第42話 首の穴
朝――
薄明かりが差し込む廊下を、
しずくは駆けていた。
胸の奥が、ざわめく。
誰かが、
何かが――
取り返しのつかないかたちで失われた気がして。
(まさか、そんな……)
早朝、施設内で見つかったという焼死体。
その一報を耳にした瞬間、
しずくの心臓は嫌な予感で跳ね上がった。
足音だけが、静まり返った廊下に響いていた。
言葉より先に、手が扉を叩く。
重たく開いたその向こう――
そこにいたのは、
静かに紅茶を口に運ぶミラ・ヴェイルの姿だった。
「……来たのね」
ミラの声は、
まるで予期していたかのように落ち着いていた。
しずくは荒い息を整えながら、
震える声で言った。
「今朝の――あの焼死体って……もしかして……」
ミラは、ただ静かに頷いた。
「……そうよ。ヘーゲルよ」
その瞬間、
しずくの背中に、冷たいものが走った――
「ミラさん! 本当に――殺すなんて!!」
涙交じりに言葉が飛ぶ。
「どうして、どうしてそんなことを……」
彼女は一歩、ミラへと近づいた。
なんとか理解しようと、叫びたかった。
その瞬間――
ミラの横に、ひとりのメイドが姿を現した。
表情は――警戒の色をたたえていた。
「シズ、大丈夫よ」
ミラが静かに言うと、
姿を現していたメイド――
シズは一歩、影へと下がった。
「たしかに、ヘーゲルを燃やしたのは私」
「……じゃあ、本当に……!」
しずくの言葉は震え、途切れた。
けれど――
ミラはわずかに視線を逸らしながら、
淡々と続けた。
「でも、私が火を放った時には、
もう彼は……死んでいたの」
「……えっ……?」
しずくの呼吸が止まる。
瞬間、部屋の空気が張り詰めたように感じた。
ミラの瞳が、ゆっくりと暗い光を帯びる。
「話しておくわ。あの夜、何が起きたのかを。」
――昨夜
しずくが暗闇の廊下に消えていくのを見送った後、
ミラは無言のまま振り返り、鋭く言い放った。
「――早く動きなさい」
その声に、ヘーゲルは肩を跳ねさせた。
「はぁ、はぁ……無茶言うな……!」
息を乱しながら、壁にもたれるようにして進もうとする。
「誰のせいだ、誰の……」
その声が、うっすらと震えていた。
扉の向こうから、静かな足音が近づいてくる。
黒のメイド服を身に纏ったシズが、姿を現した。
「ミラ様、イザベラ様に報告いたしました。
どうやら、ユナイトアーク内でも何かがあったと気付かれたようです。
警備がすぐに巡回を開始します。
怪しまれないうちに早急に身を隠す必要があります」
その声には、淡い焦りが混じっていた。
ミラは小さく舌打ちする。
横で控えるアメリーが、
「ミラ様、どうしますか?」
と声を掛ける。
ミラは数秒だけ、無言で考えた。
そして冷ややかに言った。
「――その先の、隠し部屋へ。
まずはこいつをそこに隠して、私たちは一旦部屋に戻るわ」
シズ、アメリーが即座に応じる。
「はっ!」
廊下の奥。
壁際に立つシズが右手の人差し指でタイルを探るように触った。
カチリ、と小さな音。
タイルが外れ、
内側に隠されたボタンが露出する。
彼女がそのボタンを押すと、
壁面がゆっくりとスライドし、
隠し扉が現れた。
アメリーが、荒々しくヘーゲルを部屋へと蹴り入れた。
「いい? 死にたくなかったら、ここで息を殺して待っていなさい!
すぐに戻るから」
ミラの声が冷たく響く。
「シズ、アメリー、戻るわよ」
ミラの指示に、
二人のメイドが静かに動き出した。
しかし、ヘーゲル卿の声が響いた。
「――ま、待て!」
「なによ! こんなときに!」
ミラが咄嗟に振り返る。
「マガツを――お前らが思っているような化物だと、思うな!」
ヘーゲルの顔には、憤りと恐怖が交錯している。
ミラは一瞬、言葉を失った。
「いいか、マガツをただの化物だと思うな!
敵を、勘違いするな!」
その声は低く、
だが確実にビリビリと膜を震わせた。
ミラの目が、暗く鋭く光る。
「すぐ戻るから――その話聞かせなさい!!」
扉の軋む音。
ヘーゲル卿を残し、三人は廊下へ出た。
足音を立てぬように、暗い廊下を進む。
真夜中――
冷たい空気が、肌に触れた。
ミラの部屋へ戻る途中も、
誰一人言葉を発することはなかった。
やがて、無言のまま部屋に戻ると、
シズが扉を閉じ、内鍵をかける。
その直後だった。
廊下の奥から、突如として駆ける足音が――
「――コンコンッ」
鋭く、しかし控えめなノック音が響いた。
「失礼します」
夜の静寂を裂くように、声が低く届いた。
扉の前に立っていたのは、
巡回警備のエクリプス隊員だった。
「ミラ様、先ほど警備網の一部に異常な反応がありました。
付近を巡回しておりますが――何か変わったことはありませんでしたか?」
言葉にはらはらとした緊張が滲み出ていた。
シズが即座に反応する。
「そんなくだらないことで、ミラ様のお休み時間を邪魔するなんて――」
彼女の口調は冷たく、隊員はたじろいだ。
ミラが静かに答える。
「……えぇ、特に何もないわよ」
その声に、わずかな苛立ちが混じっていた。
隊員は深く頭を下げて、急いで去っていった。
ミラはひと息ついた――
冷たい空気が喉を通り抜ける。
「行くわよ」
シズとアメリーが、暗がりに溶け込むように、
ミラのあとを追う。
再びあの場所へ戻り、
シズが壁の一角に手を当てる。
指先が迷いなくタイルの隙間をなぞり、
ある一点を押し込む。
微かな音とともに、隠し扉が再び静かに開く。
――その瞬間。
中の空気が、
あり得ないほど、冷たく、よどんでいた。
扉を開けたシズの瞳が揺れる。
「……ミ、ミラ様……」
そのか細い声に、ミラは何かを察した。
「どきなさい!」
半ばシズを押しのけるようにして前に出る。
狭い部屋の中。
そこには――
椅子に腰かけたまま、
動かぬヘーゲルの姿があった。
ミラはゆっくりと歩み寄り、
死体の前にしゃがみこむ。
顎を持ち上げる。
冷たくなった顔が露わになる。
「首元に……小さな、穴……」
ぽつりと呟いた。
争った形跡も、暴れた跡も――
何ひとつなかった。
まるで、
ただ静かに処理されたような死だった。
シズとアメリーが背後で顔を強張らせる。
恐怖が入り混じったような表情。
そのときだった。
ミラの背後に伸びた影が、
ゆらり、と揺れた。
静かな灯の下で、
その影は次第に形を変え、
まるで巨大な獣のように歪んでいく。
「……ミ、ミラ様……」
アメリーが震える声で呼ぶ。
だが、ミラは止まらない。
「……くそッ!!」
部屋に怒号が響いた。
拳を固く握りしめ、
ミラは床を踏みつけるように一歩踏み出す。
「どこの誰よ……こんな、バカにしたような殺し方……っ!」
「……明らかに私たちを、挑発している……!」
歯を食いしばり、
息を荒げるミラ。
普段のミラなら決して見せない取り乱し方。
アメリーが本能的に一歩引いた。
「……ッ……ふざけんじゃないわよ……っ……!」
震える息。
怒りで涙こそ流さないが、声がかすれる。
しばしの沈黙のあと――
「……失礼、取り乱したわ。」
低く、しかしまだ怒気を含んだ声。
「い、いえ……」
シズとアメリーは背筋を伸ばし、
気圧されながら返す。
「……こうなってしまっては、もう仕方ないわ」
ミラは冷たく言い放つ。
「身元が割れる前に、正体を消すしかない。
――燃やして、処分するわ」
「かしこまりました」
シズとアメリーが一礼し、
死体を丁寧に運び出していく。
残されたミラは、
ひとり、静かにその場に立ち尽くした。
微かに震えるその手が、
拳を固く握りしめる。
「……覚えてなさい」
「絶対に……殺してやるんだから」
暗がりの中、
ミラの瞳が赤く、静かに光っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます
流瑠々と申します。
もし「続きが気になる」と思っていただけましたら、
ブックマークや評価で応援していただけると、がんばれます。
次回 デートをしましょう お願いします




