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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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エイミーとグレン

作者: 藍沢 理
掲載日:2025/10/21

 夕暮れの光が窓から差し込むリビングで、エイミーは床に座り込んでいた。その横には黒い毛並みの大きな犬が寝そべっている。グレン。体長は一メートルを超え、がっしりとした体格を持つ犬だ。


 エイミーは背中を預けながら、小さな手でふわふわの毛をぎゅっと握っていた。


 キッチンでは母が夕食の準備をしていた。まな板の音、水の流れる音、そして魔導コンロの上で湯気を上げる大きな鍋。エイミーは母の姿をじっと見つめながら、時折手を伸ばしては下ろす。


 玄関から声が聞こえてきた。


「こんばんは。奥さんいらっしゃいますかー?」

「はいはーい」


 母は手を拭いて玄関へと向かう。その背中をエイミーの視線が追った。隣の奥さんだ。玄関先で話し声がする。最近町に入ってくる魔獣の話、近隣の人びとが柵を作っている話、そんな声だけがリビングまで届いていた。


 エイミーはグレンの毛を手放すと、床に両手をついた。小さな身体が揺れる。尻が持ち上がり、ぷるぷると震える足でつかまり立ちをした。まだ覚えたばかりの不安定な動きだった。


 グレンが頭を上げてエイミーを見つめると、彼女は一歩、また一歩と、キッチンへ向かって歩き出した。手は何も掴んでおらず、ふらふらと揺れながらも前へ進んでいく。


 グレンが低いうなり声を漏らした。玄関から母の声が届く。隣の奥さんとの話は続いているようだ。


「グレン、ちょっと静かにして」


 エイミーはキッチンの入口に到達して一度立ち止まり、ぱちぱちと手を叩いた。笑顔を浮かべてから、また歩き出す。


 グレンのうなり声が大きくなった。低く、長く、喉の奥から響く音。


「グレン!」


 母の声がやや強くなるが、それでもまだ玄関での話は終わらない。


 エイミーは魔導コンロの前に辿り着いて、鼻をひくひくさせた。甘い香り。知っている匂い。大好きなシチューの匂いだ。


 小さな手が空中で泳ぐ。鍋は高くて届かない。首を傾げ、きょろきょろと周りを見回した。


 少し離れた場所に、小さな木製の踏み台があった。ぷるぷるした足運びでそこに到達すると、彼女は両手で踏み台を押し始めた。踏み台が床の上を滑る。ガタガタと音を立てながら、コンロの前へ移動していく。


 グレンが一声、大きく吠えた。再び母の声がした。


「静かにして、グレン!」


 エイミーは踏み台をよじ登っていた。小さな手が踏み台の上に乗り、膝が続いて、満面の笑みで立ち上がる。今度は鍋の取っ手が見えた。


 グレンの吠え声が連続する。返事はなかった。


 エイミーが両手を伸ばして、鍋の取っ手に触れた。熱くない。木製の取っ手をぎゅっと握って引っ張ると、鍋が傾いで中身が揺れた。


 そのとき、黒い影が跳んだ。


 グレンが駆け抜けて、エイミーの身体を突き飛ばす。彼女は踏み台から押し出されて床に転がり、鍋が落ちた。


 グレンの背中に熱いシチューが降り注ぐ。


 悲鳴のような鳴き声。高く、長く、痛みに満ちた声でグレンが床を転げ回る。エイミーがつられるように大きな声で泣き出した。


 母が玄関から駆けてきた。床に転がったエイミーを見て、母の顔が青ざめた。その横で身体を丸めるグレン、そして床一面に広がるシチュー。そばには大きな鍋が転がっていた。


「エイミー!」


 母はエイミーに駈け寄って、怪我や火傷がないか確かめる。


「傷ひとつない……」


 母はグレンの背中を見て、再び青ざめた。急いで抱き上げてシンクへ運ぶと、水道を全開にし、冷たい水をグレンの背中にかけ続けた。


 グレンは短く鳴いて、ただ震えていた。


 玄関から父の声がすると、慌てた様子で隣の奥さんと一緒にキッチンに入ってきた。


「ただいま……何があった……」


 母はグレンに水をかけ続けながら、声を絞り出した。


「ごめんなさいごめんなさい」


 グレンは目を閉じたまま、水に打たれていた。



 エイミーは二歳になっていた。春の陽射しが庭の芝生に降り注いで、庭は木製の塀で囲まれていた。魔物対策で、父が新しく増設したものだ。簡易的ながらも一応の役目を果たしていた。


 エイミーが赤いボールを両手で抱えて庭の中央へ転がすと、ボールが芝生の上をゆっくりと進んでいく。小走りで追いかける。よちよちとした足取りだが、以前より安定していた。


 庭のど真ん中にグレンが寝そべっていた。背中には薄い傷跡が残り、毛が少し短くなった部分がある。陽の光を浴びながら、グレンは目を細めていた。


 木陰に置かれた椅子に母が座っていた。読書中のようだ。彼女は顔を上げてエイミーを確認し、また本へ視線を戻した。


 静かな午後。風が木の葉を揺らす音。鳥の声。エイミーの笑い声。


 ボールがグレンの鼻先まで転がってきた。エイミーのたどたどしい言葉に、グレンが尻尾を一度振る。


「ぐえん、ぼーる」


 エイミーはケラケラ笑いながらボールを拾って、また転がした。


 母はその様子をチラリと見て、微笑みながらページをめくる。平和な時間が流れていく。


 隣の家から悲鳴が上がった。女性の声。恐怖に満ちた叫び。それはもはや、断末魔の絶叫だった。


 母は肩を震わせて顔を上げると、本を膝の上に落とした。彼女は一点を見つめ、恐怖で固まっていた。

 隣との境界にある塀から木片が飛び散り、巨大な影が現れたからだ。


 四つ足で地面を踏みしめる獣。大人の男性二人分以上の大きさ。茶色の毛並み。尖った耳。長い鼻先。そして尻尾が三本。三尾獣と呼ばれる魔物だった。


 三尾獣はよだれを垂らして、低いうなり声を上げる。


 母は椅子から立ち上がれない。身体が動かなかった。


 エイミーが手を叩いた。太陽が宿った笑顔。無邪気にぱちぱちと手を叩き続ける。


「おっき! おっき!」


 三尾獣がエイミーに視線を固定した。うなり声が強くなり、大量のよだれが地面に滴る。


 エイミーは魔物を見たことがない。彼女は興味津々で、三尾獣へ駆け出そうとした。


 そのとき、何かが彼女の腕を咥えた。


 グレンの口が小さな腕を優しく噛んでいた。驚いたエイミーが立ち止まる。


「ぐえん?」


 グレンがエイミーの前に飛び出して、低く構えた。三尾獣を見据えながら牙を剥く。喉の奥から低いうなり声が漏れる。


 三尾獣も応じる。より大きく、より深く響くうなり声だった。


 刹那、三尾獣が動いた。狙いはグレンではない。背後のエイミーだ。左右にステップを踏みながら、一気に間合いを詰めてくる。速い。


 グレンが跳んだ。進路に割り込むと、グレンの牙と三尾獣の爪が交錯した。


 三尾獣が右へ方向を変えた。グレンも追う。今度は左へ。グレンは必ずエイミーが背後になるように先回りしていた。


 何度も何度も繰り返される攻防。三尾獣が回り込もうとするたび、グレンがその前に現れてエイミーへの道を塞いでいく。


 三尾獣の動きが変わった。標的がグレンに切り替わったようだ。大きな口が開いて鋭い牙を剥き出しにし、グレンに向かって突進しはじめた。


 グレンは横っ飛びで避けた。


 三尾獣は距離を詰め、前足がグレンに振り下ろされる。


 グレンは少し後退して避けようとしたが、三尾獣の爪がぐんと伸びた。長く、鋭く。


 避けようとしたグレンの背中が裂ける。


 グレンは声を上げず、ただ三尾獣を睨んでいた。


 犬と魔物。グレンは圧倒的に不利だった。


 三尾獣が追撃してきた。その口がグレンに迫る。


 フェイントだった。


 避けたグレンの横腹に、三尾獣の前足が直撃した。


 グレンの身体が家の壁に叩きつけられ、どさりと地面に落ちた。


 しばらく動かなかった。それでもグレンは立ち上がった。よろよろと。右の前足を地面につけず、浮かせている。骨が折れたようだ。


 三本足で立ちながらも、グレンは牙を剥いてうなり声を上げ続けた。


 三尾獣がエイミーに視線を向ける。彼女は泣いていた。


「ぐえん! ぐえん!」


 怪我をしたグレンを見つめ、涙を流しながら叫んでいる。


 三尾獣はエイミーから視線を外して、再びグレンを見据えた。うなり声を上げ続けるその姿は、明らかに邪魔な存在だ。三尾獣は再び地面を蹴った。


 グレンに向かって跳ぶ。大きな口には、禍々しい牙が見えていた。


 そのとき、三尾獣の視界から、グレンが消えた。


 慌てる三尾獣。


 グレンは三尾獣の下に潜り込んでいた。


 飛び上がって、三尾獣の腹に噛みつく。


 三尾獣がかん高い鳴き声を上げた。


 グレンの牙が深く食い込み、三尾獣の腹から血が滲む。


 三尾獣は地面に背中をつけて転がり始めた。激しく左右に。


 グレンは離さない。食いついたまま耐えていた。


 三尾獣の転がる速度が上がっていく。遠心力でグレンの身体が浮き、地面に叩きつけられる。右に、左に。それでもグレンは離さなかった。


 転がり続ける。


 突然、グレンの身体が宙に舞った。


 三尾獣の腹から大量の血が噴き出した。肉が千切れたのだ。


 庭の隅にどさりとグレンが落ちた。


 双方動かない。


「ぐえん?」


 エイミーの泣き声が止まったところで、三尾獣は塀を突き破って逃げていった。血の跡を残しながら。


 エイミーは急いでグレンに駆け寄る。涙の跡なんて気にしない。彼女はグレンが助けてくれたと分かっていた。


「ぐれん、あいがと」


 グレンは動かない。


「ぐえん、あいがとね」


 グレンは動かない。首を傾げる。


「どうしたの、ぐえん」


 返事はない。


 グレンの頭を撫でる。何度も、何度も。


「ぐえん、ねんね?」


 グレンは目を閉じたままだった。

 エイミーは話しかけ続けた。グレンの名前を呼び続けた。


 母は地面に膝をつき、手をつき、震えながら涙を流していた。一瞬の出来事だった。彼女は何もできなかった。


 春の陽射しは、変わらず庭を照らしていた。





(了)

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グエンの勇姿よ。 きっとこの一家はグエンを忘れない。
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