エイミーとグレン
夕暮れの光が窓から差し込むリビングで、エイミーは床に座り込んでいた。その横には黒い毛並みの大きな犬が寝そべっている。グレン。体長は一メートルを超え、がっしりとした体格を持つ犬だ。
エイミーは背中を預けながら、小さな手でふわふわの毛をぎゅっと握っていた。
キッチンでは母が夕食の準備をしていた。まな板の音、水の流れる音、そして魔導コンロの上で湯気を上げる大きな鍋。エイミーは母の姿をじっと見つめながら、時折手を伸ばしては下ろす。
玄関から声が聞こえてきた。
「こんばんは。奥さんいらっしゃいますかー?」
「はいはーい」
母は手を拭いて玄関へと向かう。その背中をエイミーの視線が追った。隣の奥さんだ。玄関先で話し声がする。最近町に入ってくる魔獣の話、近隣の人びとが柵を作っている話、そんな声だけがリビングまで届いていた。
エイミーはグレンの毛を手放すと、床に両手をついた。小さな身体が揺れる。尻が持ち上がり、ぷるぷると震える足でつかまり立ちをした。まだ覚えたばかりの不安定な動きだった。
グレンが頭を上げてエイミーを見つめると、彼女は一歩、また一歩と、キッチンへ向かって歩き出した。手は何も掴んでおらず、ふらふらと揺れながらも前へ進んでいく。
グレンが低いうなり声を漏らした。玄関から母の声が届く。隣の奥さんとの話は続いているようだ。
「グレン、ちょっと静かにして」
エイミーはキッチンの入口に到達して一度立ち止まり、ぱちぱちと手を叩いた。笑顔を浮かべてから、また歩き出す。
グレンのうなり声が大きくなった。低く、長く、喉の奥から響く音。
「グレン!」
母の声がやや強くなるが、それでもまだ玄関での話は終わらない。
エイミーは魔導コンロの前に辿り着いて、鼻をひくひくさせた。甘い香り。知っている匂い。大好きなシチューの匂いだ。
小さな手が空中で泳ぐ。鍋は高くて届かない。首を傾げ、きょろきょろと周りを見回した。
少し離れた場所に、小さな木製の踏み台があった。ぷるぷるした足運びでそこに到達すると、彼女は両手で踏み台を押し始めた。踏み台が床の上を滑る。ガタガタと音を立てながら、コンロの前へ移動していく。
グレンが一声、大きく吠えた。再び母の声がした。
「静かにして、グレン!」
エイミーは踏み台をよじ登っていた。小さな手が踏み台の上に乗り、膝が続いて、満面の笑みで立ち上がる。今度は鍋の取っ手が見えた。
グレンの吠え声が連続する。返事はなかった。
エイミーが両手を伸ばして、鍋の取っ手に触れた。熱くない。木製の取っ手をぎゅっと握って引っ張ると、鍋が傾いで中身が揺れた。
そのとき、黒い影が跳んだ。
グレンが駆け抜けて、エイミーの身体を突き飛ばす。彼女は踏み台から押し出されて床に転がり、鍋が落ちた。
グレンの背中に熱いシチューが降り注ぐ。
悲鳴のような鳴き声。高く、長く、痛みに満ちた声でグレンが床を転げ回る。エイミーがつられるように大きな声で泣き出した。
母が玄関から駆けてきた。床に転がったエイミーを見て、母の顔が青ざめた。その横で身体を丸めるグレン、そして床一面に広がるシチュー。そばには大きな鍋が転がっていた。
「エイミー!」
母はエイミーに駈け寄って、怪我や火傷がないか確かめる。
「傷ひとつない……」
母はグレンの背中を見て、再び青ざめた。急いで抱き上げてシンクへ運ぶと、水道を全開にし、冷たい水をグレンの背中にかけ続けた。
グレンは短く鳴いて、ただ震えていた。
玄関から父の声がすると、慌てた様子で隣の奥さんと一緒にキッチンに入ってきた。
「ただいま……何があった……」
母はグレンに水をかけ続けながら、声を絞り出した。
「ごめんなさいごめんなさい」
グレンは目を閉じたまま、水に打たれていた。
*
エイミーは二歳になっていた。春の陽射しが庭の芝生に降り注いで、庭は木製の塀で囲まれていた。魔物対策で、父が新しく増設したものだ。簡易的ながらも一応の役目を果たしていた。
エイミーが赤いボールを両手で抱えて庭の中央へ転がすと、ボールが芝生の上をゆっくりと進んでいく。小走りで追いかける。よちよちとした足取りだが、以前より安定していた。
庭のど真ん中にグレンが寝そべっていた。背中には薄い傷跡が残り、毛が少し短くなった部分がある。陽の光を浴びながら、グレンは目を細めていた。
木陰に置かれた椅子に母が座っていた。読書中のようだ。彼女は顔を上げてエイミーを確認し、また本へ視線を戻した。
静かな午後。風が木の葉を揺らす音。鳥の声。エイミーの笑い声。
ボールがグレンの鼻先まで転がってきた。エイミーのたどたどしい言葉に、グレンが尻尾を一度振る。
「ぐえん、ぼーる」
エイミーはケラケラ笑いながらボールを拾って、また転がした。
母はその様子をチラリと見て、微笑みながらページをめくる。平和な時間が流れていく。
隣の家から悲鳴が上がった。女性の声。恐怖に満ちた叫び。それはもはや、断末魔の絶叫だった。
母は肩を震わせて顔を上げると、本を膝の上に落とした。彼女は一点を見つめ、恐怖で固まっていた。
隣との境界にある塀から木片が飛び散り、巨大な影が現れたからだ。
四つ足で地面を踏みしめる獣。大人の男性二人分以上の大きさ。茶色の毛並み。尖った耳。長い鼻先。そして尻尾が三本。三尾獣と呼ばれる魔物だった。
三尾獣はよだれを垂らして、低いうなり声を上げる。
母は椅子から立ち上がれない。身体が動かなかった。
エイミーが手を叩いた。太陽が宿った笑顔。無邪気にぱちぱちと手を叩き続ける。
「おっき! おっき!」
三尾獣がエイミーに視線を固定した。うなり声が強くなり、大量のよだれが地面に滴る。
エイミーは魔物を見たことがない。彼女は興味津々で、三尾獣へ駆け出そうとした。
そのとき、何かが彼女の腕を咥えた。
グレンの口が小さな腕を優しく噛んでいた。驚いたエイミーが立ち止まる。
「ぐえん?」
グレンがエイミーの前に飛び出して、低く構えた。三尾獣を見据えながら牙を剥く。喉の奥から低いうなり声が漏れる。
三尾獣も応じる。より大きく、より深く響くうなり声だった。
刹那、三尾獣が動いた。狙いはグレンではない。背後のエイミーだ。左右にステップを踏みながら、一気に間合いを詰めてくる。速い。
グレンが跳んだ。進路に割り込むと、グレンの牙と三尾獣の爪が交錯した。
三尾獣が右へ方向を変えた。グレンも追う。今度は左へ。グレンは必ずエイミーが背後になるように先回りしていた。
何度も何度も繰り返される攻防。三尾獣が回り込もうとするたび、グレンがその前に現れてエイミーへの道を塞いでいく。
三尾獣の動きが変わった。標的がグレンに切り替わったようだ。大きな口が開いて鋭い牙を剥き出しにし、グレンに向かって突進しはじめた。
グレンは横っ飛びで避けた。
三尾獣は距離を詰め、前足がグレンに振り下ろされる。
グレンは少し後退して避けようとしたが、三尾獣の爪がぐんと伸びた。長く、鋭く。
避けようとしたグレンの背中が裂ける。
グレンは声を上げず、ただ三尾獣を睨んでいた。
犬と魔物。グレンは圧倒的に不利だった。
三尾獣が追撃してきた。その口がグレンに迫る。
フェイントだった。
避けたグレンの横腹に、三尾獣の前足が直撃した。
グレンの身体が家の壁に叩きつけられ、どさりと地面に落ちた。
しばらく動かなかった。それでもグレンは立ち上がった。よろよろと。右の前足を地面につけず、浮かせている。骨が折れたようだ。
三本足で立ちながらも、グレンは牙を剥いてうなり声を上げ続けた。
三尾獣がエイミーに視線を向ける。彼女は泣いていた。
「ぐえん! ぐえん!」
怪我をしたグレンを見つめ、涙を流しながら叫んでいる。
三尾獣はエイミーから視線を外して、再びグレンを見据えた。うなり声を上げ続けるその姿は、明らかに邪魔な存在だ。三尾獣は再び地面を蹴った。
グレンに向かって跳ぶ。大きな口には、禍々しい牙が見えていた。
そのとき、三尾獣の視界から、グレンが消えた。
慌てる三尾獣。
グレンは三尾獣の下に潜り込んでいた。
飛び上がって、三尾獣の腹に噛みつく。
三尾獣がかん高い鳴き声を上げた。
グレンの牙が深く食い込み、三尾獣の腹から血が滲む。
三尾獣は地面に背中をつけて転がり始めた。激しく左右に。
グレンは離さない。食いついたまま耐えていた。
三尾獣の転がる速度が上がっていく。遠心力でグレンの身体が浮き、地面に叩きつけられる。右に、左に。それでもグレンは離さなかった。
転がり続ける。
突然、グレンの身体が宙に舞った。
三尾獣の腹から大量の血が噴き出した。肉が千切れたのだ。
庭の隅にどさりとグレンが落ちた。
双方動かない。
「ぐえん?」
エイミーの泣き声が止まったところで、三尾獣は塀を突き破って逃げていった。血の跡を残しながら。
エイミーは急いでグレンに駆け寄る。涙の跡なんて気にしない。彼女はグレンが助けてくれたと分かっていた。
「ぐれん、あいがと」
グレンは動かない。
「ぐえん、あいがとね」
グレンは動かない。首を傾げる。
「どうしたの、ぐえん」
返事はない。
グレンの頭を撫でる。何度も、何度も。
「ぐえん、ねんね?」
グレンは目を閉じたままだった。
エイミーは話しかけ続けた。グレンの名前を呼び続けた。
母は地面に膝をつき、手をつき、震えながら涙を流していた。一瞬の出来事だった。彼女は何もできなかった。
春の陽射しは、変わらず庭を照らしていた。
(了)
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