第9話 最悪の初任務
――あれから何度も訓練を重ねた。
けれど、思うようにはうまくいかなかった。
仲間との連携は噛み合わず、
焦りばかりが積み重なり、胸の奥に重たい影を落としていった。
それでも。
しずくはついに――初めての任務に臨むことになった。
出発前。
リサの鋭い声が、張り詰めた空気を切り裂く。
「初任務は――偵察だ。
戦闘よりは軽い……が、油断はするな。初めての任務は必ず“牙”を向けてくる。」
紅の瞳が、しずくを射抜く。
「しずく。このチームはお前の隊だ。訓練で学んだことを忘れるな。」
「……はい!」
胸が苦しいほど高鳴り、緊張で手が汗ばむ。
(今度こそ――絶対に失敗しない。)
濃霧と湿気が絡みつく密林。
葉の隙間から光はほとんど差さず、空気は重く淀んでいた。
「ふぅー、蒸し暑いねぇ。偵察任務なんて楽勝でしょ~?」
先頭を軽快に歩きながら、ミカが軽口を叩く。
「楽勝……ですか。」
アヤメは
険しい目を向け、声を固くした。
「油断は禁物です。任務は一つのミスで失敗します。――規律を守ってください。」
「……」
ソラは無言で後方を歩く。
眉を寄せ、周囲を気にしながら視線を左右に走らせていた。
重い沈黙のまま、四人は森の奥へと進んでいく。
(なんとか……仲良くなりたいのに。)
しずくは声をかけられず、心の奥に不安を抱えたまま歩を進めた。
その時――地鳴り。
「……っ!?」
ミカが足を止め、思わず笑顔を引っ込める。
「な、なに?」
次の瞬間、木々が粉砕され、霧の奥から禍々しい外殻に覆われた怪物が姿を現した。
赤い双眸がぎらつき、獣のような咆哮が森を震わせる。
「嘘でしょ……ほんとに出た……!」
ミカの声が震えていた。
いつもの軽さは消え、剥き出しの恐怖が滲んでいた。
「配置についてください! 訓練通りに!」
しずくが必死に声を張る。
だが――。
「この状況なら、私が前に出るべきです!」
アヤメは冷たい声で言い放つと、誰の合図も待たずに魔素弾を撃ち放った。
「アヤメちゃん! 勝手な行動は――!」
轟音。
鋭い光弾がマガツの甲殻を抉る。
しずくの叫ぶ声は、咆哮にかき消された。
「――ッ!」
赤い瞳が怒りにぎらつき、巨体が震えた。
次の瞬間、マガツは触手を荒れ狂うように振り回し、密林を薙ぎ払う。
「やば……っ!」
ミカは支援武器を構えた瞬間、触手の一撃に体を弾かれた。
「――きゃあああっ!!」
崖際へ吹き飛ばされるミカ。
足場が崩れ、土と岩が一緒に落下していく。
「ミカちゃん!」
しずくが絶叫する。
次の瞬間、ミカの身体は崖下へ転げ落ちた。
「ミカちゃん!」
しずくが崖の縁に身を乗り出し、声を枯らす。
崖下では、転げ落ちたミカが必死に木の枝にしがみつきながらも、
下へと続く急斜面に引きずられていた。
そのさらに奥――黒い甲殻に覆われたマガツが、
軋む音を立ててゆっくりと降りていくのが見える。
その背後から、荒い足音が迫った。
「……しずく様!」
アヤメが険しい顔で駆け寄り、鋭い声を張る。
「あのマガツ……ミカを追っているのか……!」
吐き捨てるように言い、しずくの肩を掴む。
「一人を助けるために隊を危険に晒すのは愚策です!
今は撤退し、応援を要請すべきです!」
「……違う!」
しずくは振り返り、涙に滲んだ瞳で叫んだ。
その横に、おずおずと立つ影。
ソラだ。唇を噛みしめ、肩を小さく震わせながらも、勇気を振り絞って声を出す。
「しずくさん……わ、わたし……ほんとは……!
わたしは“後方観測”の担当だったのに……!
マガツが動く前に気づいて、警告を出すのが私の役目だったのに……!
怖くて声が出せなくて……だから、ミカが……!」
その声はか細く、それでいて後悔と罪悪感に押し潰されそうな響きを持っていた。
「ソラちゃん……」
しずくの胸に熱がこみ上げ、迷わず強く頷いた。
「大丈夫! 私たちで、必ずミカちゃんを助ける!」
霧の中、決意の声が鋭く響いた。
三人は崖を迂回し、急斜面を慎重に降りていく。
足場は不安定で、湿った土が靴の下で崩れ落ちた。
ようやく辿り着いた落下地点。
そこには砕けた岩肌と、折れた枝が散らばっていた。
その中央に、赤黒い跡が残っていた。
「……これ……。」
ソラが青ざめた顔で膝を折り、震える指先を血痕へ伸ばす。
「……ミカ、の……血……?」
アヤメは険しい目を細め、低く言い放った。
「やはり無謀です。そもそも今回の任務は偵察。
私たちは最小限の装備しか持っていません。実戦を想定していないのです。
これ以上深入りするのは――」
「ミカちゃんはまだ生きてる。絶対に!」
しずくは食い気味に声を重ねた。
その言葉に、ソラが小さく息を呑む。
「……生きて……る……?」
驚きと戸惑いが入り混じる。
しずくは迷わず血痕を指差した。
「見て! 血痕が続いてる。……移動した跡だよ!
ミカちゃんはまだ動ける、だから――生きてる!」
アヤメの顔に一瞬迷いが浮かぶ。
それでもしずくは構わず、強く頷いた。
「行こう! 必ず助けられる!」
血痕を辿った先に待っていたのは、口を開いた岩場。
――洞窟だ。
湿った空気が流れ出し、奥からはかすかな響きが返ってくる。
三人は顔を見合わせ、息を詰めた。
「……この中に……。」
しずくは唇を噛みしめ、足を踏み入れた。
その瞬間、奥からか細い声が響いてきた。
「……たすけ……て……!」
「ミカちゃん!」
しずくは反射的に駆け出した。
岩壁にすがるようにして立っていたのは、血に濡れた制服姿のミカだった。
「しずくちゃん……! アヤメ……ソラ……!」
弱々しい声で呼びかける。
「ミカがいます!」
ソラが声を張り上げ、三人は一斉に駆け寄ろうとした。
だが――。
「来るなっ!! こっちに来ちゃだめだ!!」
ミカの絶叫が洞窟に響いた。
「……え?」
しずくが足を止めた瞬間――。
――ズシン。
洞窟の入口から、巨影が姿を現す。
黒い甲殻、赤い瞳、うねる触手。
マガツが、ゆっくりと入り口を塞いでいく。
「嘘……!」
ソラが絶望の声を漏らす。
「逃げ道を……塞がれた……!」
アヤメが震える声で呟いた。
赤い瞳がぎらつき、洞窟の奥にいるミカを見据えている。
しずくの背筋に冷たいものが走った。
(……まさか、わざと……?)
その時、アヤメが息を呑み、低く吐き捨てる。
「ばかな……! ミカを“囮”にしたのか……!?
マガツに……知能があるとでもいうのか……!」
触手の音が、岩壁を叩くように響く。
しずくは唇を強く噛み、盾を構えた。
「……やるしかない。」
洞窟に張り詰めた空気を震わせるように、その声は響いた。
――初任務は、最悪の形で戦いに変わった。




