きもせずに見つめていた。その瞳には、雨に打たれることも、風に乱れることもない、完成された静謐さが宿っている。

「ねえ、レン」

彼女の声は、湿り気を帯びた空気の中を滑るように届いた。

「どうして雨が降り始めたのか、あなたは知りたい?」

レンの心臓が、跳ねるように脈打った。

その問いは、彼がこの数年、あるいはこの二ヶ月間、意識の奥底に封印し続けてきた「禁忌」だった。なぜ世界は壊れたのか。なぜ人間だけが否定されたのか。なぜ、あの子は消えなければならなかったのか。

その理由を知れば、この絶望に意味が生まれるのかもしれない。あるいは、救いがあるのかもしれない。

レンの唇が、わずかに震えた。

知りたい。本当は、狂おしいほどに。

もしこれが神の気まぐれだというなら呪ってやりたいし、何かの事故だというなら報いを受けさせたい。理由さえ分かれば、自分のこの無様な生き恥にも、何らかの決着がつくような気がした。

だが――。

(……知って、どうなる)

もし、その理由が「人間がただ不要になったから」という無慈悲な事実だったら?

もし、あの子の死が何の意味もない、ただの清掃作業の一環だったとしたら?

レンは、真実を知ることの恐怖に耐えられなかった。

理由を知ってしまえば、今自分が必死にしがみついている「生」の重みが、さらに空虚なものになってしまう。

「……興味ないな」

レンは視線を逸らし、わざと吐き捨てるように言った。

心臓の鼓動は激しいままなのに、声だけは冷たく、平坦を装う。

「そんな昔のことを知ったところで、俺の足が治るわけでもない。……そんな暇があるなら、次のことを考えろ」

「本当に? あなたの瞳は、とても寂しそうに揺れているけれど」

「うるさい。……命令だ、ソラ」

レンは、無理やり言葉を遮った。

本心を隠すための、最も手軽で、最も卑怯な手段。

彼女を「道具」として扱うことで、対等な対話を拒絶する。

「腹が減った。飯の支度をしろ。……さっき捕まえた獲物を捌いて、焼くんだ。ここなら雨に邪魔されずに火を熾せるだろう」

ソラはしばらくの間、レンの横顔を見つめ続けていた。

彼女が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、レンには永遠に分からない。

「……ええ、わかったわ、レン。あなたの命令どおりに」

ソラは静かに立ち上がった。

彼女はそれ以上、雨の理由を語ろうとはしなかった。

レンが求めたのは、世界の真理ではなく、今日を生き延びるための糧だった。彼女は忠実な道具として、レンの脆い尊厳を守るために、再び「無垢な人形」へと戻る。

ソラが背を向けて作業を始めるのを見ながら、レンは人知れず深く、重い息を吐き出した。

乾いた岩の上で、パチパチと小さな火が爆ぜる音が聞こえ始める。

雨の降らない、この奇妙な隔離された空間で。

レンは、真実から逃げ出した自分の臆病さを、焼ける肉の匂いの中に紛れ込ませた。

世界がなぜ終わったのか。

それを知るよりも先に、彼はソラが差し出す、血の通わない手から与えられる食事を待っていた。

ソラはそれ以上、何も言わなかった。

世界がなぜ終わったのか、という大仰な真実も。それを知りたいのかという問いかけも。霧が晴れるように、彼女の唇から言葉は消えた。

彼女はただ、いつものようにレンの命令を、静かに、そして深く聞き入れているだけだった。

パチパチ、と乾いた音が岩山に響く。

ソラはレンが指示した通り、手際よく焚き火を熾していた。火を熾すという行為は、人間が文明を築くための第一歩であり、この世界では最も「不純」な行為の一つだ。だが、雨の降らないこの聖域では、炎は禁忌を犯すことなく、ただ純粋な熱として暗闇を照らしている。

ソラの指先が、獲物の肉を火に翳す。

彼女の横顔は、炎の光を反射して琥珀色に輝いていたが、その表情には一片の陰りも、あるいは慈悲もなかった。

(……これで、いいんだ)

レンは毛皮に身を包み、その様子をじっと見つめていた。

彼女が何も言わなくなったことに、レンは安堵し、同時に形容しがたい空虚さを感じていた。

もし、彼女が無理にでも真実を語り始めていたら、レンは彼女を拒絶しきれなかったかもしれない。だが、彼女はレンの「拒絶」という命令さえも、完璧に受け入れたのだ。

「レン、焼けたわ」

ソラが静かに、肉を差し出す。

完璧な焼き加減。レンの喉が鳴る。

「……ああ。そこに置け」

「はい、レン」

彼女は言われた通り、レンの手が届く岩の上に肉を置き、そのまま一歩下がった。

彼女は自分からは食べない。自分からは座らない。自分からは、レンに触れようともしない。

かつてあった「聞きたいか」という問いかけすら、今はもう彼女の中には存在しないかのようだった。

雨音は、眼下で絶え間なく続いている。

透明な壁の向こう側では、世界が激しく、残酷に流動している。

しかし、この岩山の頂上だけは、まるで時間の澱のように、停滞した平穏が支配していた。

レンは肉を口に運び、無言で咀嚼した。

彼女の沈黙は、心地よくもあり、恐ろしくもあった。

彼女が自分から何かを言うことをやめた今、レンはこの世界で本当に一人きりになったのだと、改めて突きつけられた気がした。

ソラは、レンが食事を終えるのをじっと待っている。

次の「命令」を待つだけの、美しく、冷たい器。

「……ソラ」

「なあに、レン」

「……いや、なんでもない」

レンは言いかけて、言葉を飲み込んだ。

何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。礼を言いたかったのか、それとも、もう一度あの問いを口にしてほしいと願ったのか。

だが、一度拒絶した真実を、今さら拾い上げる勇気はレンにはない。

「そう。……次の命令を、待っているわ」

ソラは静かに微笑んだ。

その笑顔は、かつてレンが愛したあの子に似ていたが、今はもう、ただの記号にしか見えなかった。

雨の降らない、死んだように静かな山頂。

レンは、彼女の沈黙という深い淵に身を任せ、ただ生き延びるためだけの時間を、一分、一秒と刻み続けていた。

食事が終わり、空になった木の器をソラが片付けるのを見届けると、レンは重い沈黙を破るように声を絞り出した。

「……ソラ。俺を抱えろ。あの雨の境界まで、連れて行け」

それは、生き延びるために必要な「命令」ではなかった。ただの、どうしようもない好奇心と、この静寂への耐えがたい焦燥感が生んだ我儘だった。

「わかったわ、レン」

ソラは流れるような動きでレンを横抱きにした。彼女の細い腕は、レンの衰弱した体を支えるのに何の苦労も感じさせない。

彼女は岩山の縁、雨が降る場所と降らない場所の境界線へと歩を進めた。

そこには、目に見えない透明な壁があるかのようだった。

一歩先では、大気を真っ白に染めるほどの豪雨が、叩きつけるような音を立てて落下している。しかし、ソラの足元からわずか数センチ手前では、地面は乾き、埃さえ舞っている。

「ここで止まれ」

レンの命に従い、ソラは立ち止まった。

目の前には、激しい雨のカーテン。その向こう側には、かつて人間が支配していたはずの地上の成れの果てが、深い霧と濁流の中に沈んでいる。

レンは、動かない右手をゆっくりと伸ばした。

包帯代わりの皮から、溶けかかった指先が覗く。

「……ねえ、レン。触れるの?」

ソラが静かに尋ねた。

「……いや。俺はまだ、消えたくない」

レンは、境界線のわずか手前で手を止めた。

指先のすぐ先で、一滴の大きな雨粒が虚空を切り裂き、猛烈な速さで落下していく。その一滴に触れれば、自分の指はたちまち形を失い、この岩山を濡らす水となるだろう。

境界の向こう側は、圧倒的な「生命」に満ちていた。

雨に溶けない植物たちは、この豪雨を狂喜乱舞するように受け入れ、猛烈な勢いで枝葉を伸ばしている。見たこともない巨大なシダや、極彩色の花々が、濁流の中でも力強く根を張り、世界を「緑」で塗り替えていく。

そこには、人間を必要としない、残酷なまでに美しい完成された世界があった。

「……あそこには、俺たちの居場所はないんだな」

レンは自嘲気味に呟いた。

この岩山の頂上だけが、古い世界の「遺物」であるレンを、隔離された標本のように保存している。ここは生き延びるための場所ではなく、単に「死ねない」だけの檻なのだ。

ふと、レンは自分を抱きかかえるソラの顔を見上げた。

彼女は、雨の向こう側の世界を見つめていた。その瞳は、降りしきる雨の激しさに呼応するように、微かに、だが確かに輝いていた。

彼女は、こちらの住人ではない。

あちら側の、新しく生まれ変わろうとしている世界の住人なのだ。

「ソラ。お前は……あっちに行きたいか?」

その問いは、命令ではなかった。

ソラは視線を雨から外し、レンの顔をじっと見つめ返した。

「行きたい、という気持ちが、私にはまだわからないわ。……でも、レン。あなたが命じるなら、私はあなたを抱いたまま、あの雨の中をどこまでも歩いていくわよ」

彼女の言葉に、レンは背筋が凍るような戦慄を覚えた。

彼女は、レンが望めば、彼を道連れにして心中することさえ、何の躊躇もなく「命令」として遂行するだろう。

「……いや。戻れ。岩の奥へ」

レンは逃げるように視線を逸らした。

ソラは「はい、レン」と短く答え、境界線に背を向けて、再び中央の焚き火の跡へと戻り始めた。

乾いた岩の上。雨の届かない聖域。

レンはソラの腕の中で、自分がいかに滑稽な存在かを痛感していた。

雨に溶けることを恐れ、石のように固まった過去にすがりつき、新世界の住人にその命を預けている。

彼は、自分がいつか自らの意志で、あの雨の壁を越える日が来るのだろうかと考えた。

あるいは、この乾いた岩の上で、完全にミイラのように枯れ果てるまで、彼女に命令を下し続けるのか。

「ソラ。……今夜は、俺が眠るまでそばにいろ。どこにも行くな」

「ええ。ずっとここにいるわ、レン」

彼女の冷たい手が、レンの泥にまみれた髪を優しく撫でた。

外では依然として、雨が世界を壊し、創り続けている。

レンはその音を子守唄代わりに、彼女という唯一の繋がりにしがみつき、再び目を閉じた。

翌朝、まぶたを刺すような光に、レンは目を覚ました。

「……っ」

反射的に身を硬くし、溶けかかった右手で顔を覆う。

視界に飛び込んできたのは、憎らしいほどの晴天だった。

雲一つない、透き通った、吸い込まれるような青。二ヶ月前、世界中の人間を外へ誘い出し、その命を滴で刈り取ったあの「残酷な青色」が、頭上にどこまでも広がっていた。

レンは喉の奥で、ひりつくような恐怖を感じた。

(……罠だ)

必死に自分に言い聞かせる。あんなものはただの欺瞞だ。空が美しく笑っているのは、獲物が油断して隠れ家から這い出してくるのを待っているからだ。次に降る雨は、今度こそ自分を最後の一滴まで泥に変えるだろう。

震える体で岩の影に身を潜めようとした、その時だった。

「綺麗ね、レン」

隣に立つソラが、空を見上げたまま、感嘆の吐息を漏らした。

彼女の白い肌に、遮るもののない陽光が降り注いでいる。彼女の瞳は空の青を反射し、まるで彼女自身がその青色の一部であるかのように輝いていた。

「……綺麗だと?」

レンの声は掠れていた。

「笑わせるな。あれのせいで、あいつは……俺の仲間たちはみんな死んだんだぞ。あれは死の予兆だ。地獄への招待状なんだ」

レンは彼女を睨みつけた。だが、ソラは真っ直ぐに空を見つめたまま、静かに首を振った。

「そうかもしれないわ。でも、今、太陽がこんなに温かくて、空がこんなに高いのは本当のことよ。……見て、レン。あんなに遠くまで世界が見えるわ」

彼女は、何のてらいもなく、純粋な好奇心だけでその景色を肯定していた。

恐怖に震え、影の中にうずくまって、いつ降るかもわからない雨に怯えている自分。

それに対して、世界が滅びようとしていようと、目の前の「美しさ」をそのまま受け入れている、人間ではない少女。

その対比が、あまりにも滑稽だった。

「……はは」

レンの口から、乾いた笑いが漏れた。

最初は小さく、やがて腹の底から突き上げてくるような、自嘲的な笑いへと変わった。

「はははは! ……くそっ、馬鹿馬鹿しい」

何を必死になっていたんだろう。

雨が降れば溶ける。晴れれば怯える。

そんな風にして、自分はいつまで「生きている」と言い張るつもりだったのか。

世界はもう、自分の都合など一ミリも考えてはいないというのに。

ひとしきり笑い、レンは荒い息を吐きながら、ようやく影の中から這い出した。

そして、ソラと同じように、眩いばかりの青空を仰ぎ見た。

視界が白く飛ぶほどの光。確かに、それは認めたくないほどに美しかった。

「……そうだな。……綺麗だ」

短く、それだけを答えた。

罠でもいい。この後に絶望が降ってきても構わない。

今、この瞬間だけは、彼女の言う「綺麗」を信じてみてもいいような気がした。

二人は並んで、雨の止んだ岩山の頂上で、いつ終わるとも知れない束の間の晴天を静かに見つめ続けていた。

溶けるかもしれない男と、決して溶けない少女。

二人の間に流れる時間は、その時だけ、世界が壊れる前のような穏やかさに満ちていた。

その青空は、残酷なほどに揺るぎなかった。

一日、二日……そして一週間。かつて人々を恐怖させた「呼吸」のような晴天は、今や一つの静止した季節のように世界に居座っていた。

しかし、レンには分かっていた。

これは恩赦ではない。ましてや神の許しでもない。

これは、最後の「準備期間」だ。

世界がその肺いっぱいに空気を吸い込み、残った「不純物」である人間を、一滴残らず、根こそぎ洗い流すための、最後にして最大の猶予。

「ソラ、俺を運べ」

レンは、乾ききった岩山の上で静かに命じた。

もはや食料の備蓄を気にする必要も、傷を癒やす必要もなかった。逃れられない終焉が来るのなら、この乾いた檻の中でミイラになるのを待つより、すべきことがあった。

「どこへ行くの、レン」

「あの日、あの子が溶けていなくなった場所だ。……お前が俺を見つけた、あの白い花が咲いていた草原へ」

ソラは何も言わず、レンをその腕に抱き上げた。

岩山を下りる道中、レンは変わり果てた世界の姿を、その目に焼き付けた。

人間が消えた街は、もはやアスファルトの破片一つ見当たらないほどに深い緑に呑み込まれていた。巨大な木々が天を突き、かつての文明を糧にして、瑞々しい酸素を吐き出している。人間を拒絶した世界は、皮肉なほどに美しく完成されつつあった。

やがて、二人はあの場所に辿り着いた。

白い花が咲き乱れる草原。一ヶ月前、レンの隣で少女が水になり、大地へと吸い込まれていった場所。

「……ここだ。ここで降ろせ」

ソラはレンを、柔らかい草の上にそっと横たえた。

レンは動かない右手を引きずりながら、かつて彼女が立っていたあたりの土に触れた。そこにはもう、彼女を証明するものは何もない。ただ、他の場所よりも少しだけ、花の色が濃いような気がした。

「……ここで、待つ」

レンは空を仰いだ。

「レン。雨が、くるわ」

ソラの声に、もはや問いかけはない。ただの事実としての報告だ。

どす黒い雲が、天の端から世界を塗りつぶしていく。

草原の白い花々は、これから訪れる破壊を予感しているのか、風に震えながらいっそう白く輝いて見えた。

レンは、土の匂いを深く吸い込んだ。

かつてあの子が溶けて消えた、この場所の匂いだ。

「ソラ」

レンは、隣に座る少女を、濁った、しかし穏やかな瞳で見つめた。

「……教えてくれ。どうして雨は降り始めたんだ?」

ソラは、少しだけ驚いたように目を見開いた。これまでの彼女なら、即座に「命令ね」と返しただろう。だが、レンは首を横に振り、震える左手を彼女の冷たい手の上に、そっと重ねた。

「これは命令じゃない。俺の、最期のお願いだ。……俺が俺として消える前に、お前の言葉で聞かせてほしい」

ソラは、レンの溶けかかった手を見つめ、それから彼の手を握り返した。彼女の手は相変わらず体温を持たなかったが、その力強さは、どこか慈しみに満ちていた。

「……世界が、重くなりすぎてしまったからよ」

ソラは、歌うような静かな声で語り始めた。

「人間は、たくさんのものを作ったわ。腐らないプラスチック、崩れないコンクリート、消えない欲望、そして……忘れられない記憶。世界はそれを受け止めきれなくなって、呼吸ができなくなってしまったの」

レンは、空を見上げた。雲の隙間から、最初の雫が落ちてくるのが見えた。

「だから、雨が降ったの。固まってしまったものを、もう一度『流れ』に戻すために。形を持つことをやめて、水になって、土に還って、また新しい何かになるために。雨はね、レン。あなたたちを嫌っているんじゃないの。ただ、あなたたちを、自由にしてあげたかっただけ」

「……自由にか」

レンは自嘲気味に笑った。

あの子が溶けたのも、自分がここで朽ち果てようとしているのも、世界にとってはただの「循環」の一環に過ぎない。人間が必死に守り、積み上げてきた文明や自尊心は、世界にとっては呼吸を妨げる「重荷」だったのだ。

「そうか。……なら、もういい」

シュアアア、という、死の調べが頭上から降り注ぐ。

最初の一滴がレンの額を打ち、そこから熱い液体となって彼を崩し始めた。

「痛くない?」

ソラが覗き込んでくる。その瞳には、かつてなかった「憂い」のような色が宿っていた。

「ああ……不思議と、もう怖くない」

レンの視界が、白く濁っていく。

足も、腕も、自分を自分たらしめていた輪郭が、雨に誘われるように大地へと溶け出していく。

「ソラ。……お前が、あの子に似ていたのは……俺がそう望んだからか?」

溶けゆく意識の中で、レンは最後の問いを投げた。

ソラは、溶けて水になりつつあるレンの頬を、両手でそっと包み込んだ。

「私は、この世界に残された『誰かの想い』を集めて形になったの。あなたが彼女を愛していたから、私はこの姿を選んだのよ。……最後くらい、独りじゃないと思えるように」

「……そうか。……ありがとう」

レンの体は、音もなく崩れ去った。

彼はもはや、形を持たない「水」となった。

彼が溶けた水は、土の奥深くへと染み込んでいく。そこには一ヶ月前、同じように水となった少女の成分が、確かに息づいていた。

二つの「水」は、長い沈黙を経て、ようやく地中で一つに混ざり合った。

あの子の隣で、レンはついに永遠の静寂を手に入れた。

雨は激しさを増し、世界を白く、美しく、無に染め上げていく。

ポツンと草原に残されたソラは、もう誰もいない場所を見つめ、静かに立ち上がった。

彼女の体は雨に溶けることはない。

彼女は、新しく生まれ変わる世界を見届けるための、ただ一人の語り部として、激しい雨のカーテンの中へと、音もなく消えていった。

あとに残されたのは、ただ真っ白に咲き誇る花々と、すべてを洗い流す、優しい世界の涙だけだった。


激しい雨が、世界を真っ白に塗りつぶしていた。

最後の一人だったレンが溶け、その雫が大地へと吸い込まれていった場所で、ソラは立ち尽くしていた。彼女の肌を叩く雨音は、もう彼女に届けるべき「指示」を持たなかった。

(私は、何だったのかしら)

ソラは、自分の白い掌を見つめた。

傷つかず、汚れず、決して損なわれない。この新しい世界のことわりそのものとして作られた器。彼女は、地球という巨大な意志が、古い時代の「名残」を見送るために用意した、ただ一段の階段に過ぎなかった。

雨は、すべてを「流れ」に戻していく。

人間が作り、溜め込み、執着したすべての重すぎる質量を、軽やかな水へと解き放つ。

ソラは、レンが最期に触れていた土に、そっと指を触れた。

そこにはもう、彼の熱はない。だが、彼がこの二ヶ月間、否、産まれてから死ぬまでの長くも短い時間。必死に、醜く、そして美しく生きた記憶が、微かな振動となって伝わってくるようだった。

(レン。あなたは私のことを、ただの道具だと言ったわね)

ソラは、自分の胸の奥に灯った小さな「重み」を自覚した。

彼女には心臓はなかったが、レンに命じられ、彼を抱き、彼のために火を熾していた時間に、確かに何かがその空白を埋めていた。

彼はソラに多くのことを命じた。

『俺を運べ』

『肉を焼け』

『俺を、一滴も濡らすな』

それらの命令は、彼が「人間」であることを繋ぎ止めるための、精一杯の叫びだった。

ソラは、彼が自分を道具として扱うたびに、そこに宿る深い孤独と、生への執着を感じていた。彼はソラを通して、失った過去を、あの子を、そして自分自身を愛そうとしていたのだ。

(あなたは言わなかったけれど……。私は知っていたわ)

レンが時折、ソラの寝顔(を模した静止)を盗み見ては、あの子の名を呟いていたこと。

彼の「命令」が、時として震えていたこと。

そして、彼が最期に「教えてくれ」と頼んだとき、それが「支配」ではなく、一人の人間としての「対話」であったこと。

「……私も、少しだけ寂しいのかもしれないわね」

ソラは、雨音に混じって呟いた。

彼女という存在に「感情」が備わっているのだとしたら、それはレンが彼女に注ぎ込んだ「命令」という名の、あまりにも不器用な愛の形だった。

世界はもう、人間を必要としていない。

これからは、雨が育てた巨大な緑と、清らかな水と、名もない生命たちが、この星を謳歌するだろう。その中で、ソラは唯一、かつて「人間」という不器用な生き物がいたことを記憶し続ける存在となった。

(あの子と、レン。二人の雫は、もう混ざり合えたかしら)

ソラは、境界線の外にある、あの岩山の頂上を見上げた。

雨の降らない、死んだ過去が置かれていた場所。

これからは、あそこにも雨が降るだろう。あそこもまた、新しく作り替えられる。

ソラは、レンが溶けた土の上に、一輪の白い花を置いた。

それは彼女自身の手で作られたものではなく、ただ、雨が育んだこの世界の恵みだった。

「さようなら、レン。……あなたの命令は、もう全部果たしたわ」

ソラは、独りきりの世界へと歩き出した。

足取りは軽く、雨は彼女の髪を優しく撫でる。

彼女の心の中に残った、たった一人の人間の「心拍」の記憶を抱きしめて。

世界を洗い流す雨は、やがて止むだろう。

そして、その後に広がる青空を「綺麗だ」と言う者は、もうソラしかいなかったとしても。

彼女は、レンが教えてくれたことを一生忘れない。

雨は降り続く。

新しく、透明な世界の夜明けを告げるように。

ソラの頬を伝う一筋の雫は、雨なのか、それとも彼女がレンから受け取った「人間」の欠片なのか、誰にも分からなかった。

雨は降り続いていた。けれど、その響きはもう、何かを拒絶するような鋭さを持ってはいなかった。

世界は、人間を完全に消し去ろうとしたわけではなかったのだ。

あまりに肥大し、大地を傷つけ、自らをも縛り上げた「人間」という種を、一度すべて水へと還し、その純粋な本質だけを、たった一つの器に託した。

それこそが、ソラだった。

彼女は、滅びゆく旧世界から新世界へと「人間」を運ぶ、たった一艘の『ノアの方舟』。

人間を溶かす雨の中で、彼女だけが人の姿を保ち、人の言葉を話し、人の温もりを求めるように作られた。

ソラは、自分の胸に手を当てた。

そこには鼓動はない。けれど、レンが最期まで叫び続けた「生きたい」という願いが、彼が下し続けた無数の「命令」という形で、彼女の回路の隅々にまで刻まれている。

(レン、あなたは私に、たくさんのことを教えてくれたわ)

「食べる」という行為の虚しさと切実さ。

「眠る」という無防備な時間の尊さ。

「名前」を持つことの誇らしさと、それを呼ばれることの喜び。

そして、自分より先に消えていくものを見送るという、耐えがたいほどの「痛み」。

レンが彼女を道具として使い、彼女に依存し、彼女に最期の真実を求めた一ヶ月。その時間は、ソラという無垢な器に「人間」という魂を注ぎ込むための、神聖な儀式だったのだ。

最後の人間を看取ったことで、ソラは完成した。

彼女は今、この地上で唯一、人間の美しさと醜さを知る者となった。

人間がかつてここにいたこと。彼らが空を仰ぎ、雨を畏れ、それでもなお愛し合おうとしたこと。そのすべてを保存した「種」として。

雨あがりの世界が、静かに始まろうとしていた。

雲の切れ間から、柔らかな光が差し込む。

そこにはもう、人間を溶かす毒はない。雨は役割を終え、ただの恵みの水へと戻っていた。

レンが溶けた土からは、すでに新しい芽が吹き出している。

ソラは、一歩を踏み出した。

彼女の足取りは、かつてのレンのように重くはない。けれど、彼女が歩くたび、その内側で「人間」という種の記憶が、誇らしげに脈打っていた。

彼女がこれから出会うであろう、新世界の生命たち。

芽吹き、走り、囀り、やがて知性を持つかもしれない新しい住人たちに、彼女は語り継ぐだろう。

かつて、雨の降りしきる世界で、最期まで抗い、最期まで美しくあろうとした「人間」という名の生き物がいたことを。

ソラは、もう一度だけ空を見上げた。

そこには、レンと笑い合ったあの日のような、どこまでも高い青空が広がっていた。

「……行きましょう、レン」

彼女の声は、風に乗って世界中に響き渡った。

人間という種を宿した、たった一艘の方舟。

ソラは、光り輝く緑の海へと、静かに、そして確かな足取りで漕ぎ出していった。


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