第87話 漆黒の決意
目の前の世界が裂けた。
咆哮はない。殺気すら漏れ出ない。
ただ、物理法則を無視した静寂の加速だけが、そこにあった。
「ッ……!!」
しずくは反射的に盾を構える。
ドゴォォォォォォォォォン!!!!!
「ぐ、ぅぅ……ッ!!」
重い。 まるで巨大な鉄球が叩きつけられたような衝撃。
しずくの華奢な体が悲鳴を上げ、
ブーツの踵が床の石材を削りながら数メートル後退させられる。
セレスの表情は凍りついたように動かない。
その瞳はガラス玉のように虚ろで、かつての慈愛に満ちた輝きは見る影もなかった。
手にした魔導杖が、
ミシンの針のような精密さと速度で、しずくの盾を連打する。
ガギンッ! ガガガガガッ!!
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
防戦一方だ。 盾を少しでもずらせば、その瞬間に心臓を貫かれる。
「カレンさん! 下がってください……!」
しずくが叫ぶ。 しかし、背後のカレンは動かない。動けない。
双剣をダラリと下げたまま、虚ろな目で、かつての師を見つめている。
(セレス、様……)
カレンの脳裏に、あの日の記憶がフラッシュバックする。
カレンはその場にいなかった。別の任務中だった。
本部に戻り、突きつけられた無慈悲な報告書。
ナンバー10、セレス・ディアス。死亡
頭が真っ白になった。 信じられなかった。
遺体すら戻らなかった死を、カレンはずっと受け入れられずにいた。
なのに、今。 その人が、変わり果てた姿で目の前にいる。
「……嫌だ」
カレンの手から、カラン……と一本の剣が滑り落ちた。
「戦えない……。私には……あなたを斬れません……ッ」
尊敬していた。 慕っていた。
その体に傷をつけることなど、カレンの魂が拒絶していた。
セレスの赤い瞳が、微かに揺れた気がした。
感情ではない。戦闘マシーンとしての演算処理。
目の前の盾持ちよりも、背後で戦意を喪失している剣士の方が、
処理しやすいと判断したのだ。
風切り音すら置き去りにして、セレスが動く。
しずくへの攻撃をフェイントにし、
床を滑るような低空移動で、一気にカレンへと標的を変えた。
「しまッ――!?」
しずくが気づいた時には、セレスはもうカレンの目の前にいた。
振り上げられる長杖。
その切っ先には、圧縮された高密度の魔力が青白く輝いている。
至近距離からの魔力爆破。
「あ……」
カレンは避けない。
ただ、涙に濡れた瞳で、振り下ろされる刃を見上げていた。
(これでいい……。セレス様に殺されるなら……)
それは、甘えだった。 罪悪感からの逃避だった。
「――何をボサッとしているんですかッ!!!」
ドンッ!!!!!
カレンの視界が横に弾かれた。横から、全力でカレンを突き飛ばしたのだ。
「え?」
カレンが床に転がりながら顔を上げる。
そこにいたのは、盾を構えたしずくだった。
間に合わない。防御姿勢が整っていない。
ズドォォォォォォォン!!!!!
青白い閃光が炸裂した。
「きゃああああああああああああッ!!!」
しずくの悲鳴。 爆風が吹き荒れ、煙が晴れる。
「……ぐ、ぅ……」
そこには、片膝をついたしずくの姿があった。
盾は形が歪み、盾を支えていた左腕は赤黒く焼け焦げている。
肩口からは大量の血が溢れ、白い戦闘服を鮮血に染めていた。
「し、しずく……!?」
カレンの顔色が蒼白になる。
自分のせいだ。 自分が呆けていたせいで。
「なんで……」
カレンの声が震える。
「なんで……私なんかを庇うの……。 私は……戦えないのに……」
「……ないで、ください」
「え?」
しずくが、ゆらりと立ち上がる。。
パンッ!
乾いた音が、静寂な回廊に響き渡った。
カレンの頬が赤く腫れ上がる。
しずくが、カレンの頬を全力で引っぱたいたのだ。
「え……?」
呆然とするカレンの胸倉を、しずくが右手で掴み上げる。
「……ふざけないでください!!」
しずくが叫んだ。 いつもの控えめな彼女からは想像もつかない、
凛とした怒声。
それは敵であるセレスにではなく、うずくまるカレンに向けられていた。
「しず、く……?」
しずくが苦痛に顔を歪めながらも、一歩も引かずにカレンを背中で庇う。
「あの人は……セレスさんは! 私の初陣で、命を懸けて守ってくれた人です!
誰よりも優しくて、気高い……本物の魔法少女でした!」
しずくの魔眼が、セレスの奥にある、囚われた青い魂の光を捉え、涙を流す。
「見てください……。 あんなに誇り高かった人が……あんな人形にされて……! 自分の意思とは関係なく、私たち殺そうとしているんですよ!?」
しずくが盾を構え直す。
その背中から立ち上る気迫は、かつてのセレスを彷彿とさせた。
「そんなこと……セレスさんが一番、望んでいないはずです!!
一番傷ついているのは、閉じ込められているセレスさん自身じゃないですか!!」
「ッ!!」
カレンの胸を、言葉の杭が貫いた。
しずくは泣いていた。 痛みにではない。
マガツの鎖に繋がれ、声なき悲鳴を上げているセレスの魂が見えてしまったから。
そして、その悲しみに気づこうともせず、
自分の死で楽になろうとしたカレンへの、愛ある叱咤。
「私は……あの人を止めます。 カレンさんがやらないなら、私がやります!」
しずくが血を吐きながら、特攻の姿勢をとる。
しずく一人で勝てる相手ではない。
死にに行くようなものだ。 それでも、彼女は逃げない。
それが№10の在るべき姿だから。
「……あ、あぁ……」
カレンの手が、床を強く握りしめる。 そうだ。 私は、何をしている。
セレス様は、私を守りたかったはずだ。 私に未来を託したはずだ。
その私が、セレス様の体を操る冒涜者を前にして、死を待つ?
あの方の汚された手を、自分の血でさらに汚させる?
(……違う)
それは愛じゃない。 それは忠義じゃない。 それはただの、冒涜だ。
「カレン。あなたは優しい子ね」
記憶の中のセレスが、悲しげに笑う。
「でも、守るためには……時には鬼になりなさい」
その言葉が、カレンの胸の奥底に眠っていた、別の記憶を呼び覚ました。
それはかつて、自分がしずくに対して放った、冷徹な教え。
「……しずく。覚悟をしておけ」
厳しい眼差しで、私はしずくに告げたはずだ。
「味方を、殺す覚悟だ」
そうだ。私は偉そうに、しずくにあんなことを言った。
なのに、今の私はどうだ。
いざその時が来たら、剣を捨て、
ただ泣いて死を待つだけの無様を晒している。
(私が……一番、覚悟できていないじゃないか)
みっともない。情けない。
後輩に頬を張られ、体を張って守られるまで、
自分の吐いた言葉すら忘れていたなんて。
カレンの瞳から、迷いの色が消えていく。
止まっていた心臓が、早鐘を打ち始める。
冷え切っていた血液が、熱いマグマのように全身を駆け巡る。
「……しずく。下がって」
静かな、しかし芯の通った声。
「え……?」
しずくが振り返る。 そこには、ゆっくりと立ち上がるカレンの姿があった。
落としていた双剣を拾い上げ、泥と血に濡れた頬を拭う。
その瞳は、もう濡れていない。
あるのは、セレスと同じ――いや、それ以上に研ぎ澄まされた、
魔法少女としての覚悟。
カレンが双剣を構える。 その構えは、目の前のセレスと全く同じものだった。
「ごめん、しずく。……ありがとう。目が覚めたよ。」
カレンの全身から、凄まじい密度の魔力が立ち上る。
それは回廊の空気を震わせ、床の破片を浮き上がらせる。
セレスがピクリと反応し、警戒するように重心を落とした。
人形と化した彼女の演算機能が、
目の前の獲物の危険度ランクを最大まで引き上げたのだ。
「セレス様」
カレンが、かつての師に語りかける。
返事はない。あるのは無機質な殺意だけ。 それでも、カレンは言葉を紡ぐ。
「貴女は教えてくれました。 魔法少女は、誰かを守るためにあると」
カレンが双剣を交差させる。 魔力が刃に収束し、漆黒色の光を放ち始める。
「だから、私は戦います。 貴女の誇りを守るために」
カレンが一歩、踏み出す。 殺気はない。
あるのは、深い悲しみと、それを乗り越えた先にある慈悲の刃。
「今の貴女は、セレス様じゃない。
貴女を縛り付けるその呪い……マガツの鎖ごと、私が断ち切ります」
カレンの瞳が、鋭く見開かれる。
「私が……貴女を解放します」
音もなく、セレスが動いた。 カレンも動いた。
二つの影が交錯する。 そこにはもう、
過去の関係などという甘えは存在しなかった。
ただ、死闘が幕を開けた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
流瑠々と申します。
もし「続きが気になる」と思っていただけましたら、
ブックマークや評価で応援していただけると、がんばれます。
次回 最愛のあなたへ お願いします。
流瑠々でした。




