金で買われた令嬢は幸せになるため図太くやらかす
ゆるゆるな世界観。
「きみとは白い結婚を貫かせてもらおう」
それが、初夜に夫となった男から言われたセリフであった。
まず、初手ぶん殴りという肉体言語に訴えなかっただけ彼は私に感謝すべきだと思う。
事の発端がどこからか、と言われるとエリンにはよくわからないのでそこはすっ飛ばす事にする。
ただ、この馬鹿みたいな茶番に巻き込まれたのは要するに金で買われたからだ。
エリンは子爵家の娘である。
爵位こそ低いものの、それでも貴族令嬢としてこうあれと育てられてきた。
いずれはどこぞに嫁ぐつもりであったので、淑女としての基本はバッチリ教えられてきたのである。
ところで数年前に領地で災害がいくつか発生した。
大雨。川の氾濫。結果として畑の作物のほとんどが流される、などなど。
そういったあれこれに対して手を打っていったものの、台風やら猛暑やら、大自然はここぞとばかりに猛威を振るい始めたのである。一度にドカンときてくれればまだしも、一つ終われば次の年にまた一つ、という感じだったので、それはもう面白いくらいに金が飛んだ。放置していたところで何の解決にもならないので、様々な対応に追われ必要な物を用意して、本当なら必要じゃなかったけど急遽必要になった物の手配だとかをしていくうちに、予想外の出費のせいでそりゃもうお金が面白いくらいになくなっていった。
誰が悪いわけでもないのでそれはもう仕方がない。
災害に関しての対策を何もしていなかったわけではなかったが、それを上回る威力で猛威を振るわれてしまってはどうしようもなかった。
そんなわけで、急遽貧乏になりつつあった子爵家に、若い娘を嫁に迎えたい、という伯爵家からの資金援助をちらつかされてのお誘いである。
マトモに嫁を迎え入れられないような家、というわけではなかった。
ただ、その伯爵家のご子息は平民の娘に入れ込んで、真実の愛だなんだとのたまった挙句彼女以外とは結婚しないぞ! なんぞと我儘を言って両親を困らせていたのである。
そんな状態だったので、本当ならもっと早い段階で嫁を迎える事になっていたはずなのだが、そうやってごねにごねまくったせいで周囲の目ぼしい令嬢たちはさっさと他の相手と婚約したり結婚したりして、気付けばご子息の周囲に目ぼしいご令嬢はすっかりいなくなっていたのであった。
だからといって、ご子息の想い人を嫁にするわけにはいかない。なにせ平民なので。
何かの奇跡でもって、実は貴族の血が流れてたりしないだろうか、と両親は密かに調べたようだけど、どこぞの貴族が戯れに手を出した結果生まれた子、というわけでもなく、遡って調べられる範囲で調べた結果一滴も貴族の血など入っていない、完全に平民の娘であった。
流石にそうなると、貴族の嫁にというわけにもいかない。
この娘が何らかの功績を出せば、一代限りの爵位を与える、とかで貴族になれたかもしれないし、そうなれば息子の我儘は叶えられたかもしれないが、そんな事はなかったので。
娘は平民のまま、貴族になれる見込みはどこにもない。
そしてこの伯爵家の跡取りは悲しい事にこのご子息しかいなかったので、両親はそれはもう滾々と説教と説得を洗脳する勢いでもってかましたのである。
そうしてようやく、本当にようやく息子が諦めて貴族の娘と結婚する、と受け入れたものの。
その頃には目ぼしい令嬢は周囲におらず。
このままでは息子は結婚できないまま家が絶えてしまうかもしれない、となり。
そもそも社交界で息子が平民の娘に入れあげている事は知られていたので、そういう事情を知っている他の貴族家からすればちょっとお断り案件。
なのでまぁ、多少強引な手段であってもマネーパワーでもって嫁を迎え入れようとなって、目をつけられたのがエリンの家であった。
他の領地も自然災害でそれなりに苦労はしていたけれど、エリンの家程ではなかったのだ。
このままでは資金も底を尽き、領民たちも飢え死にするかもしれない。それどころか今年はいよいよ冬を越せなくなるかもしれぬ……となったところに資金援助のお話。旨い話ではあるけれど、エリンの両親は流石に渋った。
だが、その話に乗っかったのはエリンである。
確かに結婚相手として考えるとそのご子息はちょっとどうなのかな……と思わないでもないけれど、だが自分が嫁に行く事でうちの領地はどうにか持ち直せるだけの資金援助が約束されるのだ。
一人の犠牲――という言い方はエリンはあまり好きではないが、とにかくエリンが嫁げば両親や領民たちはどうにかなるのだ。
それならば、乗るしかない……この旨い話に……!!
となったのである。
まぁ、そのご子息は内心で諦めていないようだったので、初夜の日にこんなバカなことを言い出したわけだが。
どうしよう、伯爵家ってうちの子爵家に比べてお金もあったし、教育に手を抜いたとかではないと思うんだけど、何をどうしたらこんなおバカさんに育つんです?
と、エリンは危うく口からそんな言葉が飛び出そうになって、早々に寝室から立ち去ってしまった夫となった相手をただ見送るだけになってしまった。
金で買われたので、その金に見合う役割を果たさねばならない。
具体的に言うならば、この家の血を引いた子を産まねばならない。
「うーん、それなら当主様の方に行くべきかしら」
夫婦としての寝室にはもうご子息もいないので、エリンだけである。
部屋の外すぐに使用人が控えてはいないだろうけれど、それでも一部屋か二部屋離れたところには控えているはずだ。
だがしかし、寝室に入ってすぐに出て行ったご子息に対して何らかの反応もなさそう、というところから、これはマジであの両親、息子が改心したと思っている節もある。
この家の血を引いた子、であるならばぶっちゃけ当主との子でも問題はないわけで。
だが、それを言えばあのご夫人が間違いなくブチ切れそうだなぁ、とも思った。
「いやでもこの家の子育ての失敗だもの。あくまでもこの家の跡取りになる血筋の子を産むのが私の仕事であって、あのバカの矯正は含まれてないのよね。契約にもそんなんなかったし」
というかだ。
あのバカ息子が婚期を逃した結果、同年代の目ぼしいご令嬢は早々に他の相手とくっついたりしているので、同じく同年代のご令嬢を結婚相手にあてがおうにも、そうなると全く縁のない遠いところから無理矢理縁を作らなければならなくなる。だが、流石に今の今まで何の関わりもなければ何故うちとの結婚を? と思われるのが確実な家にそんな話を持ち込めるだろうか。
否。
答えは否である。
この家の周辺、関わりがあった家はご子息が平民に入れ込んでるのを暗黙の了解として知っていて、社交界では大っぴらに噂にしないけれど裏でひそひそしているとはいえ。
そんな噂を知らないくらい遠い関係のところまでその話が広まれば、伯爵家そのものの醜聞である。
まぁ、薄々知られてるんじゃないかなぁ……と思わなくもないのだが。
だが表向きハッキリ知られているのと、裏で暗黙の了解として知られているのとではやはり色々と違うのだ。暗黙の了解なら、表で堂々とその話題を口にするとかされないので、恥を無駄に広げるような事にはならない。まぁ裏で広まってる時点で大概……などと言ってはいけない。
みんなが知っていても、知らないふりをしているうちはまだマシなのである。
これが堂々と真正面からネタにされるようになると目も当てられない。何故って堂々と語り継がれていくからだ。運良く子供が生まれたとして、その息子か娘にも親のやらかしが伝わってしまうのである。それも身内の口から言われるならまだいいが、下手をすると初対面の令嬢か令息に「あぁ、あの!」なんて言われるのである。そうなると、子供の結婚は更に難しくなると言ってもいい。息子なら「あの親がいる家に嫁ぐんですの?」と令嬢が難色を示し、娘なら「嫁に来るならいいけど婿入りは勘弁だなぁ」と令息に煙たがられるから。
さておき、後継となるべき子が必要なので、子を産める女性が嫁に望ましいわけで。
そうなると年上よりは年下から選ばれる事の方が多い。ご子息の年齢から一つ二つ上、くらいならまだ問題のない範囲だろうけれど、五つや十も離れてくると流石にちょっとあのご両親なら難色を示すだろう。子を産むのにまだ問題のない年齢であっても、だ。
結果としてエリンが選ばれてしまったわけだ。
まぁエリンは健康が取り柄みたいな部分もあるので、そういう意味で声をかけられたのはわかる。これがもっと病弱そうなお嬢さんだったなら、こんな話を持ち掛けられる事もなかっただろう。
正直気持ち的にはあのバカ息子の両親の部屋に乗り込んで「お前んとこの息子どうなってんだよ全然わかってないじゃん!」と叫びたいくらいなのだが、困った事に現在エリンとバカ息子は言ってしまえば離れの屋敷にいる。両親は本宅とも言える屋敷だ。
敷地内的には庭を通ればすぐ、というところなのだが、時間帯は言わずもがな夜なので。
恐らくは、来客が来るわけでもない以上施錠は当たり前のようにされているだろう。
扉を強引に叩き続ければ使用人が誰かしらやってくるとは思うけれど、あまり派手に騒ぐとなるとこれまたこの家の醜聞がまた一つ積み重ねられてしまいかねない。しかもそれをやらかしたのがエリン、となると、最悪こちらに何らかの責任を問われるかもしれなかった。
原因はお前んとこの息子の教育の失敗にあると言ったとしてもだ。
恐らくあのバカ息子は両親の前では改心したように見せかけて、そうして上手い事この結婚生活を白い結婚として乗り切るつもりなのだろう。そうやって、子供が生まれなかった、というこちら側がさも悪いように見せかけた上で離縁を申し出て、愛する平民の彼女を後妻という形で迎え入れようとか考えているのだとは思う。
だが、エリンが黙って大人しくそんな相手の思惑に乗ってやるわけがない。
下手をすれば子供が産めなかった事を理由に援助した資金の返却を言われるかもしれないのだ。流石に困る。バカが仕組んだ白い結婚で何故自分が悪者にならねばならぬのか。
「……となると。
この離れにいる使用人はどっちについてるのかしらね……」
息子が改心したから大丈夫だろう、と思い込んでいる両親側であったならまだいい。
けれども、もし仮に、真実の愛だのなんだのといった茶番を尊いものだと思い込んだバカ息子サイドについてしまった使用人であるならば。
初夜に何もなかった、という事実を捻じ曲げて初夜はきちんと行われました、と口裏を合わせてくる可能性が高い。
エリンがいややってないです、と言ったところで、照れていらっしゃるとかなんとか言えば困った事に本当にそう思われるだろうから余計に腹立たしい。
両親サイドの使用人なら、仮に近くの部屋に控えていなかったとして、息子は改心したのだからちゃんと役目を果たすと思っているのだろう。
あと、高位貴族なら確実に後継ぎが必要、とかいうところは白い結婚で誤魔化されるのは困る、と考えて近くにお目付け役が控えている事は多いが、低位貴族の場合はそういったケースは案外少ない。
もしかしたら、エリンにはそういった相手が近くに控えていたら余計な緊張をさせてしまうかもしれない、とかいらぬ気遣いを発揮して使用人が控えていない可能性も考えられた。
ちなみに何も初夜だけをこの別宅とも言える離れで過ごすわけではなく、当面はこちらで夫婦として過ごす事になっている。
いずれ両親の跡を継いでバカ息子が当主となる予定ではあるが、今はまだ引継ぎができていない状態でもある。なので、仕事を引き継ぐにしてもまだ両親がやらねばならぬ部分が残っているから、それらを片付けつつ、親が近くにいては落ち着かぬだろうという事で新婚夫婦としてこちらで仲を深め、いずれ正式な当主となった際にあちらの屋敷に移る……という予定ではあるのだ。
どうせ部屋なんて離れてるだろうから、離れの屋敷じゃなくたって良かったのに。
というか、その方が同じ建物内という事でバカ息子がやらかした後自分もあのバカ息子の両親の部屋に乗り込めたのに。
「これは……明日の朝一が勝負かしらね」
そう呟いて。
エリンもまた部屋を出た。
夫婦の寝室として当面利用する予定だった部屋に一人でいても仕方がないからだ。
寝るところなどどこでもいいのだが、このままここで寝るとあのバカ息子が未練がましいとか言い出しかねない気がしたので。流石にそれは業腹すぎたので、エリンは自分に宛がわれた部屋へ戻ったのである。
身も蓋もなく言ってしまえば、エリンはあのバカ息子の事などこれっぽっちの情も抱いていないので。
あのバカがああいう態度に出るのなら、知ったこっちゃねぇや、とばかりに早々に彼女の中では切り捨てる事が決まってしまったのであった。向こうがこちらを気遣うつもりもないのなら、こっちが気遣ってやる必要もない。つまりは、そういう事だった。
――さて翌朝。
エリンは朝食を素早く済ませた後、早々に庭に出て本邸へと乗り込んだ。
両親が揃ってくれているのが理想だったが、困った事に父親の方は領地へと出向いてしまったようだ。
ちなみにバカ息子も一緒である。
恐らくは、父と息子の二人きりになって、昨日はどうだったか、なんて会話をしている可能性はとても高い。そしてあのバカ息子はしれっと初夜を済ませたかのように嘘を吐くのだろう。
屋敷に残されているのは母親だけではあるけれど、まぁそれならそれで構わない。こうなったらキャットファイトでもなんでもしてやろうじゃん、くらいの気持ちであった。実際に物理的な争いにならないとは思うけれども。
「あらエリンさん、おはようございます。よく眠れたかしら?」
「えぇそりゃもうぐっすりですわ。何せそういう事は一切! ありませんでしたから!」
身体的な負担ゼロなので、普通にベッドでぐっすりである、と言うのを隠す気もなくエリンは元気溌剌な笑みを浮かべてみせた。少なくとも淑女が浮かべるような笑みではない。
そして、その意味を即座に理解したバカ息子の母親――エミリアは思わず眉を顰めていた。
「どういう事かしら」
「どうもこうも。あ、ここでお話しして大丈夫ですか? 人払いは……まぁ、お任せします」
流石に立ち話というわけにもいかない。エミリアは夫を見送ってそれから部屋に戻ろうとしていたが、その直後にエリンがやって来たのでほぼ玄関先で出迎えてしまったようなものだ。そして確かにこんな場所で立ち話をするには、内容がどうかと思われたので颯爽とドレスの裾を翻し部屋へと向かう事にした。
「……なんですって、まさか切れてなかったというの!?」
「さぁ? それはこちらにはわかりかねます。ただ、確かにあのお坊ちゃんは白い結婚を貫かせてもらう、とぬかしてましたよ」
淑女の仮面をかぶるのも面倒なので、エリンはとっても砕けた口調で説明した。
「手切れ金まで渡したのにあの女……ッ!」
ぎりぃっ、と軋んだ音がエミリアの持つ扇子からしたが、まぁへし折れたりはしないだろう。そう判断してエリンは「いやどうでしょうねぇ」と口にした。
「手切れ金を渡したのであれば、内心で納得してなくても別れるしかない、とその……平民の方は思ったと思うんですよ。身を引くつもりではいたんじゃないでしょうか。金も受け取って身を引く気もない、となれば下手をすれば伯爵家を敵に回すわけですからね。流石にそこまでの馬鹿ではないでしょう」
エリンは領民たちとそれなりに関わってきたけれど、領民たちは平民であるので勿論貴族であるこちらに対して相応の態度をとっていた。多少、砕けた口調で会話をする事もあったけれど、それでも一定のラインを超えるような事はしていなかった。
平民は生まれて成長していくにつれ、貴族との関わり方だけはどの家も口を酸っぱくして子に教えていく。
子供のする事だから、で大らかに失態を許してくれる貴族もいるけれど、それだって何度もあるわけではない。貴族にもよるけれど、下手をすればやらかした子供だけが処分されるだけではなく、一家諸共……なんて事もあり得るのだ。最悪自分の命もかかっているとなれば、そりゃもう必死に教えるのは言うまでもない。
だから、恐らくは最初、バカ息子の意中の相手である平民の女――エミリアは記憶をたどって確か名前はニーネだと言っていた――は、失礼がないように出会った当初はとても畏まっていたはずなのだ。
だが、熱烈に口説かれて、徐々にバカ息子に絆されていくうちに惚れたかしたのだろう。そうしていつか彼の嫁になる事を夢見たか、愛人になる覚悟を決めていたか……まではエリンにもわからない。
ただ、両親が結婚を許してくれない、とかいう愚痴は恐らくバカ息子から聞いたとは思われる。
貴族と平民が結ばれるには、平民側が何らかの功績を出して貴族の仲間入りを認められるか、はたまた貴族側が身分を捨てて平民になるかだ。
そうでない場合は大体愛人という形になるので、常に日陰の身である。
そもそも貴族の令嬢との結婚を嫌だ嫌だと我儘言ってたからこそ、若い令嬢、ついでに身分は低めで平民っぽくもある、みたいなところから選んだというのに。
下手に同格か格上の家と縁付くような事になれば余計に気位ばかりが高い女はどうのこうのと言うだろうなと思っていた――実際そういった相手と縁付けるかは別として――からこそ、家格は低めのところから選んだというのに。
一応、家を存続させるためだけではなく、多少なりとも息子に配慮もしていたのだ。親なりに。
そこ配慮しなかったらもっと手っ取り早く相手を選んでとっくに結婚させていたというのに。
その程度の気遣いなんて無意味だぜ! とばかりにやらかした息子に、エミリアは暗い笑みを浮かべていた。どうしてくれようあのバカ息子。そんな言葉が口に出されてもいないのに聞こえてくる。
本来ならば奥様がお怒りに……! と使用人あたりなら恐れおののくだろうけれど、その場にいるエリンからすれば「でしょうねぇ。まったくもって同感です」としか言えなかった。
「それで、どうしましょう? 生憎と今からあのバカ息子――あぁ、失礼。でも流石にこれではそうとしか呼べませんし、ね? ともあれ、彼をその気にさせろとかまさか言い出したりしませんよね?
そこは終わった事として嫁入りしたわけですし。
これ、家を建てた後、完成した家を売るって名目でいざ買ってみたらまだ家は建ってすらいなかった、みたいな一歩間違うと詐欺扱いされるような事なんですけれど」
暗にこっちにあのバカ息子の教育とか押し付けんじゃねぇぞ、というのを匂わせてエリンは言った。
大体、平民の娘に入れあげていた息子をどうにか説得して貴族との結婚をとなったのだ。
既に息子は泣く泣く平民の娘とは別れて、貴族としての責務を果たすべく覚悟を決めた、という話で結婚の話をこちらも受けたわけで。まぁどっちかというと援助の方が大きいが、しかし援助もなしにこんなのと結婚とか冗談ではない。
経緯が経緯なので愛のある結婚とかは望んでいないエリンではあるが、流石に跡取り産まなきゃいけないのに相手がその行為すらしない、というのは困り果てる。そこは諦めて妥協してとりあえずやるだけやってくれれば後はこっそり愛人としてその平民の娘と繋がっていようともエリンとしては構わなかったというのに。
というか、正直あのバカ息子に関しては跡取り産むための行為と、あとは家を継がせた後家を潰すような真似さえしなければそれでいい、くらいには思っていたはずだ。
ところが子作りすら拒否する始末。
エリンが視界に入れる事すら拒絶してしまうくらいの不美人である、とかならまだしも、別にそうではない。輝くような美貌があるか、と言われるとそこまでではないが、それでもまぁ、視界に入れた途端あまりの不細工さに二度見する、とかそんな事はないし、むしろそれなりに愛嬌のある顔立ちだと言われてきたのだ。
貴族令嬢でありながらも、平民にもありそうな感じ、といったギリギリを攻めてる感があると言われればまぁそんな感じだろうか。
エリンにもあのバカ息子を今から篭絡しろとか言わんよね、そもそもそこら辺はそっちで既に片が付いたって話でしたよね、と言葉を濁しながらも言われた事で夫人としても貴方がどうにかなさい、とは言えなくなった。そもそも言えるはずもない。そんな事を言えば、自分たちは息子に貴族としての責務を果たす事の重要性すらマトモに教える事ができませんでした、というのを認める事になってしまうし、実際既にそうなりつつあるけれど、それをエリンに本当に口に出していった時点で社交界でどんな噂を流されてしまう事か。噂、いいえ事実です、とかしれっと言われる可能性がとても高い。
エリンを社交の場に出さなければ噂など広まりようがない、と思われるかもしれないが、ただでさえ平民に入れあげていると噂になっているのだ。そこにちゃんとした貴族の血を引いた妻を伴わず社交の場に出さないままとなれば、結婚したという話だけどあれって本当かしら? なんて勘繰りが発生するのが目に見えている。
社交の場に出さなければ仮にエリンとの間に子が生まれても、もしかして平民との間に生まれた子では? なんて噂も出るし、かといってエリンを社交の場に出せばたった一度であってもその隙に真実が明かされる可能性がある。
どちらに転んでも家の醜聞が広まるのは言うまでもない。
そもそも資金援助という形で嫁にした相手だ。
エリンからすれば正しく実家に金が払われているならまぁ当初の契約を果たすのは当然であるけれど、しかしそれ以上の情はない。契約外の事であるなら、己の面目を保つために真実を口にする事まで禁じる事は不可能。
多少なりとも、エリンがこの家の人間とそこそこ親しい間柄であった、とかであればそこで親切心を出してズバッと真実を口にせずとも、言葉を濁して誤魔化してくれたりもしたかもしれない。だがそこまでの仲ではないし、ましてや初夜を拒否ったバカ息子のせいでエリンにとってこの家の評価は限りなく低く見られているだろう。
それは、エミリアの目から見ても明らかだった。
エミリアがエリンの立場であってもそうだろうなと思うので、そこはもう何も言えない。
「とりあえずは、子供が必要なのですよね?
貴族の血を引いてるなら誰でもいい、とかならこちらで勝手に見繕って、とも考えたんですけど、この家の血筋ではない人間の子となると流石にお家乗っ取りになりかねない。では、この家の血を引いている相手であれば問題はない、となると」
ぴっ、とエリンは指を一本立てた。
「まず、既に子が作れたという実績を持つそちらの当主様と私が子を作る」
「冗談でしょう!?」
「年の離れた異母弟妹が自分のせいで生まれたと知ったらそちらのバカ息子どういう反応するんでしょうね?」
「それは流石に」
一応エミリアは夫との仲は良好だ。
これが結婚当初から今に至るまで冷めきった関係であったなら、それでもいいと言えたかもしれない。
けれどそうではなかったので。
曲がりなりにも愛がある相手。そんな相手が家のためとはいえ別の女と――それも自分の息子よりも年下の娘と、なんて考えただけでエミリアの胸は嫉妬か怒りかわからないが、とにかく炎で燃えてしまいそうだった。
エリンが己の旦那を寝取ろうとしている、とは思っていない。
大体息子が初夜を放棄しなければ、こんな提案を彼女が口に出すことはなかった。であれば、悪いのはこんな提案を口にしたエリンではなく、その原因を作った愚かな息子だ。
エミリアは貴族として、立派な淑女であれと育てられてきたからこそ、そこを理解してぐっと耐えた。これが平民だったら間違いなく耐えるどころかうちの旦那を狙おうってぇのかいこの泥棒猫! とか言って殴り掛かっていたに違いない。貴族として、立派な淑女として育てられてきたからこそ感情のままに振舞うなんて事をしなかったからこそ耐えられたようなものだ。あの厳しい教育の日々は決して無駄ではなかったのね、とかつての教師たちに感謝の念すらエミリアは抱き始めていた。
「どうしてもそちらのバカ息子と私との子が必要というのであれば。
次に提案できそうなのって……まずは息子さんの心を徹底的にへし折るとかでしょうか。
真実の愛だか何だか知りませんが、手切れ金受け取った以上はニーネという方は彼と関わらないようにするのが当然というものです。彼の方から迫ってくる、としても、手切れ金、そこそこ支払ったのでしょう?」
「えぇ、引っ越して新たな土地で生活を始めて生活の基盤が整えられるだろう期間、生活に困らない程度には」
「わぁとても破格」
息子がきっと自分の懐からそれなりに贈り物もしたであろう事を考えれば、それらを売ればそこそこの金になるだろう、とは思われる。
だがそういった物を一切計算にいれず、息子の前から消えて新しい土地でそれなりに生活できるだけの金を手切れ金として渡されたなら、すぐさまそうするべきだったはずだ。
これが引っ越して新しい土地でやっていくにも難しいくらいの、端金程度しか渡していなかったのであればともかく。
「別れる事に納得いかなくとも、手切れ金を受け取ってしまった以上は身を引くしかないわけです。
しかしそうしていないのなら、契約を無視した、ととっても構いませんよね。
なので、ニーネに死んでもらって、愛する者はもういないという現実を突きつけた上で種馬としてそちらの息子さんを扱うか」
手切れ金を受け取った以上は息子さんの方からそれでも迫ってきて、などと暢気に言える暇はない。その金でとっとと息子の目の届かないところまで行け、という意味合いも含まれていたのだから。
それでもまだ息子と関わるのであれば、いっそ手切れ金を突っ返すくらいはしておくべきだった。
金はもらう。でも別れない。では、伯爵家を馬鹿にしていると受け取られてもおかしくはないし、平民が貴族をそういう風に扱ったとなれば命がいらないようだな……となっても何もおかしくはないので。
これが手切れ金をその場で突っ返して「何を言われようとも私は彼を愛しているの!」とか言っておけばまだ貴族相手にそれだけ啖呵を切れるという点が多少評価されたかもしれないのに。結婚できるかは別として。
ニーネが実際どう思っているのかはエリンにもエミリアにもわからないが、手切れ金を受け取ってしまった以上、そして今もなお彼とのつながりがあるという点で、ニーネは伯爵家を虚仮にしている、と思われても仕方がない。息子が既に家を継いだ後ならばまだしも、現時点そうではないのだ。伯爵家の当主とその妻、二人に敵視されたとしても文句は言えない。いくら息子が庇おうともだ。むしろその息子のせいで命の危機に陥っていると把握するべきである。
邪魔者を始末、という点ではエミリアも考えた事があった。
だが、どのタイミングであの平民を始末したとして、息子が自分たちへの疑いを向けるのはほぼ確実であったし、そうなると余計に説得しようがないと思ったからこそ手切れ金を渡したのだ。
しかしそれでも別れていないのなら、今なら確かにそれを理由に始末して文句を言わせない、というのも可能ではある。ある、のだが……
流石に自分の息子を種馬扱いはちょっとな……とエミリアは躊躇った。確かにお馬鹿な息子ではあるけれど、まだそこまでの扱いに落とすのはちょっと、と思う程度にはまだ情が残っていたのである。淑女らしかぬ勢いでぶん殴りてぇあのバカ息子、と思う部分はあれど、種馬扱いとなると当主として後を継がせるのは難しくなってしまう。エリンが産んだ子が成長するまでの間、夫にもうしばらく頑張ってもらうにしても、先が長すぎる。表舞台から息子が姿を消して延々社交界に夫婦でいるとなると、それはそれで余計な勘繰りが発生しそうだし、できる事ならある程度のところでサクッと引退したい。
もういい年になってもまだ現役でいる貴族はいるし、生涯現役を謳う貴族も勿論いるのだけれど。
だがそういった相手は高確率で後継ぎの教育に失敗して家督を譲るわけにはいかない状態であるだとか、他の爵位を子に授けバシバシ功績を出している精力的な家かの二択である。
そうでなくとも平民に入れあげているという噂は広まっているので、息子が社交界から消えて伯爵夫妻が今もなお現役となれば、教育失敗のパターンね、となるのが見える。
種馬扱いともなれば、屋敷に監禁してそういった薬を飲ませてエリンとの子を作ってもらう事に専念――というか、それしかする事がなくなるだろうから、その後エリンが産んだ子を跡取りにするにしても、何があったかを察する家はそれなりにあるだろう。薬の効果は強く、気軽に飲ませるわけにはいかない代物なのでエリンと子の姿は見ても息子の姿があれ以来見えない、となれば間違いなく他の家から「あぁ、そういう……」とお察し案件になってしまう。
考えただけで頭が痛くなりそうだった。
いっそ貴族である事を息子が捨てて真実の愛に生きてくれれば、醜聞ではあるけれどまだどうにかなったはずなのに。
親類から後継ぎに適した養子を迎え入れるにしても、息子の存在がある以上はそう簡単に養子を迎える事も難しい。
息子が駆け落ちでもしていなくなった後なら、後継ぎになるはずだった者が出奔した、という不名誉な噂は巡るだろうけれど、いなくなったものは仕方ないから他の家から養子を……というのも手続きできたが、息子が家にいる以上跡取りがいるのだから養子は不要とされるのである。
その息子があまりにも馬鹿で後継ぎになるのは困難である、という証明ができれば養子を迎える事は可能になるが、その手続きをするのもまた家の醜聞に繋がってしまう。
あの家後継ぎにもできないような馬鹿しか育てられなかったんだって、なんて感じの噂が流れたのを想像するだけで顔から火が出そう。
あの平民と出会う前まではちゃんとしてたはずなのに……!
ただ種馬扱いをするだけならニーネを殺す必要はないように思えるが、しかしニーネが生きているままだと下手に希望を持ったまま虎視眈々と起死回生を狙うかもしれない。逃げ道を潰すという意味でニーネの死は必要になる。とはいえ、彼女が生きていても死んでいても息子が素直に従う事はもうないとわかりきっているので、それならもう邪魔だし処分しちゃおうかな、という方に天秤が傾いているわけで。
「あ、それからもう一つ。家の血筋を絶やさずに、かつ息子さんに無理強いしない方法があります」
「あるの!?」
「はい。ただ、当主様はあまり乗り気にならないかもしれませんが……」
「それは、夫との子を作るとか言い出した最初の案とは別物なのよね……?」
思わず不安になってエミリアは問いかけていた。
「違いますよ。似てるけど私と子を作るのは当主様ではなく――」
直後、エリンが口にした名前にエミリアは「あっ!」と思わず大きな声を出してしまったのである。
流石にエミリアだけで決めるわけにもいかなかったので、決断は領地から二人が戻ってきてからという事になった。
とはいえ、もうあのバカ息子に未来はない。
実際に戻ってきた夫にエミリアがどうだったか、を聞けば息子は初夜を迎えたと堂々と嘘を口にしていたようなので、真実をサクッと告げたのである。
初夜など実際はやってもいなかった事も、あの平民とまだ別れていなかった事も。
貴族としてようやく自覚をもってやっていく気になったのだ、と思っていた父からすれば、息子のそれは裏切りにも等しいものであった。
このままでは白い結婚を貫いて子が出来ないのをエリンのせいにして離縁を言い出した挙句、再婚ならばニーネであっても構わないだろう、なんてやらかしかねない。子ができるできない以前に、三年程あれば父は息子に伯爵家当主として引継ぎを終わらせている頃であるだろうし、彼が当主となれば強引に事を進めてニーネを妻に、という可能性はあり得るのだ。
薬を盛って息子を種馬扱いして子を作らせるにしても、その薬だって気軽に用意できるものではないので、入手したとなれば大体察した者たちは面白おかしく噂をするだろうし、かといって自分とエリンが子を……というのも彼にとっては抵抗があった。
若い娘。それも純潔とわかっている相手となれば、多少鼻の下が伸びても仕方ないんじゃないかな、と思う部分はあれど、だが妻を裏切るつもりは彼にはなかったのである。
どうしても跡取りは必要だが、だからって自分の子供より年下の相手と、というのはなんというか……流石にちょっと。
ちなみにもしここでちょっとでも乗り気な様子を見せていたら妻とは激しい夫婦喧嘩が勃発していたのは言うまでもない。彼はそういう意味では命拾いしたのである。
そうしてエリンが提案した三つ目の案を聞いて、当主自身も「あっ」と声に出したのであった。
――エリンが提案した三つ目の案は、伯爵家の血を引いた相手であればあのバカ息子でなくてもいいのでは? というもので。
かといって、妻がいる相手をという最初の案ではない。それはきっとエミリア自身が却下するだろうと信じていた。
エリンが提案した相手は、当主ではなく、その弟である。
「うまくいったわ」
どやっ、とばかりの表情でエリンは夫となった相手を見上げた。
自分の父親と同じくらいの年齢だと知ってはいるが、それでも実年齢より少しだけ若く見えるのでエリンと並んで立っていてもそこまで年齢が離れているようには見えない。精々が、ちょっと年の離れた兄かな? と思われるようなものだ。
「まさか本当にこんな事になるとは……」
エリンの淑女とは言えないような表情を、そっと両手で頬を包むようにして隠そうとした男はそのままむにむにとエリンの頬をしばし堪能していた。もちもちである。
伯爵家当主の男には、弟がいた。
弟の名はニコラス。伯爵家で暮らしていた時は見た目も相応に着飾っていたけれど、容姿は兄よりもやや地味め。そして社交的な性格でもなかったし、跡取りでもなかったからこそ彼はいずれは家を出る事を理解していた。まぁ平民にでもなって好きに暮らせばいいかな、ととても緩い感じに考えていたのである。
とはいえ、ニコラスは穏やかな性格ではあるものの平民になってやっていけるか、と言われると難しいんじゃないか? と思われたのだろう。彼には伯爵家が持っていた爵位から、子爵位を与えられ、ついでに伯爵家が所有していた領地から田舎の方ではあるけれど小さな土地も与えられたのである。
栄えているわけではないが、それなりに染料などを作って生計を立てている土地。
そんなところだったから、ニコラスは着飾ったりする必要もなくなった途端、びっくりするくらい周囲に埋没した。貴族って言われなきゃわからないレベルで周囲に溶け込んでいた。
流石に問題かもしれないなと思って、畏まった場の時だけはそれっぽく取り繕っていたけれど、普段は領地でできた染料を使って絵を描いたりしてのんびり気ままに過ごしていたのだ。そもそも染料は衣類を染めるためのものなので絵を描くには向いていないのだが、それでもニコラスは気にしていなかった。
衣類を染めた時と絵に使った時とでは色合いが異なるものの、その独特の画風が一部に受けたのかニコラスはちっぽけな領地の領主というよりは、画家として知られるようになっていった。
社交的な性格でもないし、わざわざこんな小さな田舎で暮らしたいお嬢さんがいるとは思っていなかったし、それ以前に本家で兄が嫁と暮らしているので、自分はまぁ与えられたものを享受しつつのんびり暮らしていけばいいや、と思っていたのだ。
貴族の男性としては、上昇志向のかけらもなくこれだけで彼がいかに貴族に向いていないかわかろうというもの。
前からそんなだったので、正直兄との仲も良好というわけではなかった。不仲でもなかったが、向こうからすれば弟がいる、と認識していてもそれ以上の興味はなかったのだと思う。
ニコラスの両親も、跡取りである兄に期待を持っていたが、弟にはさして何らかの希望も期待もしていなかった。ただ、家の恥になるような事だけはするなと言っていたくらいで、それ以外は結構自由にさせてくれていたのだ。
だから成人して家を出て田舎に引っ込んでからは、周囲との交流もほとんどなかった。
元々社交の場にも出ていなかったから、ニコラスという伯爵令息がいた、という事実すら憶えている者はあまりいないのではないだろうか。
領地にいた領民たちは以前からそれなりに各々でどうにかしていたようなので、ニコラスが領主としてやって来たからといって別段何かが変わるでもなく、普段通りであった事から、新しい領主というものに対して反感を持たれたりもしなかった。
一応領主が裁決をしないといけない事に関してはニコラスがやったけれど、今までのやり方に問題が出ない以上ニコラスは口を出すこともしなかったので、それもあってお互いに上手くやっていたというのもある。
風の噂で兄のところに子が生まれた時も、一応お祝いの品を贈りはしたけれど、受け取ったかどうかはどうでもよかった。
そうして日々を平穏に過ごしていたニコラスはある日、他の景色が描きたいなとなって画材道具を持ってちょっとした旅行気分で他の領地へとお邪魔した。
そこが、エリンのいる領地であったのは本当に偶然だったのだ。
エリンが暮らしていた土地の領民たちは単身でやって来た男に最初は警戒していたものの、ニコラスが無害であると知れば絵を描いている邪魔をしないようにしたり、時々採れた作物を分け与えたりもしていた。たまに遊びにきた孫に対する扱いだった。ニコラスが貴族と知らないからこそ領民たちの距離は近しかったが、ニコラスにとってそれは不快ではなかった。貴族として振舞う必要もなかったし、話の中で新たな染料になりそうな物のヒントももらえた。
貴族社会の中でニコラスは息を潜めて生きてきたけれど、そんな事もなくのびのびと過ごせる場所をこよなく愛したのである。
とはいえ、いくら気に入ったからとてそこに永住するわけにもいかない。仮にも彼はちっぽけな領地であっても領主であったし、今の生活はそこの収入でできている事も理解していた。
平民になれば、今よりも生活は厳しくなることを理解していたし、だからこそ彼は時々この地に訪れる客のような立場でしかなかったのだが。
ある時から立て続けに自然災害に見舞われて、大変な状態になってしまった。
ニコラスが描いた風景とはすっかり様変わりしてしまったのを見て、ニコラス自身思わぬ衝撃を受けた。
思った以上に自分はここを気に入っていたのだな、と今更のように自覚したのだ。
とはいえ資金援助をできる程ニコラスは懐に余裕がなかった。
普通の生活をしていく上でなら問題はないけれど、突然まとまった金をポンと用意できる程はなかったのだ。そうでなくともこの土地でニコラスは時折ふらりとやってくる画家の青年、くらいにしか思われていないし、絵を買ってくれる人がいないわけではないけれど、破格の値がつくほどでもない。食うに困らない程度。あくまでもそれだけ。
そんな大変な状況でも、ニコラスの事を憶えている領民たちは彼を歓迎してくれた。
自分たちだって大変だろうに、今までのように受け入れてくれて、自分はここの領地とは無関係なのに……と人の優しさに感動すらした。
できる事はほとんどなかったが、持て成されるだけというのを申し訳なく思って、男手が必要そうなところを手伝ったりもした。とはいえ、滞在期間は短いので、あまり助けになれたとは思っていない。それでも手伝った事に感謝されて、ニコラスは他に何かできる事はないか、と考えるようになったのである。自分の領地でもないのに。
そんな中、時々絵を描いている後ろの方でそれを見ていた少女が。
この領地を治める子爵家の娘が。
資金援助と引き換えに嫁ぐ事になった、という話を聞いて。
ニコラスは何とも言い難い気持ちに襲われたのだ。
ニコラスからすればエリンは年の離れた妹のようにしか見ていなかった。ただ、ニコラスが絵を描いている時、彼女は静かに後ろでそれを眺めていたのだ。何が楽しいのかわからないが、彼女なりに楽しんでいるようだったし、ニコラスの邪魔にもならなかったから好きにさせていた。
大体ニコラスもここで絵を描いて好きにさせてもらっているようなものだったので、邪魔さえしなければエリンの好きにさせていたというのもある。
絵を描くのを一段落させた時に、いくつかの質問をされた事はあるけれど、それだってタイミングを見ての事だったから邪魔だなんて思った事は一度もなかったし、エリンが気に入っている景色のいい場所にも案内してもらったりもした。
災害に見舞われて大変だった中、彼女も彼女なりにあちこち手伝いに回っていたのも知っている。
だから、彼女一人が嫁にいって、それで援助された資金で持ち直せば大勢が助かるというのも貴族として考えればわからなくもないのだ。
貴族の結婚なんて愛だとかいう以前に、お互いの利になるかどうかだ。
だから、向こうは若い嫁が必要で、こっちは金が必要という利による結婚は別におかしくもなんともない。
ただ、その嫁ぎ先がかつてのニコラスの生家である、という事実に。
今の今までそこまで気にしていなかった実家。
正直自分はもう伯爵令息ではなく子爵になっているので、あの家に行く事などなくなっていたけれど、それでも何してんの!? と思ったのも事実なわけで。
嫁ぐまでにまだ時間があったから、ニコラスは大急ぎで実家について調べようとして――エリンの家で既に調べた後だったので、その話を聞いて脱力した。
甥っ子が、まさか平民に入れあげて貴族の娘との結婚をしなかった結果が今、というその事実に。
跡取りとして育てられていた時の兄は完全無欠、みたいな状態だったくせに子育て失敗してるとかさぁ……と思ってしまったのは仕方あるまい。自分は独身で恋人の一人もいないけれど。
エリンにはどうして自分の嫁ぎ先を気にしているのか、と聞かれた。まぁそうだろう。だからこそ、洗いざらい喋った。自分があの家の血筋を引いた者であることも、今はどうだか知らないが自分が知る兄とその妻になった女性の事も。
甥っ子とはほぼ関わった事がないので何とも言えなかったけれど。
これから嫁ぐ先になるのだ。情報はあって困るものじゃない。だから、どれだけ役に立つかはわからないが、それでも。その情報が、彼女の身を少しでも助ける事になれば、という善意で。
それがまさか、こんな事になるとはあの時点でのニコラスは思ってもいなかったのだけれど。
甥っ子が平民に入れあげて、婚期を逃しまくった事は知った。跡取りは必要なので、若くて健康な貴族の娘が必要だというのもわかる。
そして、兄とその妻は息子に滾々と言い聞かせて結婚に同意させたのだろう。
そこまでは、ニコラスでも簡単に想像できた。
だが実際のところ甥っ子はその結婚を良しとしていなかった。
白い結婚を貫こうとして、それをよりにもよってエリンに宣言してしまった。
伯爵家の事などほとんど何も知らないと思っている嫁いできたばかりの娘に。
しかし実際は、その家の昔からの使用人の事だって知ってる相手だ。
それが、どういう事になるかも甥っ子は想像するどころか思い浮かびもしなかった。
結果として。
あの家の血を引く者の子であればいい、と話を誘導したエリンは。
家を出た後、特に話題にも出なかったせいですっかり忘れ去られていた当主の弟という存在を引っ張り出して。
甥っ子との結婚は無かったことになって、何故だかニコラスと結婚する事になったのである。
そこら辺の届け出とかの書類はどうした、となればそこは伯爵家の金の力でどうにかしたらしい。結果として甥っ子とエリンの結婚は手違いであったとされ、改めてニコラスとエリンとの結婚が正しい事とされてしまった。
エリンとの子を作る事すら拒否る息子と、自分の弟という確かな血筋の持ち主。
エリンはたくさん子供を産むので、その中からそちらの跡取りとして養子にする。なんて提案までしていた。まだ生まれてすらいないのに、というかまだ作ってすらいないのに。
だが、当主――兄からすれば、跡取りとしての血筋に問題がなければいいと思ったのだろう。もしニコラスに妻がいたらどうするんだ、と思ったがいないからこそエリンがこの案を口にしたのはわかっている。まさか、あの家でどうにかやっていくための情報として話した事からこんな事になるだなんて思ってもいなかった。
最悪兄とその妻がエリンを冷遇するようであれば、昔からの使用人だけでも味方につけるように、という気持ちもあったのだ。ところがそれ以前の話だったという事実。
養子を迎えるためには甥っ子の存在は邪魔になる。そうでなくとも、貴族としての責務だとかを軽んじているようでは、平民の娘を妻にしたとして、財産を食いつぶすばかりで家を傾かせるだろうと兄は判断してしまったために。
手切れ金を受け取ったにも関わらず息子と繋がっているようでは……と兄は平民の娘に息子を連れて遠い地へ行くようにと告げたのである。
告げた、というか実際は脅しだったのではないだろうか。相手が貴族なら話し合いになっただろうけれど、甥っ子の愛する者は平民だ。貴族と対等の立場で話し合うなど、まず兄は許さない。
場合によっては平民の娘の周囲――家族や親類、友人たちといった相手にまで何らかの不幸な事故が起きる可能性も示唆して、危機感をあおった。
結果としてその娘は伯爵家の馬車に揺られて、甥っ子と共に新天地へ向かう事となった。
もし娘が、甥っ子に言い寄られているだけで迷惑をしていた、というのであればもう少し違った結末もあったかもしれない。
けれど、あの娘はいずれ甥っ子が伯爵となる時に自分を妻にしてくれる、と思っていたようなので。手切れ金を渡されてそれを受け取っても、甥っ子と別れるつもりなど毛頭なかったようなので。
その場で殺されなかっただけマシな方だ。
そして甥っ子はというと、薬を盛られ子種を作れない身体にされた上で眠らされ、愛する女と共に追放となった。追放ではあるが、表向きは駆け落ちである。そうすることで、後々エリンとニコラスとの間に生まれた子を後継ぎとして養子にできるように。
兄が妻と今からもう一人子を作るにしても、一人目の時点で難産だったのもあって医者から二人目は難しいと言われていた。だからこそ、甥っ子は自分こそが跡取りで自分の立場は安泰なのだと思っていたのかもしれない。
だが、最低限マトモな血筋の子を作るという事すらしなかった事で、彼は駆け落ちした事にされ貴族という身分も剥奪されてしまった。
今後、あの二人がどうなるかまではニコラスにとって知る由はない。
「だからってエリン、きみねぇ、こんなおじさんと結婚するとか正気かい?」
「あら、だって私の役目は伯爵家の後継ぎを産む事です。やる気のない息子と、最低限貴族とは何であるか、を理解している男性となら、年齢差がどうあれやる気のある方を選ぶでしょう?
それにね、私の初恋でしたから。結ばれる可能性があったならどれだけ難しくてもそのチャンスを掴み取るべきだと思ったんですよこれでも」
頬をむにむにとしていた手に、エリンの手が重ねられる。
それとも、とエリンが続けたのは直後だった。
「若い娘はお嫌い?」
どう答えても自分の社会的立場が駄目になるような質問をされて。
ニコラスは頬から手を離し降参とばかりに手を上げたのである。
年の離れた妹のようだと思っていた娘は、どうやらとんでもない小悪魔だったらしい。
ニコラスの顔は、今までの人生でなった事がないくらい真っ赤に染まっていた。
平民のニーナさんですが彼女は手切れ金をもらった時点で一応、あ、これは完全に身を引かないといけないのね、とは理解していました。その上で最後にお別れの言葉を伝えておこうと思ったらバカ息子が、
「いずれ自分が後を継ぐのだから何も問題はない。そのままもう少しだけ待っていてくれ」
とか言い出して、本当に大丈夫? 本当? そう、とバカ息子に言いくるめられた節もあります。
平民、貴族の事情とかよくわかんない。なので大丈夫かな、でも実際に貴族でもある彼が言うのだから……それにいずれ後継ぎになるのなら本当に大丈夫なのかも、と押し切られました。
下手したら詐欺師に騙されてそう。
後になってやっぱり別れてないの駄目だったのね、となったけど、貴族じゃなくなった彼と新天地で生活する事になったのは彼女的には良かったのかも。バカ息子の幸せに繋がるかは不明。
作中でニーネって書いてるのにここでニーナって間違ってる事に気づきました。でも後書きなのでそこは修正しません。とりあえずニーネが正解ですウワーヤッチマッタァw
次回短編予告
転生した女性が自分の結婚フラグをへし折って旅立つ話。
ファンタジーって言う程ファンタジーしてないので安定のその他ジャンルに投稿予定です。