第18話 禁忌の囁き
瓦礫の山に蒼光が差し込み、砂煙の中から小さな影が立ち上がった。
両腕に抱かれていたのは――ユイの母。
血に濡れてはいるが、まだ生きていた。
「お母さんっ!」
ユイが叫び、仲間たちと一緒に駆け寄る。
「ごめんね……ユイ……」
母の唇が震え、か細い声が漏れる。
ユイは泣きながらその胸に飛び込み、抱き締めた。
周りの誰もが息を呑み、しずくは胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
「……助かったんだね。」
ミカが泣き笑いで言い、ソラもほっとしたように目を伏せる。
母子はすぐに救護班に引き取られ、搬送されていった。
ユイは最後までしずくの手を握りしめ、涙の中で笑った。
「ありがとう……! お姉ちゃん……!」
しずくはぎこちなくも笑みを返した。仲間たちも自然と頬を緩める。
束の間、そこにあったのは確かに“救えた”という事実だった。
だが――空気を切り裂くような冷たい声が響いた。
「白封筒。こっちに来なさい」
ミラだった。
黒衣を揺らし、静かに瓦礫へと歩み寄る。
その足元、赤黒い巨体――倒れたはずのマガツが、まだ動いていた。
「……まだ生きてる……?」
しずくは無意識に呟いた。
ミラは横目で彼女を見やり、唇を吊り上げる。
「そうよ。見なさい、この生命力。これだけズタボロでも息をしている……
やはりただのマガツじゃないわ」
しずくは喉を鳴らす。確かに、常識では考えられない。
そこへ、白いフードを纏った司祭が片目から血を流しながら人波をかき分けて飛び出した。
狂気に濡れた目をぎらつかせ、ミラに叫ぶ。
「やめろ! 神に触れることは許されぬ! 我らが神を汚すな!」
ミラは影の中に立ち、赤い瞳を細めた。
「あなたたちのせいで、何人が死んだと思っているの? ……私はね、今すぐにでもあなたを殺せるのよ」
「ミラさん、それは……!」
しずくが慌てて声をかける。
司祭は口から泡を飛ばしながら叫んだ。
「黙れ! 私は守らねばならぬのだ、この神を!」
その時だった。
――声。
マガツから、かすかに、湿った空気を震わせる低い声。
「……タス……ケ……」
一瞬、時間が止まったように感じられた。
風が止み、遠くの叫びも、救助隊の機械音も、緩やかな波になって遠ざかっていく。
視界の端に走る振動がゆっくりと凍りつき、空間の温度が一瞬で冷たくなった。
しずくの目が見開かれる。
(……いま……声が……)
その事実だけが頭の中でこだまし、繰り返し繰り返し響く。
(マガツが……喋った……?)
思考は白く途切れ、ただその言葉だけが残響のように胸に焼き付いていた。
ミラも同時に息を呑み、振り返る。
周囲の人間は誰一人、反応していない。
聞こえていたのは――しずくと、ミラだけ。
時間が止まったかのようだった。
鼓動がやけに遅く響き、視界が白く霞む。
次の瞬間。
ミラの顔色が変わるのが、しずくにははっきり見えた。
先程の余裕と皮肉はそこになく、顔が崩れるように強張り、瞳が鋭く光る。
唇が引きつり、指先が震え始める。
「――ッ!」
影がうねり、黒い獣たちが一斉に飛び出す。
狼が牙を立て、蝙蝠が群れとなり、霧のような闇がマガツを覆った。
「やめろォォ!」
司祭の絶叫も無視し、ミラは影を操り続ける。
牙が肉を裂き、影が骨を砕き、巨体は原型を留めないほどに切り裂かれていった。
赤黒い血が瓦礫を染め、やがて動かなくなる。
ミラは肩を上下させ、血の飛沫を浴びたまま爪を噛んでいた。
「……ありえない……なんなのよ……今……マガツが喋った……?
ありえない……ふざけんじゃないわよ……」
低く零れた声は、怒りとも恐怖ともつかない震えを帯びていた。
震える声が夜に溶けていく。
しずくも言葉を失い、ただ盾を握り締める。
ミラは振り返り、鋭く呼んだ。
「白封筒!」
「は、はい!」
「今のことは――極秘。誰にも言ってはならない。余計な混乱を招くだけよ。……忘れなさい」
「……わ、わかりました」
しずくは小さく頷いた。
ミラは司祭を見て、冷たく言い放つ。
「こいつが何を知っているか……拷問でも何でもして絞り出すわ」
「ひ、ひいい! わたしは何も知らん! 何も――!」
エクリプスたちが司祭を拘束し、引きずっていった。
ミラは再びしずくを見据えた。
「白封筒。あなたの“守りたい”という気持ちは立派。でもそれが仲間を犠牲にすることもある。そのことを忘れないことね。……このままじゃ、いつか大きな過ちを犯すわよ」
しずくは息を呑み、震えながらも言葉を返す。
「……それでも、私は――守りたいです」
ミラは一瞬だけ目を細め、それから肩をすくめる。
「好きになさい」
その言葉を残し、影の中に消えていった。
しずくが息を整える間もなく、アヤメ、ミカ、ソラが駆け寄ってきた。
仲間たちの温かい笑顔が、ほんの少しだけ、彼女の震えを和らげた。
「ご無事で……本当によかったです」
アヤメが安堵の笑みを浮かべる。
「いやー、しずくちゃんマジでかっこよかったよ!」
ミカが親指を立て、いつもの調子で笑った。
「……すごく、頑張ったね」
ソラは静かにそう言って、しずくの背中をそっと支える。
仲間たちの温かい笑顔が、ほんの少しだけ、彼女の震えを和らげた。
「……ふふ」
力なく笑いながらも、しずくは口を開いた。
「ねぇ……帰ったらお風呂、みんなで入らない?」
「おっ、それ賛成!」
ミカが即座に飛びつく。
「ようやく落ち着けますね……」
アヤメが小さく息を吐き、微笑む。
「うん……今なら、ゆっくり浸かれるね」
ソラも頷いた。
寮に戻った四人は、戦闘服を脱ぎ捨てるように浴場へと向かった。
扉を開けると、湯気が白く立ちこめ、心をほどくような温かさが全身を包み込む。
四人は石造りの洗い場に並び、それぞれ身体を流していた。
「アヤメってさぁ……やっぱ胸でかいよね」
いきなりミカが呟き、横からむにゅっと手を伸ばす。
「ちょっ――なにを……っ!」
アヤメの豊かな胸が突然わしづかみにされ、思わず声を上げる。
「おおっ、やっぱ柔らかっ! 反応いいなぁ!」
ミカはわざとらしく手のひらを押し付け、ぐにぐに揉み回す。
「やめなさい! 無礼です!」
アヤメが真っ赤になってミカの手を払いのけようとするが、ミカはケラケラ笑いながら逃げ回る。
「だってさー、こんなの放っておけないでしょ!?」
「放っておきなさい!!」
湯殿に響き渡るドタバタに、しずくはどうしていいか分からず固まっていた。
その肩に、そっと布が触れる。
「しずくちゃん、あっちは気にしないで」
ソラが穏やかに言いながら、背中を丁寧に擦ってくれる。
「う、うん……」
背に伝わるやわらかな手つきと、後ろで繰り広げられる騒ぎ。
しずくはむず痒さとくすぐったさに身を縮めながら、赤くなって俯いた。
「はい、流します。」
ソラが桶で湯をかけると、しずくは思わず声を漏らす。
「ふわっ……!」
「だ、大丈夫? 熱かったですか?」
「ち、ちがう……ただ、びっくりしただけ……」
頬を染めて小さく答えるしずくに、ソラは少し微笑んだ。
「このぉ! やめろって言ってるでしょ!」
アヤメが反撃し、桶の湯をばしゃっとミカに浴びせる。
「きゃっ! おいアヤメ、それは反則!」
「自業自得です!」
髪をびしょ濡れにしたミカが大げさに騒ぎ、浴場は笑いと水音でいっぱいになった。
やがて一通りのドタバタが収まると、四人はようやく湯殿に肩まで浸かった。
身体の傷がじんわりと熱に溶け、張り詰めていた心まで解けていく気がした。
「……あったかい……」
しずくは目を閉じ、ほんのひとときでも戦場を忘れられる安らぎに身を任せた。
「しずく様」
隣に座るアヤメが、真剣な声で呼びかける。
「今日のご判断……本当に立派でした。ですが、危険を冒しすぎです。どうか……次はもっとご自分を大切に」
「……うん。ありがとう、アヤメ」
しずくは少し俯き、頬を赤らめながらも微笑んだ。
「ほらほら! 堅い話はナシ! 今日は“勝利の祝福”だよ!」
ミカが桶で湯をすくい、ばしゃりとアヤメにかける。
「きゃっ……!」
またもや慌てるアヤメに、ソラが小さく吹き出した。
「……ふふ。アヤメでもそんな声出すんだ」
「ソラまで……!」
頬を真っ赤にしたアヤメを見て、湯船は笑いに包まれる。
しずくもつい、声を上げて笑った。
――この瞬間だけは、確かに戦いを忘れられる。
笑い声が小さく夜に溶けていった。
――だが。
要塞の塔の上。
蒼白な月を背に、影の女が立っていた。
№8、ミラ・ヴェイル。
赤い瞳を細め、遠くの街を見下ろす。
「……あれは、なんだったのかしら」
吐息のような声が夜に溶ける。
「マガツが“喋る”なんて……絶対にありえない」
彼女の影がざわめき、黒い獣たちが足元を彷徨う。
その真紅の瞳に宿ったのは、苛立ちと――恐怖。
「……もし、あれが始まりだとしたら」
ミラの表情が闇に沈む。
「――人類は、本当に滅ぶかもしれないわね」
月明かりに照らされる影が、静かに夜風に揺れた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
流瑠々と申します。
ナンバーズの戦いかがでしたでしょうか。
人類が深淵を覗く回でした。
話すマガツとはいったいなんなのか。
次回 開花の儀 お楽しみに
流瑠々でした。




